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さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

会津二十三万石 緑の圃場広々と

2020-06-24 | 日記

今年も豊作予想ですねコロナのことなど忘れてしまいました。

 

 

 会津坂下町の令和元年の産米は約1万6千トンだそうです
米1石=約150kg

私の下手な計算ですと1万6千トンは石数でいうと1万7千石くらいでしょうか

これは私のとっさの計算ですからあまり当てにはなりません。悪しからず?

 


梅雨の晴れ間の空明るくて

2020-06-23 | 日記

嬉しい緑の村の散歩道

 

緊急事態宣言が解除されて大内宿やお城などの観光地の賑わいも少しずつ復元されてくるでしょうね。なんかほっとして心が明るくなります。

 いろんな対策がなされているようですけど今日の東京都の新しいコロナウイルス感染者は31人とか。ちょっと心配です。大内宿もお城もすぐ近くです。たくさんの方に来ていただけるのは嬉しいンですけども、コロナウイルスにはきて欲しくないですよね。


ワクチンや特効薬ができるまでは気を緩めず対処しなければなりませんね。明日は3ヶ月ぶりの心筋梗塞の定期検診治療で病院に行かなければなりません。ちょっと気が重いです。


広々とした緑の圃場に私ひとりいて

2020-06-22 | 日記

遠い日の思いよみがえらせて懐かしみました


   

 

80年の昔10歳半ばの私は百姓でした

今の農村には百姓も農民もいないんです、農村で働いていらっしゃるのは大型で高速でぴかぴかの農耕機械をつかって働いていらっしゃる稲作や・ハウス栽培や・畜産などの専業経営者ばかりなんですよ。百姓や農民と言われるような人は もういないんです。若者の姿は少なくて熟年のご夫婦さんが中心なんですけどもね。

百姓と言うのは家族同然の馬や牛と一緒になって地べたを這いずりまわり、鍬で耕し、鎌で草をかり、鉈や鋸を腰に差して里山を管理していた者をいうのです。

農民というのはいろんな機械化が進んでいて、でも、たとえば稲刈りのコンバインにしてもまだ小型でご主人がコンバインを運転し、奥様が籾を入れる袋を持ってコンバインの後を追い、刈り取られていっぱいになった籾の袋を交換してご主人と一緒に稲刈りを働いていた時代の農家の方をいうんです。農民の時代はそれぞれの農家はみんな自分の耕地は自分の農耕機械で耕作していたんです。自立していたんですね。、

今の農村では自分の家の田んぼは大型機械を持っている稲作経営者の方に委託して耕作してもらい、自分は町の会社で働いていらっしゃる方が多いみたいなんですよ。

どこかの農家のおばあさんが「うちの百姓どもはみんなサラリーマンになってしまった・・会社で働いて帰りにスーパーで野菜を買ってかえるんだから」らと嘆いていたのを聞いたことがあります。

 

さて80年昔の百姓の気持ちにかえった私はこの広々とした緑の圃場を見て6月下旬だ、ああこれは「一番こ」が終わる頃だったなと思うのです。

「一番こ」というのは6月に入り植えられた苗が定着分蘖(ぶんけつ苗の新芽が伸びて株が太くたくましくなること)した頃田んぼの苗の間を草取り器を押して転がして中耕し


      田んぼの中耕草取り器です


           

 中耕が終わったら素手で田んぼの泥をかき回して除草をするのです。その一回めを「一番こ」」二回めを「二番こ」というのです。七月に入ると「二番こ」が始まります。

「二番こ」は辛いですよ。上半身薄い作業着にさっぱかま(作業用の細いもんぺ)にすげかさをかぶって作業をするんですけども腰を折って腹ばいに近い形で素手で泥をかきまわして草をとるのです。とった草は泥に埋めるのです。背中は七月の太陽にあぶられて暑いんです。体中汗びっしょりです。でも泥手です汗などふけません。

でもその「二番こ」を私はそんなに辛いとも思わないで仕事を続けました。

それぞれの家でそれぞれの人がそれぞれの田んぼで草取り作業をするんですから七月の圃場は草取りの人でいっぱいなんですよ。人に負けちゃいられないとがんばるのです。

当時の百姓の仕事って大変庵なんですよ。夜明けとともに起きて鎌を持って草刈りにいって刈った草を背負って帰るんです。馬や牛の餌にするためです。刈った草は堆肥にもなるんです。だからとても大事な仕事なんです。朝の飯前仕事といいました。

