へなちょこかいご

アルツハイマー型認知症・80代の母との暮らしで思う事。
母は2021年秋に亡くなりました。父の事も少し。

父、その後と不思議なこと

2023年05月14日 | 父のこと
近所の方々の弔問も終わり、各種手続きも進めました。

母は父の死を忘れたり思い出したり。

「人、1人死ぬと大変だから100まで生きる」とか、

父のことを

「あんたが小さい頃よくおんぶして」「自転車に乗せてしょっちゅう実家に行ってた」

「子煩悩だった」「ケンカしながら暮らした」と言っていました。

四十九日には祭壇が撤去され、後日、仏壇やお墓の購入、納骨となりました。



父が3食にみそ汁を欠かさないので、母が作れなくなってからは私が作りましたが、

父が入院してからは作っていませんでした。

それが、ある日の朝、母が早起きして作っていました。

具は忘れましたが、冷蔵庫にあるものを入れたかもしれません。

「なんだか食べたくなって」と言っていました。

母はみそ汁にこだわりはなく、

その日の午後に父が亡くなったので、少し不思議な感じがしました。

不思議といえば。

父が家から最後に救急搬送され、病院に着いた時、私に、

「腕時計はずして」と言いました。

父はお風呂に入る時以外はずっと、寝る時も入院中も腕時計をしていたので、

あれ?と思いました。

病室に入ると父は、「腕時計は?」

ベッド横の台に置き、ここにあるからと言うと、うなづきました。

それきり父が腕時計をすることはなかったので、

父は自分で何か感じていたのかなと思いました。


不思議というか、でも納得できることもありました。

父、亡き後、家の電化製品が次々と3つ壊れました。

パシッと音がして、何だろうと思ったら、浴室の電球が切れていました。

骨壷のあたりからカサカサ音がするのは、重なったお骨がずれているのだろうと、

よくあるのだろうと思いましたが、

父の部屋の電気のヒモをカチャカチャ引く音が何度もすると、さすがに怖くなりました。

一周忌の朝、仏壇のろうそくをつけると、炎がみるみる伸びて、30センチ以上になりました。

父の誕生日には、ろうそくに火をつけたら突然ぼわっと、私の手をおおうように燃え上がりました。

熱くもなく、ただびっくりしました。

それ以前もそれ以後も、そんなことはなかったので、父かなあと思いました。

そんなことはありながら、

外出中、向こうから散歩の父が来ないかな、手を振らないかなと思っても

姿はありませんでした。

今でも、父の姿を見たいと思うし、何か伝えたいことはないのかなあと思います。

父が亡くなって、庭の手入れはどうするかなあと書店で庭木の剪定の本を立ち読みしていたら、

背中に何かぶつかって、振り向いたら何もなく誰もいなかったことも。

父が、ちゃんと剪定しろと言いたいのか、やらなくていいよと言いたいのかはわからず。

父が最後に私に言った言葉は、「支払いして行けよ」でした。

入院した翌日に見舞いに行き、帰る時です。

もちろん後でまとめての支払いなので、その場は、うんうん、と流しました。

父が倒れてからの医療費などは、父からの預かり金でまかなっていて、

使い道、金額など細かく記録しており、

足りなくなったら口座から出してもらおうと思っていました。

しかし、最後の支払いできっちりそれがなくなりました。小銭が残ったくらいで。

支払いを気にするのも、きっちりおさめるのも父らしい。

それを親戚などに話すと、やはり、父らしいと笑うので、笑えるひと言を残すのも父だなあと思います。


でも私はなんとなく、

「腕時計はずして」

が父の最期の言葉のような気がしています。






父、通夜・火葬・葬儀

2023年05月13日 | 父のこと
家族葬にしたので、通夜、葬儀には住居も間柄も近い親戚のみ参列。

式の前は、久し振りに親戚が集まった和やかさがあり、

