へなちょこかいご

アルツハイマー型認知症・80代の母との暮らしで思う事。
母は2021年秋に亡くなりました。父の事も少し。

父、退院して母、うなされる

2023年04月30日 | 父のこと
退院の日、各科の先生より家族のみにお話がありました。

泌尿器科では、前立腺肥大と排尿障害の検査、治療を今後も月1で。

家では尿瓶(しびん)を用意するようにとのこと。

耳鼻科では、難聴や中耳炎のチェック、耳鼻の掃除などを月1で。

内科では、肺の状態がものすごく悪いという説明が。

慢性呼吸不全、慢性肺気腫、COPDなどで、月1。

家では投薬、吸入薬、在宅酸素療法。

食事制限はなく、飲酒も可。

「予後数年、楽しく過ごして下さい」と言われ、

数年か…と気落ちもしましたが、父は85になる年だったので、

それから数年て立派なのでは?と思い直しました。

そして最後に「認知症になっていると思われます」と言われ、絶句。

重い気持ちで(私が)退院。

介護仕様になった自室にはおおむね納得したようでほっとしました。

以前と変わらず夕飯には焼酎。

夕飯は父が早い時間に摂るので、父、後から母と私という

組み分けになっていましたが、

退院した日は、母が父と一緒にテーブルについていました。

2人とも無言でしたが。

その晩、父は尿瓶での排尿に失敗。呼ばれたので、

リハパンと下着を替えました。

在宅介護のスイッチが入ったと感じました。

母は夜中、うなされていました。




父、退院に向けて

2023年04月29日 | 父のこと
転院先では普通食になり、好物のあんぱんも解禁になりましたが、

すぐに飽きてしまい、食べなくなりました。

内科の他、耳鼻科、泌尿器科での検査や治療、リハビリの毎日。

父は今後介護が必要になるのだと、母のケアマネージャーさんに連絡し、

父が利用できるところはありますかと聞くと、

「ありますよーー!」と明るい返事。

このひと言にどんなに救われたか。

後々、父の担当はこの人じゃなければだめだったなあと思いました。

母とも仲良しで、私は本当に頼りにしていました。

父についてくれた若い男性看護師さんも、

いつも迷惑かけてすみません、と言うと、

「うちのじいちゃんに比べたらかわいいもんですよーー!」と笑っていて、

安心できる存在でした。

病室での介護度認定調査では、質問や動作の確認に憤慨。

こんなに動ける!とアピールしようとしてベッドの上で転げていました。

私は在宅酸素の方法を教わったり、家への介護用品の搬入、各種手続き。

父に○○買って来て、と言われて買って来ると、

もう病院で借りた、とか、ひと目みて「いらない」と言われたり。

検査で移動する時、寒いかなと羽織るものを用意しても、しかめ面。

ある日見舞いに行くと、看護師さんから

「電話しようと思っていたんですよ。床屋に行きたいと言うので、出張床屋さんに

ご家族が電話して下さい」と言われました。

病院によく来ている出張床屋さんを教えてもらい、電話すると、

ちょうど今近くにいるのでこれから伺います、とのこと。

待つのが嫌いな父にはラッキーで、父もさっぱりしたのですが、

いつもこうだと勘違いしてしまい、

次の時には待ち時間があったため、ご立腹でした。

見舞いに行って5分もすると「帰れ」と言うので、

入院用品や着替えの確認をしたりして帰ると、

家に着いたとたん病院から、先生のお話があります、と電話が来て

また行ったり。


うちは、父が元気に入院している時が1番平和でした。

元気にと言うのは、がんの時のように、手術、治療して元気に退院するという

確定がある場合。

母も私ものびのび暮らしました。

しかしこれから介護が始まるという入院、退院に、

うちは緊張、不安しかありませんでした。


父、転院

2023年04月28日 | 父のこと
父は入院から1ヶ月後、転院することに。

病院が手配した介護タクシーで、車椅子、酸素のチューブをつけて。

出発時間が12時半だったため、思いのほか慌ただしくなりました。

父が昼食をとっている横で荷物をまとめていると、看護師さんが持参する薬の説明に。

会計も済ませて下さいと請求書を渡されると、介護タクシーのドライバーさんが迎えに来ました。

バタバタと済ませ、母のバッグをふと見ると、病室に置いてあった

清拭、おむつ替えの時のためと思われる薄手のゴム手袋が

数枚入っていました。

これはうちのじゃないんだよ…と言うと、「うちのだよ!」と言い張るので

ごめんなさいと思いながら退院。

道中、この道を曲がると我が家、という所に差し掛かりましたが、

父はその方を見るでもなく、ただ黙って乗っていました。