朝飯が終わると間をおかず田んぼや畑の仕事に出るのです。午後は昼食を含めて3時間ほど昼寝をします。そしてまた日の沈むまで働くのです。 これが自作百姓の仕事です。厳しい仕事ですけどもみんながやっているあたりまえのことですからそんなに辛いとは思わなかったのです。

 

幸に私の住んでいた村は山間の耕地の少ない場所でしたから小作などはありませんでしたけど、○○様と言われる大地主と小作百姓の話も聞いてはいました。

生活に困って土地を担保に高利の金を借り返済出来ず土地を取りあげられて小作人がどんどん増えていくんだと聞いていました。小作は四分六といわれ収穫の六分は地主に納め残りの四分で暮らさなければなりません。不作の年には生活に困り娘を女衒と言われる人買いに売らなければならないこともあったらしいのです。あの「おしん」の始め頃におしんの母が遊郭に身を落としたシーンがありましたね。それが悪いこととは思われない時代であったんですよね。人権などあったもんではありません。戦前はそんな時代でした。

戦後占領軍のGHQの命令で地主制度が廃止され小作人がみな自作農民になったことが今のような豊かな農村の日本になれた大きな要因だたったと聞いたことがあります。

もと百姓だった私にはたれ一人見えない広い緑の圃場を見るといろんな思いが湧いてくるんですよ.わたしの子供の頃の着物の襟は流れる鼻水を拭いてぴかぴか光っていました。おやつはみな野や山から自分でみつけて食べていました。

いまの子供達は綺麗な服装で変速機付きのっ自転車に乗りスマホも持っているみたいです。どこの家でも自家用車は2--3台はあります。茅葺きの家などありません。みんな綺麗な住宅で子供たちは個室をもらっているみたいです。農村は豊かになりました。

でも農村から若者や子供の姿は本当に少なくなりました。なんか違うなとしみじみ思う私なんですよ

ながながとボケ老人のたわごとを書きました。最後まで読んで下さった方がいらっしゃったら感謝申しあげます。ありがとうござました。このまま投稿します。詠みにくいと思いますけどごめんなさいね。  

 

 

 


明日は夏至の日空は明るくて

2020-06-20 | 日記

豊かな緑いっぱいの会津野です。

 

今日の東京都の新しいコロナの感染者は4人増えて39人とか、みなさん必死にがんばっているのに残念で怖くて気が滅入り」ます。なにも出来ない私ですけどせめて自分だけでもコロナに感染しないよう注意してがんばりたいと思っています。

私の散歩道は人の姿はまったく見えない会津野です。馴染んでいた緑公園にはもう3ヶ月もいっていません。人に 会いますから・・毎日ばばちゃんとだけとのつきあいは寂しいです。ばばちゃんはデイサービスにいきますから明るく元気で助かります。

 


ああらもったいない

2020-06-19 | 日記

散歩道の林のわきの空き地に無造作に間伐された木や枝や枯れ葉が積まれていました。いまはもうこんな物は捨てるところもないんですね。昭和2年(1927)生まれ93歳の私はしばらく立ち止まって「ああらもったいない」とつぶやいて見つめていました


                         

80年ほど昔私が15-16歳の頃の山間(やまあい)の農村には石油やプロパンガスなどはありませんでした。燃料といえば薪(まき)・柴・木炭・鍛冶ご(かじご)・杉の落ち葉・大豆がらなどでした。今は捨て所に困る杉の落ち葉や大豆をはたいてとってしまったまめがらなどまで貴重な燃料でした。脱穀した籾殻だって大正釜と呼ばれていた陶器で作られている特殊な釜で籾殻を使ってご飯を炊く家もありました。美味しいご飯が炊けるんですよ。でもそれは毎日白米だけのご飯を炊ける裕福な家でのことです。私の家のように貧しい家では粟(あわ)などの雑穀や乾燥した大根の葉などを米と一緒に炊いていましたから大正釜は使えませんでした。