特に父の妹(6人兄弟の末っ子で1人娘)の思い出話がかわいらしく

父を送るにふさわしいなあと思いました。

通夜の儀式も会食も、なんだかすぐ終わって、母がいるので泊まり込みはできず、

後は葬儀会館の方にお任せしてそれぞれ帰宅。

葬儀の日の朝、母が足が冷たいと言うので足湯をしました。

母のことをゆっくりやるのも久し振りな気がしました。

また会館に集合し、出棺経の後、出棺。

火葬場に移動。

身体ある父との最後のお別れ。

父の胸元には、小さな花束がありました。

朝、母が庭に咲いていた白い小さな花を摘んでリボンを結んだものでした。

こしらえた気持ちも、出来上がりも母らしくて、式の流れも焼香もわからない母ですが、

父に寄り添うのにこれ以上ふさわしいものはありませんでした。

私は父の頬をさわり、何を言ったかは忘れました。またね、みたいな感じだったかもしれません。

私は父が亡くなった時も、その後も泣きませんでしたが、

棺が炉に入る時、叔母(父の妹)が泣いていたのを見て、つられました。

と同時に、もう父の身体はなくなる。どこにもいなくなる。

私をゆるして、愛してくれた存在がなくなったなあと思いました。

軽食をとったり散策したりおしゃべりしたりしながら待っていると、

拾骨室へという案内。

父の骨を見て、一同驚きました。標本のような立派な骨。

ついには骨壷に収まり切らず、係の方に、「頭蓋骨をつぶさせていただきます」と言われました。

また移動して、葬儀。

なんだか葬儀もあっという間に終わった気がしました。火葬で気が抜けたようでもあり。

読経が始まり、私は、住職風邪引いてるのでは、とか

途中で曲調(?)が変わると、打楽器による応援合戦みたいだな、などと思ったり、

父を偲ばなければと思いながら、この後の段取りを考えたりしていました。

儀式が終わり、会食し、それぞれが帰宅。

ああ終わった。無事に終わった。

母も頑張った。









父、納棺

2023年05月12日 | 父のこと
父が亡くなった夜はなかなか寝付けず、うとうとして午前3時には目が冴えました。

ちょっと不整脈が出たりしました。

母はよく寝ていたようで安心。

翌朝、母に礼服を着せてみました。

母は、自分が父より先に死ぬと思い込んでいて、また、誰の葬儀にも参列したくないため、

その頃の自分に合う礼服を用意していませんでした。

それで私がこっそり一式用意していた物です。

少しでも首元が見えると嫌がる母に、黒いレースのハンカチを足したり。

その日は納棺でした。

近くに住む親戚夫妻が来てくれて、納棺師のイリュージョンも見て、父は白い着物姿に。

ひげを剃ってもらっている姿は、普通に床屋さんでやってもらっているようでした。

わらじをはかせたり、お金を持たせたりという一連の流れを終え、

父の旅支度が整いました。

母は、父の葬儀ということはわかっていて、うちに親戚が集まるのだという

昔のしきたりを思い出し、誰が来るの? 料理どうすんの? 誰か泊まるの? などとそわそわしていました。

うちでは何もやりません、誰も来ません、と家の壁に張り紙をしました。

そして後日の通夜までにお棺に入れる物を探しました。

遺影は、親戚の結婚式で皆さんと撮った写真を引き伸ばしてもらいました。

免許証くらいの大きさがあれば大丈夫と言われ、ぎりぎりでした。

父の引き出しから若い時の父の写真が出てきたので母に見せると「誰?」

引き出しの中から数点、用意しました。

ごみの日だったので、父の尿瓶や防水シーツなどを出しました。

しばらくしてまだ収集車が来ていなかったので、寝具類、下着も出しました。

介護用ベッド、手すりが搬出、在宅酸素の機器も引き取られ、

葬儀社により家に祭壇が設置されました。











父、最期の日 ②

2023年05月11日 | 父のこと
午前中、母と病院へ行くと、昨日より悪化した感じで、反応もなし。

