へなちょこかいご

アルツハイマー型認知症・80代の母との暮らしで思う事。
母は2021年秋に亡くなりました。父の事も少し。

母、亡くなりました ⑤

2021年10月31日 | 日記
火葬の前に、1人ずつ最後のお別れの言葉かけをしました。

炉の前でお焼香をして、扉が閉まり、我々は控え室に。

私は葬儀社からの説明など聞いて、

後は母との思い出話、朝ドラの話などして待ちました。

時間が来て、拾骨室に。

骨でもまだ母がいるので、おかあさんに会える、と駆け込みましたが、

母の骨をひと目見て、少ない…と思いました。

ですが、年齢的にも、骨粗鬆症だったし、これくらいか、と納得しました。

父の時が、標本のようにしっかり骨が残っていたので、それに比べたら、ということで。

最初は順番に、そしてみんなでお骨を拾い、最後に喉仏、耳、頭蓋骨などの説明を受けて

母の骨は骨壷に収まりました。

父は骨の量が多過ぎて、頭蓋骨をつぶさせていただきます、と言われたほど

ぎゅうぎゅうだったなあ、としみじみしました。


自宅安置も納棺も出棺も火葬も無事に終わり、

母の遺骨は家に。

昔なじみでお世話になった近所の方々にも、母に言われていたようにお悔やみは遠慮しました。

「煙になって、おしまい。お返しはいらないからね」と、お香を届けて下さる方がいました。


火葬の翌朝、母の写真に、おはよう、と声をかけて、

ああもう写真にしか言えないんだ、と思ったら泣けました。

しばらくは、朝に泣けて、昼はどうにか過ごして、夜に怖くなりました。

怖いというのは、

自分の役目がなくなった、それは自分のいる意味がなくなった、という思いでした。

母の事務手続きなどであちこち行くようになると、

まだ母の事ができていると思えますが、

これが全て済んだ時にまたどうなるのか。

そして、

思っていた以上に心身の疲れがたまっていました。

あれをやらなくちゃ、もう次の事をしなくちゃ、と思いますが、

あせらずに少し休みながら体調を整えたいです。

まだ時間配分や行動範囲など、母のペースのままなのですが。



母が亡くなった事に関して、記事が続きました。

そういえばこのブログも母がいなくなったらおしまいか…と思いつつ、

もうしばらく書き残したく思います。
















母、亡くなりました ④

2021年10月28日 | 日記
翌日の午後に火葬でした。

親戚には電話で済ませましたが、

どうしても母の顔を見たいという叔母から、間に合うように行く、と連絡を受けました。

母のもう1人の妹です。移動に半日はかかるので、大急ぎのようでした。

午前中は割とのんびりだったので、

棺の横で、母の好きだった歌をYouTubeで流したりして過ごしました。

近隣の叔母、そして遠方の叔母と、その娘が到着し、

またひとしきりみんなで涙にくれました。

アルバムを見たり、昼食をとったりして、ちょっと休んでいると葬儀屋さんが来たので、

近隣の叔母が用意した花をみんなで棺に入れることに。

葬儀屋さんが、

「まずお庭の花を入れましょう」

と言うので、ちょうど咲いていた花、小さな実などをとって、

母の胸の上に置きました。

それから、用意した花を私が茎を半分くらいに切ってみんなに渡し、

母の顔の周りに飾ってもらいました。

私も最後に花を入れました。

葬儀屋さんとしては、最初と最後を私に任せて下さったのでしょうが、

叔母達が全体的に直し、整えました。

この時間が、とてもなごやかで良かったです。

母のことが大好きな人達が、母をきれいに、かわいらしく花で飾る。

穏やかな時間で、母にふさわしかったです。

葬儀屋さんが、集合写真を、と言うので、

みんなで棺を囲み、母との最後の写真を撮りました。

母に触れられる最後でもあったので、順番にほほなどなでて、

声をかけました。

そして、出棺となり、火葬場に向かいました。



(続く)








母、亡くなりました ③

2021年10月26日 | 日記
近くに住んでいる母の妹、叔母夫妻が来てくれました。

涙にくれつつ、亡くなった時から納棺までの経緯や思い出など話し、

翌日の火葬にも立ち会ってくれるとのことで、

時間の確認などしました。

棺の中に花を入れるのは、出棺直前ということで、

その花の用意を叔母に頼みました。

葬儀屋さんが、お花を用意しますか、と言ってくれましたが、

母の好みがあるので、こちらで用意しますと伝えていました。

母は、小さい、かわいらしい花が好きなのです。

叔母は母の好みを知っているし、花が好きなので。



火葬だけとはいえ、喪服を着るので、

一応試着を。

父の時に購入したのは、きつきつになってしまったので、

何十年も前に購入していた、ストンとした型のワンピースに

黒いカーディガンにしました。

喪服など滅多に着ないものを、痩せている時に買うものじゃありませんね。

その先の体型の変化を見据えないと。


その夜は、

母に話しかけたり、ふたを開けて触ったりしましたが、

隣の部屋でいつも通りに休みました。



(続く)

