へなちょこかいご

アルツハイマー型認知症・80代の母との暮らしで思う事。
母は2021年秋に亡くなりました。父の事も少し。

父、最期の日 ①

2023年05月09日 | 父のこと
父は、訪問歯医者さんの治療のためイスに座ると、すうっと意識を失いました。

頭ががくんと後ろに倒れ、白目になったので、これは危ないと思い、

訪看さんからもらっていた緊急用の連絡先や手順の用紙を出し、訪問看護ステーションに電話。

状態を伝え、救急車を読んで病院にと指示をもらい、そのように。

歯医者さんは治療を中止して、父についていてくれましたが、搬送のジャマになるからと帰られました。

ぼんやりしていましたが、意識が戻った父に、救急車を呼んだと言うと、すんなり受け入れました。

大げさだ、うちの車でいい、などと言いそうですが、自分でも悪くなっているとわかったのでしょう。

母には「ピーポー鳴らさないで来てもらって」と言ったそうです。

しかしすでに電話を切っていたため、ピーポーを鳴らして救急車が到着。

私は携帯用の酸素ボンベなど持ち物の確認でバタバタしながら症状を伝え、

認知症の母に留守番は無理なので、母の服、持ち物も用意。

家からの救急搬送の時忘れがちなのが靴。

母の場合、何度か搬送されましたが、検査後たいてい帰宅となったので、

すぐ帰れるかもしれないと、靴を持って来て良かったと思ったものでした。

難聴の父との会話で、裏が白いチラシや紙をクリップボードに重ねて留め、マジックで書き伝えていました。

それをテーブルの上に置いていたのですが、ふと見ると救急隊員がそれで父に質問していました。

救急車呼んだ、などと書いてあったので、これを使うのだと察したのでしょう。

ちょっとなごみました。

病院に着くと、父は看護師さんに母と私のことを「疲れてるからもう帰して」と言っていました。

めずらしいことを…でも話せるまで回復したんだなと思いましたが、

これから手続きがあるのでね。

検査の結果、肺炎を起こしているとのことで、入院になりました。

苦しかっただろうな。我慢していたのか。大声も出せなかったか。

でもこれで治療できる、楽になるよ、と思っていると、

4人部屋と個室が空いていますがどうしますかと言われました。

どのくらいの期間になるか聞くと、1週間くらいとのことなので、個室にしました。

父は大きく咳き込むので同室の方々に迷惑になることと、

私達もゆっくり見舞いたいので。

説明や手続きを終えてタクシーで帰宅。夜8時過ぎていました。

翌日の朝、入院用品を届け、母の呼吸器科定期通院に。すると母もぜん息の具合が良くなく、

点滴になりました。

普段と変わりない様子ではありましたが、父のことで精一杯で、母の体調に気づけなかったなあと

反省しました。

点滴の間に訪問歯医者さんに電話し、事態の報告。気になっていたようなので、大丈夫ですとなるべく明るく。

母の点滴が終わり、院内のレストランで昼食後、買い物へ。

父の新しい下着、パジャマ、筆談用具、クリームなど買い、父の病院へ。

母の体調が心配でしたが、1人になるのも嫌がるので、同行させました。

父は朝に行った時は話ができましたが、その時ははっきりせず。ずっと目を閉じていました。

昼食も手をつけず、そのまま置いてありました。

入院3日目。

病室に入ると、前日にはなかったバイタル機器、点滴、酸素マスクなどが設置されていました。

声をかけたり、肩をとんとんとすると、少し目を開けるだけ。

買って来たクリームを父の手に塗ると、そのまま塗られていました。

手を払いのけもせず、嫌がりもしないその様子に、ああこんな父は初めてだと、

はっとしました。

もうろうとしながら時々腕を大きく上げて布団の上にバタンと下ろす。

パルスオキシメーターも無意識に取ってしまうようで。

ここからどうなるのだろう。完全回復は無理。小康状態で退院か。

そしたら食事介助や下の世話をみっちりやるのだ。

それともこのまま悪化するのか。この状態が長く続くのか。

病院を出た所で、ばったりケアマネさんに会いました。

ちょうど父のことで来ていたとのこと。

「もしおうちに帰れたら、また仕切り直し」と言われ、

介護、看護などの方向、内容の見直しを検討しているようでした。

“もし”がついていた。

“もし”なんだな。それならもし帰れたら肝を据えて介護しようか。できるだろうか。

と考えていました。

母のケアマネさんでもあるので、母は会えてうれしそうでした。








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