へなちょこかいご

アルツハイマー型認知症・80代の母との暮らしで思う事。
母は2021年秋に亡くなりました。父の事も少し。

20点介護

2021年12月29日 | 日記
よく、介護は100点を目指さなくていい、60点でいい、と言われますが、

私は、60点なんて高い!とても無理!と思っていました。

自分の介護を点数にするなら、20点と思っていました。

得意でも好きでもない車の運転を、40代でペーパードライバーを解消して

親がいるうちはと続けていたのが10点。

認知症になり記憶することが難しくなった母に、こんなことがあったという

覚え書き、日記代わりに始めたアルバム作りが10点。

いや、1点ずつの2点でもいいくらいです。

弄便や異食が始まってからは、

自分なりにアイディアを絞り出して対応したつもりですが、

混乱している間に入院しましたので加点も疑問で。


運転は、目も悪いのでもうしません。

アルバムも、納骨の様子や仏前にと届けられた品々を撮って、プリントして貼って、

おしまいにしました。

写真の説明やコメントを書く、かわいいメモ紙や飾りのシールも

残っていますが。


20点介護もおしまいです。

ああほんと、20点だったなあ。

2点か。


母の死は不思議

2021年12月28日 | 日記
前の記事で、

母がいなくなったら、どんどん自分の道を前に進むと決めていたと書きました。

そう思ったのは、

介護中、出かけたがりの母のため、買い物も兼ねて

なるべく広いショッピングモールを歩く事が多かったからです。

母は、少し離れて私の後ろを歩いて来るのが常でした。

たいてい開店直後から入店していたので、まだ空いていて、

広い通路を、前を行く私を目印にしつつ、1人で歩いている感覚を

味わいたかったのだと思います。

私は、母の速度に合わせながら、ちゃんとついて来ているかどうか、

しょっちゅう振り返り、確認していました。

それで、

母がデイサービスの日など、私1人で歩ける時には、

自分のペースでさっさと歩きました。

そんな現実的なことと、心情的なことと合わせて、

母がいなくなったら自分のペースでどんどん行く、と決めたのでした。

よく行った店を自分のペースで歩けてはいますが、

母とここを見たなあ、とか

母はこの店が好きだったなあ、とか、思い出します。

本当に、遠い日のようです。

思い浮かぶのは大きな、広い景色なのですが、

それを拾おうとすると、

ビーズひと粒くらいで、つまむのももどかしい、そんな感じです。

母の死は、母の死後は、

本当に不思議なままです。

ずっとこのままなのでしょうか。

いつか急に落ち込むのでしょうか。

今も落ち込んではいるのですが。


1人で店歩きをしていて、景気づけに何か買うか! と思っても、

物欲がまるでありません。

でも、なるべく外に出るようにしています。

移動していたいのです。

願わくは、1人でひっそりと、どこまでも気の向くままに

移動していたいのですが、

こんなご時世でなかなか踏み切れず。

そういえば、介護中に

計画だけでも楽しいのではと、旅の本を読んでみました。

そしたら、行けもしないのに、いつ行けるのかも分からないのに、

と泣けてきました。

今は、うっすらと頭の中で計画を立てます。

実現はいつになるやらですが、行けるでしょう。






決めたこと

2021年12月26日 | 日記
まだ母のことで誰かと話す時に泣けてくるのですが、

もう大丈夫という気もします。

先日見た母の夢では、母と一緒に急な斜面を登らなければならず、

私が先に行って母を引っ張ろうとすると、母が自力で登って来た、

そんな場面でした。

母ももう大丈夫なんだな、と思いました。

介護中に決めていたことがあって、

母とは楽しく過ごして、別れの時が来たら笑顔でさよならして、

次の日からどんどん自分の道を進む、ということでした。

実際は、

認知症が重くなり、母は不穏の日々。

私は余裕がなく精神的にまいってしまい楽しく過ごすどころか

母は入院。

入院が長引いて、コロナ禍で会えもせず、もやもやと緊張の中、

