さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

糸桜里の湯ばんげカラオケのゆうべ

2015-12-15 | 日記
2015 グランドチャンピョン大会



 「糸桜里の湯」ってわたしたちの町の町立温泉なんです。「しおりのゆ」っていうんです。町で杉の薬師と言われる薬王寺には会津五桜の一の樹齢400年と言われる枝垂れ桜があって町の天然記念物に指定されています。それにちなんだ温泉の名前なんです。いつもいい名前だと思いながら楽しませていただいております。

 糸桜里の湯では毎月カラオケ大会が開催されて町内だけでなく近くの市町村からもたくさんの参加者があって賑わいます。そして毎回ごとに4ー5名の優秀者がえらばれます。そして12月には毎月の大会に撰ばれた優秀者の人たちが集まってその年のグランドチャンピョンを決めるのです。

 当日は12時開演ということでしたが、早く行かないと広い二つの駐車場が満杯になると聞いて9時に糸桜里の湯につきました。ところがもう10 数台の車が駐車してありました。幸いにわたしは糸桜里の湯に一番近い場所に駐車することができました。

 もう大変なんですよ。9時30分ころから出場者と応援者のグループのかたがどんどん受け付けにやって来るんです。フロントは大忙しです。


 そして控え室もロビーも廊下も人でいっぱいになるんです。控え室に休んでいると綺麗な女の方に挨拶され言葉を掛けられました。どうやらわたしもチャンピョン大会の出場者と勘違いされたらしいんです。出場者どうしで親しく挨拶し声を掛け合うのが大事なエチケットのようなんです。「すみませんわたし耳が遠いもんですから」と申しあげるとああ違うん人なんだという感じて別な場所にいってしまわれました。もう控え室・ロビー・廊下は熱気でむんむんです。






 12時開会です。会場には早く来て整理券をもらった人だけが入場出来るんです。整理券を持たない人は廊下に溢れていました。早くきて良かったです。わたしの整理券ナンバーは27番です。いい撮影場所を確保出来ました。



司会の方です

 
 てきぱきとすむーずに、時にはみなさんをなぎやかに笑わせ、拍手をもりあげ、体の不自由な出場者の方を優しくサポートっするなどの名司会ぶりでした。

 主催者のかたのご挨拶です。残念ながら耳の遠いわたしはなにをお話なさったのかわ分かりませんでしたけど、会場の皆さんが和やかに笑ったり、拍手したりして盛り上がっていました。会を盛り上げるいいご挨拶だったんでしょうね。


 さて熱唱される出場者の方々です。音痴で耳が遠い私です。ずいぶんと長い間音楽など無縁の私なんですけども驚き感動し嬉しくなってちょっと泪うるうるしたりしたんです。








 どうしてあんな美しい声が出るんだろう。どうしてあんなに心に響く大きな声量が出るんだろうと耳の遠い私が感動してしまいました。さすが一年間の大会から撰び抜かれた方々です。 お一人お一人がみんなすばらしい方ばかりでした。

 真剣に審査される先生方です。聞くところによると皆さん優秀な成績でそれぞれの年のグランドチャンピョンになられた方でそれぞれの場所で歌唱のご指導もなさっていらっしゃる方なんだそうです。


 応援の方、聴衆の方、しーんと歌を聴きほれたり、わき起こる拍手だったり皆さん出場者の方と一体になって大会を盛り上げ楽しんでいました。




 
準グランドチャンピョンの方なんでしょうか。



 
そして今年のグランドチャンピョンの方です。





 12時より4時近くまで途中休憩時間も2度ありましたけど54名の方の熱唱でした。耳が遠くてその上音痴の私が感動しっぱなしの3時間あまりでした。美しく豊かな声量の歌を楽しませてくださった出場者のかた、そしてこのようなすばらしいグランドチャンピョン大会を開催運営なさった糸桜里の湯の方々、惚け爺いをの撮影を許可してくださった主催者の方,本当に有り難うございました。そして無粋でわがままでご迷惑をおかけした会を運営なさった方々申しわけありませんでした。深くお詫び申しあげます。

熱唱なさった方で私のカメラにはいていた方の写真を次に投稿させていただきました。トイレにいったり、ストロボが不調で露出不足になっていたりして全員の方と言うわけには行きませんでした。もしわけありませんでした。ごめんなさい。

いくさとはほんとにむなしく悲しく哀れです。

2015-12-12 | 日記
まほろば街道散策の[3]

 
まほろば街道を南にドライブして勝方寺(しょうほうじ)の山門の前までくると



 
こんな案内板が目に入りました。



 
私の心を強くとらえる案内板でした。



 慶応4年(1868)の会津戊辰の役で家老西郷頼母邸では女と子ども21名が車座になって覚悟の自刃をして果てたたことは知っていましたけど、若松城下を遠く西に離れた勝方寺(しょうほうじ)裏の山中で町野家と南摩家の家族が自刃したことなど私は知りませんでした。

 私の心にじ~んと迫るものがあって勝方寺裏300mnの自刃の地を訪ねて見ることにしました。勝方寺の裏の急な斜面は広い墓地になっていて寺から200mほど登った場所からの会津平の遠望です。



 158年ほど前の墓地はこんなに豪華な墓地ではなくて石碑も小さくて見晴らしがよく空気も澄んでいたでしょうからはるかに鶴ガ城も望むことが出来たと思います。でも自刃の地らしい場所はここでは見当たりませんでした。

 なお50mほど登ると薄暗く広い杉の林の前に墓地の最後の石碑がありました。静かで心鎮まる場所でした。墓地の左には杉の林に入る細い急な道があって白い案内板が見えました。



細い急な坂道が杉の林の中に40mほど続いていて白いプレートに「殉難の地」とあって矢印が着いていました.