水枕をした頭が左右に小さく動くだけ。

手がかさかさだったので、クリームを塗る。

おむつとパッドを置いて、一旦帰宅。

昼過ぎに病院から電話で、先生の話があります、と。

胸水が溜まり、炎症反応の数値が上がり、熱は下がらず。抗生物質も効かないなど、

状態が悪く、回復は難しいとのこと。

万が一の事を覚悟して下さい、と。

父は重篤な人が入る個室に移動。

何か好きなものを持って来て食べさせてもいいと言われましたが、

食べさせられる状態じゃないのでは、無理に食べさせてそれで死んでしまうのでは、

と、思いました。

母が長い時間じっとしていられないので、また一旦帰宅。車で15分ほどの距離でした。

午後に、病院から呼吸が浅く血圧も低下していると知らせがあり、駆けつけました。

私は途中、あ、だめだった、と思いました。

駐車場から病院へ向かっていると、母が

「覚悟しないと」「落ち着け」と自分に言い聞かせていました。

母も何か感じていたのでしょうか。

ナースセンターで名前を言うと、看護師さんが、

「電話の後、急に悪くなって…。連絡したい人はいますか?」と。

別の看護師さんがさえぎるように、こちらへ、と案内。

なんだかピンと来ないままついて行くと、

今、先生が診てくれた、声をかけてあげて、などと言うので、ああまだ生きているのだと思い、

父の耳元でお父さんお父さんと呼んでいたら先生が来て、

「○時○分でした。死亡診断書には心不全と書きました」

それで、ああ死んだんだとわかりました。

そういえば酸素マスクをしていない。

家族でのお別れの時間、酸素と点滴も取ってもらいました。

楽になったんだね、お疲れ様だったね、と父をねぎらい、清拭をしてもらいました。

10ヶ月振りのカニューラのついていない父の顔。

やせた上、入れ歯をしていないのでげっそりしていましたが、とてもきれいでした。

後は葬儀の準備に切り替えなければ。

葬儀社の方が迎えに来ると、看護師さん達が見送ってくれました。

ありがたい。

葬儀の会館に向かう前に、家の前を通ってくれました。これもありがたい。

ストレッチャーに乗っている父に、お父さん、家に来たよ、と伝えました。

ドライバーさんが、「広いお庭ですね」と。

広くもないのですが、父は庭をほめられるのがうれしかったので、

これもまたありがたい。

会館に安置してもらってからは、父ほったらかしで葬儀の打ち合わせ。

細かくて面倒で疲れました。

プランや品物の中でどれがいいのか何がどうなのか混乱。

係の方に「これでいいですね?」と念を押されてはあいまいなファイナルアンサー。


その日の私の雑記帳に、

父、終わったなあ。本当に本当にお疲れ様でした。長年家族のためにありがとう。

最期、ありがとうと紙に書いて見せたかったけどかなわなかった。

母と笑顔で手を取り合って欲しかったけど、あっという間だった。

上手く世話出来なくてごめんね。父なら許してくれるよね、バカ娘を。

葬儀が終わるまでもうひと頑張りするね。お父さんの思うようなものでは

ないかもしれないけれど、こういう時のために希望を伝えなかったからだよ。

でもそれも許してね。

なんだかおかしいよ。

楽になったんだね、お父さん。

本当にお疲れ様でした。感謝しています。また会いましょう。

と記してありました。


母は、父の死に、

「夢を見てるみたい」と言っていました。












父、最期の日 ①

2023年05月09日 | 父のこと
父は、訪問歯医者さんの治療のためイスに座ると、すうっと意識を失いました。

頭ががくんと後ろに倒れ、白目になったので、これは危ないと思い、

訪看さんからもらっていた緊急用の連絡先や手順の用紙を出し、訪問看護ステーションに電話。

状態を伝え、救急車を読んで病院にと指示をもらい、そのように。

