思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

白樺文学館 創成記ー9.日本オラクル社内報ー武田館長へのインタビュー がアップされました。

2017-11-03 | 白樺文学館

今日は、文化の日です。

「白樺文学館 創成記」ー9 (クリック

日本オラクル社内報・武田館長へのインタビュー がアップされました。
(わたしは49才の若さで、なぜか照れくさい・笑)

16年前の文学館開館時の様子がよく分かる貴重な資料と思います。

何事も「端緒が最も重要」でしょう。

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    紹介する文章は 「日本オラクル」の社内報で、『白樺文学館』開館時に武田康弘文学館館長(当時)が取材を受け、作成されたものです。
なぜ、日本オラクルか、というと、オラクルの初代社長・会長が佐野力さんだったからです。

 佐野さんは武田康弘主催の「哲学研究会」(いまは「恋知の会」)の一番熱心な参加者でしたが、彼の発案で「志賀直哉文学館」をつくることになり(資金は佐野さんが全額負担)、武田がその労を担うことになりました。しかし半年が経った時点で、志賀直吉(直哉の長男)さんから、「父の遺言により、記念館の類をつくることは、一切お断りします」との手紙が日本オラクルの佐野力社長宛に届き、志賀直哉文学館の創設は頓挫してしまいました。

 そこで、武田の発意で「白樺文学館」へと発展させ、白樺派全体を顕彰する学芸館として、21世紀のはじまり2001年1月11日にオープンとなったのです。そういういきさつがあって、この社内報がつくられたわけです。貴重な一資料と思います。 (古林 治)

 

     2000年12月 白樺文学館 完成時(撮影 武田康弘


 武田康弘

 

 

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1906年=漱石「坊ちゃん」 藤村「破戒」 伊藤左千夫「野菊の墓」 志賀直哉「天皇ノート」強い近代的自我意識は・・・・

2017-02-24 | 白樺文学館

 

まっすぐな自我と官僚的学校との衝突、痛快なアクション小説の「坊ちゃん」(夏目漱石)

社会的差別との闘い、実存的苦悩を抱えつつ乗り越える不退転の自我を描いた「破戒」(島崎藤村)

純粋な恋愛と社会通念による抑圧、個人の善美の実現の困難さをせつなく甘美に教える「野菊の墓」(伊藤左千夫)

明治政府がつくった天皇制という空しい思想と直哉の正直な自我、個人が消去される天皇主義のおぞましさを極めて率直に現した「天皇ノート」(志賀直哉)

すべて、近代の個人意識、自我の覚醒を軸としていますが、みな1906年=明治39年に出され(書かれ)たものです。現今の安倍内閣による教育改革、個人や自我の抑圧の思想=「教育勅語」称賛、愛国心教育への取り組みを見ると、明治の文豪たちが現した優れた思想との違いに驚きます。

アナクロニズムという以上に、退化してゆく愚かな精神を目の当たりにして、わたしは、日本という国の劣化、精神的退廃を深く感じざるを得ません。

ああ、110年前の文学者たちの輝かしい自我=個人は、この4年後には「大逆事件」=天皇制国家主義による怖ろしい弾圧がはじまり、冬の時代となりました。歴史は繰り返すで、再び、冬の時代=愛国主義で市民的自由が侵される時代へ、は冗談じゃないですよね。今度はわれわれ個人が国家主義に負けられません。子どもたちの自由を官府から守らないといけませんね。ぜひ、公共的(=市民的)連帯、みなで共に!

 


※この大逆事件(無実の幸徳秋水らが一日裁判で、即刻死刑)による冬の時代の始まりの年、1910年に、個性と個人の自由を謳う同人誌「白樺」が発刊され、柳宗悦、兼子は、保守政府と対峙し、朝鮮人との太い民間交流も成し遂げます。学習院の反逆児たちによる思想、宗教、教育、文学、美術、音楽の文化運動は、日本の人間復興(ルネサンス)となり、白樺山脈と言われるほどになったのです。彼らの【個人主義】は、その後、今日まで日本では右と左の全体主義・権威主義のために実現しませんでしたので、いまとても新鮮、未来を拓く思想です。

21世紀の白樺派は、「恋知」の生を広める運動が軸ですが、それは言葉の正しい意味での「個人主義」とも言えます。


武田康弘

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白樺文学館 創生記 その1 『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』に変わった理由。佐野力と武田康弘

2017-02-19 | 白樺文学館

 

白樺文学館  誕生秘話 1. 武田康弘(ホームページ作成は、古林治)

『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』

 

八木書店

1999年2月20日志賀直哉文学館プロジェクトスタート。
(写真は神田の八木書店にて.黄色のジャンパーが佐野力さん.)