燃料の薪(まき)は山毛欅(ぶな)などの大きな木を山から切り出して幹を1mくらいの長さに切って細く割って乾燥して囲炉裏や風呂釜などの主燃料としたのです。でもこれは集落から離れた谷の奥地の山の斜面で伐採し雪道を橇で運んだり谷川を流して家まで運ばなければなりません。ですから屈強な男の2-3人以上いる家でなければ自家用の薪は整えられませんでした。私の家のように子供だけの家では高いお金をだし買わなければなりません。冬場では本当に貴重な薪でした。薪を綺麗に積んだものを「きんにょ}と言いました。私など「きんにょ」を豊かに積んである家を見るといつもうらやましく思ったものです。

柴は四月頃、まだ残雪が斜面に残っている尾根に登って雪の消えている斜面の柴を切りとり大きな束にして斜面を転がし落とし谷の下で小さな束に切り整えて重ねて積んで置き雪が消えると小学校の高学年の子供たちが背負って家に運びました。

 

山の尾根筋の柴切りは小学校高等科(今の中学1.-2年)になると父と一緒に柴切りの仕事をしました。父親と一緒の春の柴切りは楽しいものでもありました。雪の消え間にシュンランやイワウチワなどの綺麗な花も見られましたから。

でも柴はすぐに燃え尽きるので夏場だけの燃料でした。冬場の囲炉裏は薪(まき)を燃やさなければなりませんでした。

木炭は専用の炭焼き窯で焼かれるものですから一般の農家では作れません。炭俵に入ったものを買わなければなりません。貴重な燃料ですから毎日使うものではなくてお客様などがお出でになったときとかお正月とかの特別の日などに座敷の火鉢などで使いました。白炭と黒炭とがあって白炭が高級品でした。

木炭で思い出すのは昭和16年日本が始めた太平洋戦争の時代です。石油やガソリンはアメリカら輸入していたんですけどアメリカが敵国になったんですから当然入ってきません。やむなく自動車はうしろに木炭ガス発生器を積んで木炭ガスで走っていました。木炭車は力が弱く登り坂はあがれないんですよ。でも乗客は心得ていてなんにも運転手から言われなくても坂道にくると全員が車からおりてヨイショヨイショとバスを押し揚げました。困ったような楽しいようなおかしなバスのた旅でした。

 そんな時代を生きてきた私です。無造作に積まれた間伐の木や枝の山をみると「もったいない」と思う気持ちになるんです。太い幹は鋸(のこぎり)で切って長さを揃え、斧で細かに割って薪(まき)を作り、枝木は鉈で長さを切りそろえて柴の束にする。半日もすれば綺麗に処理できるのに、いやそう処理したいと思ってもそれを燃やす場所がありません。綺麗に出来てもなんの役にも立ちません。無駄な仕事です。ちょっと悔しいような思いのボケ爺いです。

そして「鍛冶ご」です。「鍛冶ご」は冬の寝室の炬燵に使う炭です。私の子供の頃は私と3歳とし下の弟と山で作りました。当時の農家はいつも仕事に追われ忙しいんですけど夏はすこし暇ができるんです。柴がいっぱい生えていて斜面が緩やかな場所に3mに2m、深さ1.5mくらいの穴を掘りそこに枯れ木を入れて火を焚き火の勢いが強くなったら生の柴を鉈で切って投げ込むのです。火の勢いが強くなれば生の柴でも勢いよく燃え上がるのです。朝から午後の3時頃まで焚き続ければ穴いっぱいに赤いオキがたまります。そこに草を刈って載せ土を載せて埋めて帰ります。10日ほど過ぎて掘り起こして見ると柔らかで細かな炭が穴いっぱいに出来ています。それをかますに入れて背負って帰ります。鍛冶ご炭といいます。炬燵の灰にいけて囲炉裏の赤い火(オキ)をのせると緩やかに燃えていつまでも暖かいのです。寝室の炬燵に使うと朝まで温かいのです。

5歳の頃の私は今のようなむさくるしい顔姿ではなくって可愛いかったらしいんですよ。私より3-4歳年上のお姉えさんたちにつれられて鍛冶ごを入れた大きな掘りごたつのある家につれていかれて炬燵に脚をいれて遊んでいるうちになんか嬉しいようなほんわかした気持ちになった記憶があるんですよ。私の93年の人生の中でそんな嬉しい気持ちになった記憶はこれひとつだけなんですよ・・・ 鍛冶ごをいれた掘り炬燵っていいですね。懐かしい思い出です。夢よもう一度、でも93歳6ヶ月の爺いでは無理ですよね残念です。