転院先の病院では、若い男性の看護師さんがついてくれて、

父はその人を気に入っていたようで、ほっとしました。

私はそれから病院、介護、在宅酸素の手続きに追われました。

父、病院で新年を迎える

2023年04月27日 | 父のこと
父は初めて家ではないところで新年を迎えました。

毎年、お正月は駅伝を楽しみにしていたので、

ベッド横のテレビで観るかなとテレビカードとイヤホンを用意しましたが、

一切観ていないようでした。

父は、好物のあんぱんが食べたいと、よく言うようになりました。

ソフト食なので、ご飯をわしわし食べていた父には物足らず、

甘いおやつも食べたいでしょう。

しかし父は食事制限があったため、主治医の許可が必要です。

聞いてみると、パンは窒息の恐れがあるので、

本来ならば書類に、それも承知していますというサインが必要とのこと。

どうしてもと言うのなら、家族がいる時のみ、少しずつちぎって食べる。

1人で食べるのは病院の管理問題にもなるため、残りは必ず持ち帰る、

という約束で、許可が出ました。

それから、見舞いの時にはあんぱんを持参して、ベッドに備え付けのテーブルの上に

ティッシュを敷き、少しずつちぎって乗せ、それを父が食べるという時間ができました。

私もむせられたり詰まったりしたら怖いので、

親指の先くらいの大きさにちぎり、それを完全に飲み込むまで、

見届けました。

ある日、駅から病院までの間のコンビニにあんぱんがなく、

クリームパンとどら焼きを買って行きましたが、

面白くない顔をして、クリームパンをちょっと食べてやめました。

それ以後、前もって買って、家で小さく切ってタッパに入れて持参しました。

残した分を置いて行けと言っても、病院の決まりだからと

持ち帰られるのも面白くなかったでしょうし、

だんだん、少しずつちぎった物を食べている自分も面白くなくなったのでしょう。

父はあんぱんを食べなくなりました。

父は、人が触ったり箸をつけた物を嫌がり、おかずも大皿ではなく自分の小鉢。

家族で鍋をつつくということもしませんでした。

なので、私がちぎったパンを食べている様子が不思議でもあり、

私自身、黙々と過ぎるその時間に、私何やってんだろう…と思ったことも。

正月休みも終わり、病院、在宅酸素の業者、今後の介護の事、

そしてより家から近い病院への転院など、話し合い、手続きが始まりました。








父、集中治療室

2023年04月26日 | 父のこと
父は集中治療室に。

検査の結果、肺水貯留、真菌感染症、肺炎、前立腺肥大症、COPDなどがあげられました。

点滴、酸素、尿道カテーテル、内服などの治療。

入院用品を揃え、足りない物を買いに行き、初めて大人用おむつとパッドの売り場に。

どれがいいのか全くわからず、とりあえず聞いたことのあるメーカーを。

届けに行くと、元気というか、早く退院したいという気迫が

感じられ、昼食(ソフト食)も完食していました。

父は倒れた時のことを覚えていないようで、

「誰がここに連れて来た?」と聞くので

メモ帳に大きく“救急隊”と書いて見せました。

「俺、どうなったの」と聞くので

“倒れて運ばれた”と書いて見せると、ふっ、と笑いました。


2日後に見舞いに行くと、あちこちに血が付着。

ベッド下に落とした補聴器を拾おうとして点滴が抜けたとのこと。

入院3日目には起き上がってベッドに腰掛けるなどしていました。

食事は全がゆ、ソフト食でしたが、入院が年末に差し掛かっていたため、

クリスマスイブにはトレイの上(食器の下)に敷く紙のマットの柄が

クリスマス仕様になっていて、ちょっと和みました。

年末にはナースステーションの横ですが一般病棟に移りました。

年末であるがゆえ、退院になるのではと、父の部屋を介護仕様に整えるため、

大急ぎで家具を動かしたり処分したりふすまを張り替えたりしましたが、

検査も一定期間様子を見たいのでと、年明けに持ち越されました。

父は自室に他者が入ったり物を動かされることを嫌がったので、

いちいち紙に書いて、このタンスをここに、この本棚をここに移したがいいか、

と了承をもらったり、

病院から電話で、本人が退院すると言って聞かない、家族で対応してくれと

言われ、ちゃんと治してから、と納得させたり、いつもにも増して落ち着かない年末となりました。


大みそかに主治医の話があり、

痰をとるため首に穴を開ける方法があること、

退院後は在宅酸素療法になること、

そしてまた、延命について家族で相談をと。

首の手術は、主治医の説明、考えも含めてしないことに。

在宅酸素療法はすることに。

延命は、必要な治療以外、苦しむような延命はしないことに。