哲研

その晩.哲研(哲学研究会)で志賀直哉文学館構想を発表.(中央:武田、後ろに佐野さんおよび当時の我孫子市長・福嶋浩彦さんが見える.)ソクラテス教室にて.

 

用地取得

1999年3月26日、皆川豊さん(左)から用地取得.武田(中央)の右は不動産仲介業の栗原年男さん.武田宅にて.

 

旧志賀直哉邸 奈良

1999年5月30日、まだ”志賀直哉文学館”構想であった頃。奈良の志賀直哉・旧居にて.
佐野さん(左)と武田(右)

 

文学館ロゴ

【白樺文学館】ロゴ、白樺派の代表的な活動であった雑誌『白樺』の表紙書体を利用.
● 誕生秘話 ●

1.『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へ

 ちょうど10年前の1999年2月に『志賀直哉文学館』の創設が始まり、それから丸2年、2001年1月に、それが『白樺文学館』として落成を迎えるまでの間、および開館後の数ヶ月間は、わたしの生涯の中でも最も多忙な時期でした。

 今年2009年4月1日、その『白樺文学館』は、オーナーで二代目館長である佐野力さんから我孫子市に寄贈され、市が運営することになりました。初代館長であるわたしは、この機会に、文学館創成の過程を振り返り、検証し、その意味を明確にする必要と責任があると思いますので、『白樺文学館創成ー誕生秘話』をシリーズとして順次発表していくことにします。

 

  1999年2月6日(土)、前日に「日本オラクル」の株式店頭公開を果たし、巨額の資金を手にした佐野さんは、わたしの家を訪れ、「武田先生、事情が変わ りました。お金があるのです。なにか面白いことを一緒にやりませんか。志賀直哉の文学館をつくるのはどうでしょう。武田塾の教育を広めるにも役立つと思う し。つくるにあたっては、理念も中身もすべて先生にお任せしたい。」と言いました。わたしは笑いながら即答しました。「いいですね。やりましょう。」

 わたしは、馴染みの神田神保町(神田生まれのわたしは、神保町の大型書店や古書街でいつも遊んでいた)にある「八木書店」に依頼して資料の収集をはじ め、土地を購入し、理念をつくり、建物のコンセプトを考え、定期的に志賀直哉の勉強会を開き、奈良の志賀直哉邸を佐野さんと共に訪ね、・・・・私塾で子ど もたちの勉強をみながら、そんな多忙な日々を送って7ヶ月が経過したある日、「週刊朝日」(99年9月10日号)に載った佐野さんの発言で『志賀直哉文学 館』の構想を知った志賀直吉さん(注1)から、「父の遺言により、記念館の類をつくることは一切お断りします」という手紙が日本オラクル(株)に届いたのです。

  9月なのに真夏のように暑い土曜日、佐野さんは困惑した様子でわたしの主宰する私塾『ソクラテス教室』を訪れました。「武田先生、どうしましょ う・・・」と言うので、わたしは即答しました。「佐野さん、何の問題もありませんよ。『白樺文学館』とすればいいのです。志賀は柳に誘われて我孫子に来た のですが、かれは同人誌「白樺」を代表する文学者であり、思想・文学・美術・音楽・教育等の白樺文化運動の一翼を担った人なのですから、ひろく白樺派を顕 彰する文学館とし、その中に志賀直哉に関する資料を展示すればOKです。」と。佐野さんは安堵し、その場で『志賀直哉文学館』は、『白樺文学館』になったのです。

