児玉真の徒然

峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい
(真壁仁 峠)

長崎の村上敏明さん

2008年05月25日 | アウトリーチ
 一昨日昨日と長崎で久しぶりにテノール村上敏明さんのアウトリーチを見た。
 彼はおんかつ第2期(2000-2001年)の登録演奏家。登録途中からイタリアのボローニャに留学して力をつけてきた。はじめは,妙に話慣れをしていて(歌い手には時々いるタイプだ)、かえって内容的に言いたいことが明確になっていなかったり、進行に奥行きとかが足りないように感じていたのだけれど、イタリアから帰ってきてからは声にいっそう磨きがかかってきたように感じて嬉しかったのを覚えている。オペラやカンツォーネを歌わせると、日本人臭さがなくてイタリアの歌手の味わいを感じることができるテノールだと思うが、それだけではなく、きちんと話しを整理して流さない方法というのを身につけて来たように感じた。
 ついでに言うと、今回のピアニスト江澤隆行さんが良い感じだった。アウトリーチの現場での沈着さも、ソロ演奏でのきっちりとした演奏も味があると思った。パリとストラスブールのオペラハウスでコレペティトゥアをきちんとしてきた余裕というのを今回ずいぶん感じた。

 ところで、アウトリーチの進行というのは一様ではないのは、音楽にいろいろな要素があるのと同じで、戦略と個性とをきちんとつくっていかないといけない。またそれが、人から与えられたものではダメであると言うことも、音楽家にとっては楽曲の解釈と通じるものがあると思っている。そのとき、コーディネート側が何を考え、何を言うのかということはなかなか難しい。音楽の場合演出家は音楽家である,と言うことを理解しておく必要がある。
前にも似たようなことを書いたかも知れないが、私の場合「顔を立てる」と言うことを一番大事にしているような気がする(あんまり意識はしていないのだけれど、結果的にそうなっているようだ)。顔を立てるというのは、別に演奏家の権利を大事にするとか言うわけではなく、ある曲や話題を話したときに、その話しをするのであれば曲はこういうものの方が良いのではないか、とかこの曲とこの曲をつなげたいならこういう話しでないとおかしいでしょう、とか言うものだ。演奏家と話すと言うことは、そういうものを彼らの内面から
掘り出していくような感じがする(まあ、言いようによっては、こっちは融通無碍というか何もない白紙というか・・)
だから、おんかつには演劇の専門家が関わっていて(まあ愛情のない人はダメですけれどね)、その力を発揮してもらえているのだと思うし、音楽関係の人もそこに踏み込む必要はあるのだと考えているのである。まだまだ勉強。