歯医者さんは治療を中止して、父についていてくれましたが、搬送のジャマになるからと帰られました。

ぼんやりしていましたが、意識が戻った父に、救急車を呼んだと言うと、すんなり受け入れました。

大げさだ、うちの車でいい、などと言いそうですが、自分でも悪くなっているとわかったのでしょう。

母には「ピーポー鳴らさないで来てもらって」と言ったそうです。

しかしすでに電話を切っていたため、ピーポーを鳴らして救急車が到着。

私は携帯用の酸素ボンベなど持ち物の確認でバタバタしながら症状を伝え、

認知症の母に留守番は無理なので、母の服、持ち物も用意。

家からの救急搬送の時忘れがちなのが靴。

母の場合、何度か搬送されましたが、検査後たいてい帰宅となったので、

すぐ帰れるかもしれないと、靴を持って来て良かったと思ったものでした。

難聴の父との会話で、裏が白いチラシや紙をクリップボードに重ねて留め、マジックで書き伝えていました。

それをテーブルの上に置いていたのですが、ふと見ると救急隊員がそれで父に質問していました。

救急車呼んだ、などと書いてあったので、これを使うのだと察したのでしょう。

ちょっとなごみました。

病院に着くと、父は看護師さんに母と私のことを「疲れてるからもう帰して」と言っていました。

めずらしいことを…でも話せるまで回復したんだなと思いましたが、

これから手続きがあるのでね。

検査の結果、肺炎を起こしているとのことで、入院になりました。

苦しかっただろうな。我慢していたのか。大声も出せなかったか。

でもこれで治療できる、楽になるよ、と思っていると、

4人部屋と個室が空いていますがどうしますかと言われました。

どのくらいの期間になるか聞くと、1週間くらいとのことなので、個室にしました。

父は大きく咳き込むので同室の方々に迷惑になることと、

私達もゆっくり見舞いたいので。

説明や手続きを終えてタクシーで帰宅。夜8時過ぎていました。

翌日の朝、入院用品を届け、母の呼吸器科定期通院に。すると母もぜん息の具合が良くなく、

点滴になりました。

普段と変わりない様子ではありましたが、父のことで精一杯で、母の体調に気づけなかったなあと

反省しました。

点滴の間に訪問歯医者さんに電話し、事態の報告。気になっていたようなので、大丈夫ですとなるべく明るく。

母の点滴が終わり、院内のレストランで昼食後、買い物へ。

父の新しい下着、パジャマ、筆談用具、クリームなど買い、父の病院へ。

母の体調が心配でしたが、1人になるのも嫌がるので、同行させました。

父は朝に行った時は話ができましたが、その時ははっきりせず。ずっと目を閉じていました。

昼食も手をつけず、そのまま置いてありました。

入院3日目。

病室に入ると、前日にはなかったバイタル機器、点滴、酸素マスクなどが設置されていました。

声をかけたり、肩をとんとんとすると、少し目を開けるだけ。

買って来たクリームを父の手に塗ると、そのまま塗られていました。

手を払いのけもせず、嫌がりもしないその様子に、ああこんな父は初めてだと、

はっとしました。

もうろうとしながら時々腕を大きく上げて布団の上にバタンと下ろす。

パルスオキシメーターも無意識に取ってしまうようで。

ここからどうなるのだろう。完全回復は無理。小康状態で退院か。

そしたら食事介助や下の世話をみっちりやるのだ。

それともこのまま悪化するのか。この状態が長く続くのか。

病院を出た所で、ばったりケアマネさんに会いました。

ちょうど父のことで来ていたとのこと。

「もしおうちに帰れたら、また仕切り直し」と言われ、

介護、看護などの方向、内容の見直しを検討しているようでした。

“もし”がついていた。

“もし”なんだな。それならもし帰れたら肝を据えて介護しようか。できるだろうか。

と考えていました。

母のケアマネさんでもあるので、母は会えてうれしそうでした。