  私は内心、「よかった」と思いました。というのは、私小説作家である志賀直哉ひとりを顕彰する文学館ではどうしても趣味性が強くなり、未来を開き、公共性をつくることが難しいからです。
白樺派は、白樺山脈といわれるほどの大きな影響を各分野に与えた日本最大の文化運動ですが、活動があまりに多岐にわたった為、その真価・核心を思想的に明 らかにすることは未だに不十分です。そのため、白樺派を顕彰する文学館(注2)をつくるとなれば、困難の度は飛躍的に高まりますが、その価値もまたはるか に大きなものとなります。「これは、やりがいがある仕事になったな。」わたしは、そう思ったのです。

  しかし、これが後に佐野さんとわたしとの別れを生む深因ともなりました。志賀直哉という一人の作家に拘る佐野さんは〈私性―趣味性〉に傾き、白樺派の精 神を現代に活かそうと発想するわたしは〈公共性―未来性〉に傾くのです。『志賀直哉文学館』から、白樺派を顕彰する『白樺文学館』とした時点で、佐野さんの最初の、そして赤裸々な「想い」を貫くことは出来なくなったのです。誰が計ったのでもなく、これは「運命」としか言いようがありません。

(注1) 志賀直吉さんは、志賀直哉の次男(長男は生後すぐに亡くなったので実際上の長男)で、岩波書店の専務を勤め、定年退職)
(注2) ほんとうは、名称は『白樺文芸館』の方がよいのですが、『志賀 直哉文学館』としてスタートしたため、『白樺文学館』という名称になりました。

 


 

2009年 4月16日  武田康弘

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倒れたわが友・松橋桂子さんと、柳兼子と「白樺文学館」のことなど。

2017-02-15 | 白樺文学館

 Facebook  2017年 2月 11日 武田康弘

 今日は、大学クラスの前に、作曲家の松橋桂子さんのお見舞いに行ってきました。松橋さんとは16年間の親しい友人です。
    先月、電話で「ガンが見つかり」と話されていましたが、2週間ほど前に突然倒れたのでした。ガン治療はもう無理なので療養所に転院しました。

 動けない松橋さんは、わたしの声を聞くなり、「ああ、武田さん!わが最強の友よ!」と言われました。


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 わたしは、1999年2月から「白樺文学館」の創設に心血を注ぎ、我孫子に集結した【白樺派の四人】(柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤、バーナード・リーチ)と名付けた理念をつくっていましたが、同年の10月に松橋さんが書かれた大著『柳兼子伝』(兼子の初の評伝)を読み、仰天!これは、大変な女性で、白樺運動の中心者の一人であると判断し、兼子さんを加え【白樺派の五人】としたのでした。
  そのために、白樺文学館の地下に音楽室(兼子さんのCDを最高の音で聴ける部屋とオーディオ装置)をつくりました。

 2001年1月11日の「白樺文学館開会式」に来られた松橋さんは、兼子のための音楽室を見、音を聴き、とても喜ばれ、「武田さんに感謝!こんなに嬉しいことはない。」と話され、意気投合したのでした。

 それから16年間の中身の濃いお付き合いですが、松橋さんは、文学館から教育館への移行時=わたしの苦しかった時代にも、いつも全力で尽力してくれました。一点の曇りなく、真っ直ぐにです。
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 今日の松橋さんは、頸椎も悪く、まったく動けないのに、気丈で頭は少しも衰えず、1時間5分、話し続けました。

 わたしとの驚きの出会いのこと、柳兼子のこと、白樺派ー柳夫妻や志賀直哉のこと、我孫子ー白樺文学館と教育館のこと、釧路での空襲=戦争持のこと、いまの酷い政治のこと・・・・・

 松橋さんは、話の途中で、「生きているんだから、楽しくなければしょうがないでしょ!」と妹さんに言い、妹さんは、「いつも姉に叱られるの。」と笑いました。
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 わたしは、松橋さんが倒れられてから今日まで、心がとても重くて言葉にならぬ気持ちでしたが、今日、病室で話して、ホッとしました。彼女の気丈さ、変わらぬ精神力はさすがです。少しもブレることのない見事な生き方、素晴らしい人生に、乾杯!です。

 昨年2月、白樺教育館での【ソクラテス教室40周年を祝う会】に駆けつけてくれた松橋さんの写真をA4に編集(コラボ)してもって行きましたが、見るなり、「楽しかったわよね、それ置いて行って」と、笑いを誘っていました。もちろん差し上げるための写真です(笑)。

