遺伝と言うことにことさら心配したり意識したりしたことは無いのだけれど、4歳半のちゃんがめがねを掛ける羽目になり、娘は少しは自分の責任のように感じているらしい。
我が子の近眼はひどく、眼鏡の厚さは俗に言う「コカコーラのビンの底」なのだ。眼科医にコンタクトレンズの良い候補者と言われた時、目薬もさせなかった子が必死でレンズを入れる練習をしたのもこの分厚い眼鏡が気になったからだろう。
彼女の祖母、私の姑がやはりひどい近眼で、眼鏡を掛けていても手紙などを読むときは手紙が目に入るくらい近づけていたものだったが、子供に遺伝すると言う心配などしたことも無かった。
祖母の責任でもなければ、我が娘の責任でもない。ちゃんは運悪く受け継いでしまったのだ。とは言えこの幼さで眼鏡を掛けなければならないのは、やはり痛々しい気がする。
本人はあまり気にならないらしく、又眼鏡の取り扱いもしっかり言い含められているらしく丁寧なのは嬉しいのだが。
今から眼鏡で補正していればひどくならないものらしいのだけれど、どうなのだろう。娘の場合は気付くのがかなり遅かったことは確かで、その辺は私たち親の責任なのだけれど。
写真はヴァレンタインズディに私が送ったカードを読む(振りをする)ちゃん。この日の意味など判らないのだが、まるでクリスマスと誕生日が一緒に来たような興奮ぶり。ピンクのハート型のケーキも二日に亘って楽しんだので申し分のない「祝日」ではあった。
ウサちゃんの表情から、目の前のものがはっきりと見えている様子がわかります。とても、可愛らしく利発な子だと分かります。
うちの子供たちの場合は、毎日のピアノレッスンが原因だったように思います。
長女が目医者さんで初めてコンタクトレンズを入れようとしたとき(高校2年?)、貧血を起こして倒れてしまいました。
あー、この子はコンタクトレンズも合わずに、花嫁姿のときも眼鏡なのだろうか、と思ったこと、覚えています。
今?やはりコンタクトが合わないタイプらしく、さっさとレーシックを手術をしたそうで、今は眼鏡もコンタクトのお世話にもなっていません。
心配している本人と母親の私に、近眼は病気じゃないから心配は要りませんよ、といってくれたお医者さんの言葉が、あったかく聞こえました。
今時、テレヴィやコンピューター・ゲームをしない子供は殆ど居ないでしょうが、その珍しい「人種」です。
弟(9か月)に邪魔されたくない時は「独りで遊ぶ」と宣言して部屋に篭りますが、私と遊ぶ時でも大抵独りで遊んでいます。私は傍で見ているだけ。ぶつぶつ言いながら空想の世界です。
TVは眼に良くないので、見ない習慣があるのは良いです。偶に子供の番組を母親が見せていますが、稀です。
TVも見ないですから、オリンピック開会式は見逃しました。娘が録音したと言っていましたが、それを見る機会も無く。
画像を送ってくれた人が居て、それを見たら全部を見たくなりましたが・・・。
近眼は病気ではないと言う考え方・・・細菌とか黴菌とかによるものではないというだけのことでしょ。熱が出たり吐き気がしたりはしない、ということで。そういう意味では、慰めの言葉としては頷けても、やはり病気ですよね、医者に掛かる以上。
眼鏡が似合って格好良い人も居ますから、そう嘆くほどのことでも無いでしょうけれど、やはり4歳半は早いなァという気がしてます。
自分の子でない時には「あら、可愛い」くらいに見ていたのに我が子となるとそう単純ではないですね。
という気持ちをserenaさんに芽生えさせたのですね。
以前、うちの息子が、背が低いということで気にしていた時期がありました。
そのときに、夫は私に、ボソッと言いました。
何でも完璧ではなく、弱点があるほうがやさしくなれる、ってこと、あるんだよ、と。
だから、背が低いことで、彼は人によりやさしくなれるかもしれない、と。
お庭で元気に遊びまわる子になれたらいいですね。
私も眼が悪いのですが、テレビゲームと漫画の読み過ぎのせいだと思います。
しかし、眼が良かったらいいのにな、とは一度も思ったことはありません。
うさちゃんさんも前向きに生きていかれることを願っています。
障害がないことを願うのは一つの価値観に過ぎません。
背の低いことは私も弱点とは思いません。もう少し高かったらなァ、と言う時はままありましたけれど。低くて便利な時もあります。
眼に関しては少し違います。目下、もっと悪くならなければ手術できない、と言う状況にあり、手術はしたくないのですが、眼科医としては早く悪くなって貰いたいのではないかと勘ぐっています。こんな時は眼が良かったら・・です。
誰もが障害の無い人生を祈りますが、要は障害を克服する勇気と努力のある人生を祈るのだと思っています。
昨日のオリンピックでの銅メダルを取ったカナダ選手、ジョアニ・ロシェは世界中の涙を誘ったと思います。
ジョアニのお母さんは彼女を応援にヴァンクーヴァーに来て到着2時間後急逝したのですが、銅メダルを二個獲得しました。お父さんも来ていましたが複雑な心境だったでしょう。
まだ、55歳だった母の予期しない死に挫折してしまったかもしれないのです。
このような勇気を私たちはみな我が子に祈るのです。
しかし障害者に限って言えば、障害を障害たらしめているのは社会であって、本人に「克服」やら「努力」の責任が負わされるのはおかしい、ということは述べさせて頂きます。
それを「克服」しなければならない負のものととらえる価値観が、障害者を生きにくくしているとは言えないでしょうか?
と言う考え方は一寸単純すぎると思いますよ。
例えば生まれつき眼の見えない人は特別不自由を感じていないのに外部が「不自由」と言う、と言うようなことなのでしょう?
それに、誰も「責任」を負わそうとはして居ないと私は思います。
「年と共に足腰も弱くなってくる、歩くのは健康に良いと聞いて一日一万歩を歩く努力をしている人もいれば、とてもそんな元気は無いと車に頼る人もいる」と言う状況を考えてください。「足腰が弱ってくる」これ、障害です。
「一万歩を歩く」これ、努力です。この努力は他人が代わってあげることは出来ません。
「馬を水辺に連れて行くことは出来るが水を飲ますことは出来ない」と言う諺があります。水を飲むか飲まないかは馬次第なわけですから「一万歩を歩く」か「車に頼る」かも本人次第です。結果が必ずしも「一万歩を歩く」人の勝利とは保証できませんが、弱る速度に歯止めが掛かっていることは実証されているようですし、これ、克服です。