母、亡くなりました ②

2021年10月24日 | 日記
預かり安置と自宅安置を選べたので、

一晩でも母を帰宅させたくて、また、一緒にいたくて、

自宅にしました。

かつて母の介護用ベッドを入れていた部屋で、スペースはあったのですが、

ちょっと片付けなければならない。

家に着いたらあれをこうしてあれをあっちに移動して…などと

考えながら帰り、

帰宅してからは葬儀社の係の人の指示に従って用意するものを出したり

打ち合わせをしたり。

納棺師の方が来られて、初めに、「逆さ水を用意して下さい」と言われ、

初めて聞く言葉でしたが、あああれか、と思いつきました。

昔、私がぬるま湯を作ろうとして、カップに水を入れてからお湯を入れたのを見た母が、

それは人が死んだ時にする事だと言っていました。

通常はお湯を入れてから水を入れて温度を調節し、

故人の体を洗ったり拭いたりする湯灌の時に使うのが逆さ水だそうで。

そして納棺の儀式を見守ったのですが、

かつて母が書いておいた、死後にこうして欲しい、という内容の手紙を見直して、

着物かスーツを着せて、と書いてあると納棺師の方に伝え、

探すのを待っててもらい、

白装束の上に着物を着せてもらい、足元にスーツを掛けました。

着物を着る習慣はなく、昔親戚の結婚式で着ていた覚えのある着物でしたが、

「その割にはとてもお似合いですね。着慣れているような」

と言っていただきました。

お化粧をする段階になり、口紅くらいは普段使っていたものをぬれます、と言われ、

それも急いで用意しました。

リモート面会のたびに、母のシワシワの顔にクリームをぬりたいと思っていましたが、

死後の母の顔は目立ったシワがなく、口紅くらいは、という事は、

死化粧のやり方や専用の品があるのだろうなと思い、

薄い化粧が好みだった母の、オレンジベージュの口紅をぬってもらいました。

したくが終わり、母は棺に。

最近は、その地域によるのだそうですが、棺に入れられる物も規制が厳しいそうです。

思い出の品とか食べ物なども。

見えないようにドライアイスが入れられ、棺にふたがされ、顔が見える小窓が開きました。

小窓には薄いプラスチックが張られており、顔には触れません。

ドライアイスの気化に配慮したためで、

直接顔が見たい、触れたい時には棺のふたそのものを持ち上げて

少しの時間で、とのことでした。




(続く)





母、亡くなりました

2021年10月23日 | 日記
リモート面会の予約を入れた時に様子を聞くと、

食事も全部食べて、歌って、おしゃべりしていると言うので、

ああ落ち着いたかな、と思っていました。

その2日後、病院から連絡が。

昨夜から容態が悪く、今朝検査しようとしたら意識がなくなった、と。

急いで駆けつけました。家から最短だったと思いますが、30分くらいかかり、

医師の説明を聞き、病室に入ると、

母の意識はほとんどないようでした。

でも、おかあさん!と呼ぶと、

うなづくように顔が動きました。

また、おかあさん!と呼んで同じような動きがありましたが、

それきりでした。

老衰でした。

私は母にすがって、ひとしきり号泣した後、

あ、この後処置があるんだ、と我に返り、看護師さんに、大丈夫ですので処置を、

と言いましたが、

たっぷりお別れの時間を下さいました。

清拭が終わった母は、亡くなった方専用と思われる部屋に移っていて、

静かな音楽が流れ、花、母の物が飾ってある中で、

胸の上で組んだ手に花を一輪持たせてもらっていました。

看護師さん達がたくさん顔を見に来てくれて、

母といて楽しかったです、などと話してくれました。

葬儀社の迎えが来て、病院を出る時にも、

医師、看護師さん達がたくさん見送ってくれて、

暖かな旅立ちになりました。

前々から母に言われていたように、そしてまたこのご時世もあり、

通夜、葬儀は行わず、自宅安置からの火葬式になりました。

母を一晩でも帰宅させられたこと、良かったです。



(続く)