 5か月前の9月14日、師の清瀬保二さんの「ヴァイオリンとピアノのための二楽章」を東京文化会館の小ホールで聴き、食事し、一杯飲みながら歓談をした日の日記もプリントアウトしてもっていきましたが、わたしが文章を朗読すると、「松橋桂子、偉いわね~~(笑)」と言いながら、とても喜ばれました。

以下の記事です。

2016年 9月14日のFacebook

松橋桂子さんと。
画像に含まれている可能性があるもの:2人、座ってる(複数の人)、食べ物、室内

 松橋さんは、日本の風土に根ざし深い世界的普遍性をもつわが国最高の作曲家であった清瀬保二さんを最期まで世話したお弟子さんで、柳兼子の初の伝記「楷書の絶唱」の著者でもあるーーー極めて詳細で明快な大著で圧倒されます。

 わたしが、我孫子市に「白樺文学館」をつくったとき、柳兼子を加えて「白樺派.の5人」としたのは、この書が発売になったからです。

 いまでは、すっかり定着した「兼子を白樺派の中心人物とする」見方は、わたしの決断によるものですが、それは、松橋さんの著作に依っています。

 我孫子市民も、柳家(駒場の日本民芸館)も、深く感謝すべきことでしょう。


 

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明日、わたしの講演会ですー「柳宗悦の思想のおもしろさ」

2011-07-17 | 白樺文学館

明日、午後3時から4時30分まで、「柳宗悦の思想、その面白さ」という講演会をします。講師はわたし武田康弘です。
柳に興味をもつ高校の先生方からの依頼です。
場所は、我孫子駅北口「エスパ」内の市民プラザ(「会議室」)ですので、お近くの方は、買い物がてらにぜひどうぞ。

詳しくは、こちらを。

武田康弘
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『白樺文学館』と『白樺教育館』の設計は、『国立西洋美術館』がモデルでした。

2010-06-01 | 白樺文学館

わたしは、1999年に始まり2001年に落成した『白樺文学館』をつくるとき、建物と家具等のデザインのコンセプトを『国立西洋美術館』のイメージに求めました。建築会議で、設計士や施工者にその旨を説明し、具体的な作業を行ったのです。家具はわたしが絵を描きディテールに至るまですべて責任をもちました。

また、2002年に始まり2004年に落成した『白樺教育館』も同じく、西洋美術館の基本思想を意識し、細かな仕様までわたしの意思を徹底しました。取っ手や看板に至るまですべて同一の考えで貫かれています。また肝心な部分は、具体的な作業もわたしが自ら行いました。

施工は大成建設。

わたしがルイ・コルビジェのデザインに見てとったコンセプトとは以下のようなものです。

①モダンであるが、クールではない。
②繊細・優美であり、かつ揺るぎない強さをもつ。
③展示という行為が過去の賛美ではなく、未来を拓く現代的意味を持つ。
④ディテールを大切にする。ていねいなつくり。
⑤新鮮さと落ち着きの両立した空間。
⑥こけおどしがない。自然である。


武田康弘

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わたしが【柳兼子の音楽室】(in白樺文学館)をつくった理由・経緯

2010-04-13 | 白樺文学館

以前に書きましたように、わたしは『白樺文学館』のコンセプトを創る作業に没頭していた時(1999年9月に『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へ変更をした直後)1999年の10月に、当時はまったく未知の方であった松橋桂子さんが『柳兼子伝』(水曜社刊)を出版されたことを知り、一読、驚愕しました。兼子は音楽における白樺を一人で代表し、朝鮮と日本各地で開いた数多くのコンサートは深く人々の心をとらえ、それは白樺と民芸運動を経済的にも支えたのでした。

この本が出版されたことで、わたしは、「白樺派の4人」としていた『白樺文学館』の基本構想を、柳兼子さんを加え「白樺派の5人」に変えたのです(白樺文学館の基本理念=「創造の知・我孫子」を参照してください)。