会話もできず亡くなりました。

私は心身の不調で前に進む気力なし。


また、

母が入院して、介護から手が離れた時にも決めたことがあります。

嫌われてもいいから、もう誰の機嫌も取らない。

トイレに連れて行くのも、おむつを替えるのも、母の機嫌ひとつ。

ここに座ってて、とできるだけ穏やかに言うこと1日に数え切れないほど。

リモート面会でも、いかにして母の気を引くか、それもけっこう疲れました。

誰かと母が話している様子を見るだけでいい、とさえ思いました。

一生分の愛想も使い果たした感じです。

なので、誰かの機嫌取りも愛想を使うのも、もういい。

こちらはできる気がします。

わざとつらくあたるのでも、無理に気にしないようにするのでもなく、

これで途絶える付き合いでも、それでいいか、と思います。

友人達とのグループラインがあり、

先日、1人の楽しい話題からやり取りが始まりました。

数人が、それへのコメントや自分の楽しい話題の合間に、

母へのお悔やみや私へのねぎらいをはさみました。

絵文字入りで。

そういえば、という感じで。

他の友人からのラインでのお悔やみもありましたが、

誠実なもので、絵文字を使うことはありませんでした。

このグループの中の友人の1人は、喪中はがきが届いた日に、

個人的にラインをくれました。

その友達と数人は、楽しい話題のラインには入って来ませんでした。

もちろん私もスルー。

お礼を言うことは、機嫌取りでしかない。

自分の気持ちを大切にしました。

母の夢を見るおまじない??

2021年12月12日 | 日記
なんだか不意に思いついて、

母がいつも来ていた冬のコートを出してハンガーに掛け、

その上から、母愛用のショルダーバッグを掛けました。

眺めると、なんだか気持ちが落ち着きました。

先日、納骨の際、

泣けてしまうかな…と思いましたが、

簡素に淡々と進んだこともあり、私も淡々としていました。

帰宅して、ほっとしたような、骨とはいえ母が家からいなくなってさみしいような、

そんな感じがしましたが。

なので母のことではもう泣かないような気がしましたのに、

そのコートとバッグに泣けました。

自分でこんなことをしといて泣いてるよ、とあきれながら。


その夜、母の夢を見ました。

母が入院したので病室に行くと、看護師さんに明日退院です、と言われる。

ああそうなんだ、早いな、準備できてないけど数日なら大丈夫か、

そしてまたホームに戻れば…と考えました。

夢の中では、母はホームに入っていたようです。

母が起きて私のそばに来たので、

帰ろうね、どこに帰りたい?と聞くと、母は「うち」と言いました。

夢の中でも母は認知症のようでした。

うちに帰ろうね、ほら、行くよ、と私は母を連れてエスカレーターに乗りました。

私は母の顔をむにゅむにゅとさわって喜んでいた、

そんな夢でした。


コートとバッグ。

あれが夢を見るおまじないになったのでしょうか。

気が変わるまで、そのまま掛けておきます。
















守るものがなくなった

2021年12月07日 | 日記
母がいなくなって、守るものがなくなったと感じます。

持病のあった母の体調や病院のことから、

認知症と診断されてからは特に、母にかかりきりになりました。

認知症への誤解や偏見で母が傷つかないように。

父からの暴言、皮肉に傷つかないように。

体調管理とともに、気にかけていました。

服や持ち物、お化粧、見た目もこざっぱりするように。


今、自分の通院で医師と話す時、気になる点があっても伝えず、はいはいと聞いて終わります。

母の通院では、伝えること、聞くことをメモして、ぐいぐい話したのですが。

母のことでは、何がいいか、どこがいいか、調べまくったのですが、

自分のことは面倒だからこれでいいや、です。


もう母のことはしなくていい。

することがなくなりました。

守るものがなくなりました。

守れていたのかというと、へなちょこなので、人並みにも至らず、だと思います。

守っているという自覚もありませんでした。

母がいなくなって、ああ守っていたんだな、と思いました。