ちょうど、『志賀直哉文学館』から『白樺文学館』へと基本コンセプトを変更したために建物の設計をやり直していた最中でしたので、地下に「柳兼子を記念する音楽室」をつくることにしました。
コーヒーブレイクにある「よい趣味こそ人生最大の得ーわたしの半生」をご覧いただければお分かりのように、わたしは音楽好きのオーディオ少年でしたので(今もなお)、できるだけ忠実にかつ兼子さん声を美しく再現するための音楽室とオーディオつくりに没頭しました。とっても熱く(笑)。
幸いにもオーナーであり、わたしの主宰する哲学研究会の熱心な会員であった佐野力さんの会社(=「日本オラクル」)の店頭公開した株が1000倍もの高値になっていた為、資金に不足はなく、わたしは自由に音楽室とオーディオづくりができました。

実は、兼子さんは、日本の戦争政策に反対し軍歌を歌うことを拒否したために、第二次大戦中は活躍の場を奪われたのでした。歌い手としての全盛期のブランクは大きく、ようやく戦争が終わった後には兼子さんの存在は忘れられていました。そのために壮年期の記録がないのです。80歳を過ぎてからの日本歌曲を中心としたLP(文学館がオープンした直後・2001年にようやくCD化)だけなので、できるだけ艶やかで美しい音で再生し、多くの方に兼子さんの魅力、その前例のない深い歌声=歌の意味を掘り下げて曲のイデアに迫った芸術を知ってもらいたいと思い、オーディオ装置づくり(予算は500万円)・音楽室の設計・テーブルとソファーのデザイン・椅子の選定等に取り組んだのです。兼子さんのための音楽室ですから、オーディオ装置とその調音も「兼子チューン」なのです。

兼子さんを白樺派の中心者の一人としたことや、音楽室+独自のオーディオをつくることは、わたし一人の判断でしたが、それから9年が過ぎた今年4月10日、駒場の『日本民藝館』(西館)に『柳兼子記念室』がオープンしました。わが意を得たりです(嬉)。
出会いとはまことに不思議なもの。ちょうど『白樺文学館』構想としての再出発をした翌月に松橋桂子さんの『柳兼子伝』と出会い、貴重なLPを譲り受け、それが「兼子さんのための音楽室」に結実したのですから。

音楽室設計の苦労、オーディオ装置の選定の理由、失敗!とその救済策、テーブルとソファーのデザイン、中津川さんによる取っ手の彫刻、等々の【秘話】については、改めて書きましょう。しばらくお待ちください。

武田康弘

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白樺派、とはなんですか?→お応えします。

2009-10-30 | 白樺文学館

以下の質問がgooブログの「教えてgoo」のコーナーにありましたが、それへの回答がひどく浅薄でしたので、わたしがお応えします。

質問者:白樺派、とはなんですか?

久しぶりに小説でも読んでみようかな、と思いました。中学生の時読んだ、武者小路実篤の「友情」が、とても好きだったので、実篤について調べたところ、彼は、白樺派の作家であることが分かったのですが、その白樺派とはいったいなんですか?

調べてはみたのですが、難しい言葉ばかりで、ちょっと理解できませんでした。簡単な言葉で、説明してもらえると嬉しいです。

また、同じ白樺派の同人作家たちの作品は、実篤の作品に共通するところがあるので
しょうか?「友情」のような作品に再び出会いたいので、もし良ければ、本の紹介、してもらえると嬉しいです。

アドバイス、よろしくお願いします。
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(以下は、mさんの回答)

要するに「白樺派」というのは、上流階級の育ちのいいお坊ちゃん作家のグループであり、人間は自由であるべきだとか、人を信じることは素晴らしいとか、貧しい人たちにも愛情を注げば明るい社会ができるなどと考えるタイプで、よく言えば「モラリストで理想家肌」、悪く言えば「苦労知らずのおめでたい人」が集まった仲良しクラブのようなものです。

そういえば、武者小路実篤の小説に「お目出たき人」というものもあります。

ただ、所詮は上流階級の方々なので、武者小路実篤はユートピア社会の実現を目指して「新しき村」を建設したけれど、気紛れな言動も多く、有島武郎は人妻と心中するなど、人間としての限界、弱さも目立ちます。

まぁ、今も昔も、作家は作品をして語らしめるのであって、高邁な人間性を求めるものではないのでしょう。
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わたし(タケセン=武田康弘)の回答

お応えします。

学習院時代から文学や思想についての同人誌を出していた3つのグループが、雑誌「白樺」を創刊したのは1910年4月でした。この年の6月、無政府主義者の幸徳秋水が、天皇暗殺を企てたとして逮捕され、無実の罪で死刑が執行されました。この「大逆事件」について、政治には疎い志賀直哉も激しく憤り、政府批判の文章を残しています。また、8月には、「日韓併合条約」が調印され、事実上、日本は韓国を植民地としました。知識人たちは閉塞感に囚われ、政府に近い森鴎外でさえ、自由な文学の創作を諦めて「歴史小説」に限定せざるをえなくなりました。

こうした《天皇制国家主義》が大手を振るう時代に、自ら「異端者」を名乗る彼らが、その出自の特権性を活かして、自由と個性を賛美し、新たな時代を開こうとしたのが白樺派の文化運動だったのです。

千葉県我孫子に移り住んだ柳宗悦、兼子、志賀直哉、康子、武者小路実篤、房子、バーナード・リーチは、毎日のように交流しました。柳宗悦は、1919年に起きた朝鮮の「三.一独立運動」への弾圧=無差別発砲に激しい怒りと深い悲しみを持ち、翌1920年(柳31歳)に、「朝鮮人を想う」を読売新聞に書きましたが、これにより柳は、危険人物のリストに載せられ、官憲に見張られることになったのです。この年から柳夫妻は、朝鮮人を励まそうと幾度も朝鮮に渡り、兼子(リート歌手)は多くの音楽会を開き、宗悦は講演会を催しましたが、この草の根の民間交流は、朝鮮の人々に歓呼をもって迎えられたのでした。「民芸」という新しい思想=運動も、朝鮮の「ふだん使い」の陶器への感動から始まったのです。

若き獅子たちの「白樺派」としての文化運動は14年間で終わりましたが(関東大震災時まで)、その影響は、信州では自由と個性の教育運動として教師たちの間に野火のように広がり、「信州白樺」が発刊されましたし(武者と柳は信州を数十回も訪れ交流した)、近代日本最高の版画家となった棟方志功は、若いとき「白樺」で紹介されたゴッホを見て、「日本のゴッホになる」と決意したのでしたし、そのデビューは、柳に見出されたことによるのです。

さまざまな分野への白樺派の影響は、「白樺山脈」と呼ばれるほど深く大きなもので、概略だけでも書くのは大変です。なお、彼らは、みな極めて個性的ですので、同じ類の作品を他の同人に見言い出すことは困難です。

同人誌「白樺」に集った学習院出身者は、確かに特権的階級でしたが、それゆえに「おぼっちゃん」でしかなかったとは、到底言えません。暗い世相に抗して生み出した文学は、はじめて全文を口語文で書いたものですが、それは、誰でもが親しく読める小説を書くことで「民・文学」の世界を切り開いたものですし、日常品の中に高級品にはない豊かな美を見出し、その思想を世界的なものにしたのが柳の「民芸」運動ですし、平等に基づく自由な表現生活を目がけたのが武者の新しき村=「民・生活」でした。日本最高のリート歌手であり、朝鮮の人々から「声楽の神様」とまで呼ばれた柳兼子は、その音楽も人生も情と愛に溢れたもので、戦時中は軍歌を歌うことを拒否したために活躍の場を奪われたのですが、まさに「民・声楽」「民・人生」の一生でした。

そこに、「甘さ」を指摘し、社会科学的分析の欠如(「おめでたき人」を地で生きた武者の理想主義は、大東亜戦争をすばらしきものと讃えてしまう愚をおかしました)を指摘するのは簡単ですが、暗く重い時代に人間性豊かな思想や数多くの先進的な世界の文化を紹介し(一例・ロダンとの交流で彼から彫刻が贈られたのですが、これが日本に入ったはじめてのロダン彫刻でした)、また、自ら個性豊かな人生を開き、新たな文化を創造した業績は、計り知れない大きさを持ちます。

その内容をどう評価するかは自由ですが、「白樺派」は、日本で起きた最大の文化運動だったのです。匹敵するのは「プロレタリア文化運動」だけですが、これは純然たる文化運動とは言えないでしょう。

以上、少し長くなりましたが、ご参考になれば幸いです。

(我孫子市白樺文学館初代館長・武田康弘)


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志賀直哉の小林多喜二への手紙ー入手の経緯

2009-06-05 | 白樺文学館
わたしは、白樺文学館の「誕生秘話」(2)で、
ブレイクの石版画を、2000年(平成12年)の『古書七夕大入札会』(明治古典会主催)で入手したことを記しましたが、
実は、この同じ入札会に、文学史上有名な、小林多喜二に宛てた志賀直哉の書簡も出品されました。わたしはどうしても落札したいと思い、八木書店の取締役で古書部の店長である八木朗さん(※注1) にその旨を伝えました。

毎年7月に行われる「古書七夕入札会」は、個人で入札するのではなく、こちらが指名する業者(明治古典会会員の古書店・三十数社の内)に入札を依頼するシステムになっています。会場は、神田小川町の東京古書会館です。

ベテランの八木さんに託しましたが、落とせるかどうかは蓋を開けてみなければ分からないので、ドキドキです。後は祈るのみでした。結果はわずか8000円の差で(二百万円以上での8000円!です)入手できました。ホッとして全身の力が抜けたのを今でも覚えています(「競り」ではないので、落札できるかどうかは、文字通り蓋を開けるまで分からないのです)。
以上が、入手の経緯です。

ところが、

5月27日(水)の朝日新聞・「ニッポン 人・脈・記」に、白樺文学館オーナーで二代目館長だった佐野力さんのインタビュー記事として、朝日の早野透さんは、2001年9月より館の運営を佐野さんから任された渡辺貞夫さん(小樽商科大学の同級生)を紹介した後に「この人の快挙は、志賀直哉が小林多喜二に書いた手紙を館の宝にしたことである(※注2)『売りに出たのを、いくらかかっても手に入れたいと競り落としました』と佐野。」(5月27日朝日新聞)と書いています。

これでは、「この人」(ふつうに読めば渡辺さん、全体の文を見ると佐野さん)が入手したことになってしまいます。どうしてこんな「ストレートな嘘」が新聞記事になるのか?また、佐野さんの発言にある「競り落とした」というのも間違いです。とにかく「歴史の改ざん」はよくありません。今年4月1日から我孫子市が税金を使って運用する施設に変わったのですから、「事実」をそのまま伝えることが必要です。結果としてではあれ、公共の文化施設が「つくり話」を流布することになったのでは困ります。



(※注1)八木書店ー千代田区神田神保町1-1.八木朗さんには、わたしがお願いして2001年1月1日の白樺文学館開会式にも出席して頂きました。

(※注2)渡辺貞夫さんという方は、白樺文学館の創成時(1999年2月~2001年1月)においては、文学館とは何の関わりもなく、わたしがはじめて彼の存在を知ったのは、開館から半年後の2001年7月でした。9月から二代目館長に就任することになった佐野力さんが、運営を任せる人として私に紹介したのです。


武田康弘

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以下は、コメント欄のコピーです

文学館の歴史について (荒井達夫)

渡辺貞夫さんは、現在、文学館の顧問(公務員)です。市民の税金で報酬を受けながら、自らが担当する市の文化施設の歴史について嘘の話を伝えることは、違法であり、許されません。朝日新聞社に対して、ご本人が訂正を申し出るべきです。
我孫子市白樺文学館条例は、文学館を市の施設とする目的を「市民の文化の向上に寄与するため」と規定していますが、そのためには、文学館の設立の経緯について市民に正確に伝えることが不可欠です。文学館の顧問がこのような状況では、条例目的の達成はまったく不可能になります。市の担当部局も、放置しておくことは許されません。速やかな対応を求めます。
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武田さんはなぜやめられたのですか? (黒古寿夫)

2009-06-17 11:50:36
白樺文学館はその性格がよくわからない存在ですね。

「文学館」といいながら、文学にはあまり興味なく、陶芸の比重が高いように見えます。

それにしても武田さんはなぜ、館長をやめられたのですか?
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お応え (タケセン)
2009-06-18 00:44:50

わたしが館長を辞したのは、オーナーであった佐野力さんとの基本姿勢の相違からですが、 『白樺文学館創成記』の「誕生秘話」をお読み頂ければと思います。よろしければぜひご覧ください。


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