 細く急な杉林の中の道を登った右側の暗い林の中に狭いけどちょっとした平らが場所があって町野家・南摩毛家族殉難の碑があリました。





 三歳から八歳までの子供を含めて8名の両家の家族の方が寺から300mも山の道を登った暗い杉の林の中で自刃されたんですね。その悲しく凄惨な時を思い胸がいっぱいになって涙が浮かぶのを止めることはできませんでした。しばらくの間佇立してやがて深く深く合掌して山を降りました。

 家に帰ってネットで町野家と南摩家の殉難の様子を調べてみました。

 西軍が(会津で新政府軍をそう呼びます)若松城下に近づき、武家は急いで城に入るよう早鐘がなると、町野家と南摩家では主人と男子を城内に送り込むと、子供連れの女の家族は足手まといになるのを恐れて従僕を連れて会津西部の山沿いの地に非難しました。しかし村々の家では西軍の咎めを恐れて留めてくれる家は一軒もなくあき寺やお堂に宿泊しながらさまよっていましたがようやく勝方寺に宿をえることが出来ました。しばらくすると落城と町野主水の戦死の報(誤報)がはいり両家は自刃を決意して勝方寺の裏山に登り暗い杉林のなかで自刃しました。

 南摩弥左右衛門の母勝子は辛(4歳男)を刺し、寿(8歳男)を刺そうとすると寿は祖母の手にかかって死ぬるより敵と戦って死にたいというのをようやくなだめて刺し自分も自刃しました。

 町野おきと(町野主水の母)は源太郎(3歳)を刺したが7歳の女の子の「おなお」は怖がって泣くので戦死された父上の霊に祈りましょうというと殊勝に手を合わせて城に向かって正座して祈りました。そのとき従僕は泪ながらに刀で介錯しました。

 悲しくむごく凄惨な家族自刃の様子が従僕のよって伝えられていたんですね。

 いくさとは本当にはむなしく悲しく哀れなものなんですね。
 昔も今もあるいは未来も人間の世界からいくさはなくならないんでしょうか。日本の今は幸いに平和ですけど。世界のあちこちではテロと無人機での爆撃などで互いに殺戮しあっています。自分の信仰のために、あるいは自分の信ずる正義のためにと殺戮をしあい戦っています。人類はいま一国だけで持つ原水爆で全人類を数度殺戮出来ると聞いたことがあります。平和はほんとうに大事なものだと思います。優れた英知と相手を思いやる温かい心でで平和を守らなければならないと私は思います。戊辰の役で会津をせめた西軍も錦の御旗を立てて正義の戦いと思って戦ったんでしょうし。会津藩の武士も自分の国を守り主君のへの忠誠のための正義の戦いと思って戦をしたんだと思います。どちらも正義の戦いと思って戦いをしたんですよね。その結果は悲惨でした。どちらにも深い英知と相手を思いやる温かい心が欠けていたんだと思います。平和を守る深い英知と相手を思いやる温かい心が本当に大事なんだと私はしみじみと思いました。

まほろば街道散策 [2]

2015-12-10 | 日記
有名な杉のお薬師さまの糸桜です。




初冬の空に浮かぶ厳しい古木の姿に心打たれました。



今年の5月初めに撮りました。糸桜の素朴で奥深い花の色が美しいです。




「エドヒガンサクラの一種で幹の太さ3.2m、樹の高さ6m、花の色はやや白色、新編会津風土記によれば天正年中(1573~1590)に植えられ二株のうちの一株といわれ、その華麗さはつとに有名で会津五桜の一に数えれている。」

(会津坂下町教育委員会の解説です)



 この寺は通常杉のお薬師さまと呼ばれていますが正しくは「醫王山薬王寺」で船杉の集落のまほろば街道工事現場近くにあります。



本尊の木造薬師如来座像です。

 

 

(会津坂下町の文化財よりお借りしました)




 この寺の山門に治まって寺院を守っていらっしゃる仁王様にも信仰が集まっているんですよ。山門の脇にはこんな歌が板に墨書されて掲げてありました。

「足腰の禍癒す御仏の杉の薬師の仁王像」

私には「足腰の」の次の字が読めません。どなた様にかご教示頂ければ嬉しいです。




 そして山門の格子の桟にはたくさんの草履や下駄などの履き物が奉納されておりました。上の方に綺麗な瓢箪も奉納されておりました。


 このお薬師の仁王さまにおもしろい言い伝えがあるんですよ。
 昔、杉の仁王さまとすぐ近くの塔寺の仁王さまが村境で大喧嘩をなさって塔寺の仁王様は泥沼の中に投げ飛ばされ、杉の仁王さまは胸の乳首をかじりとられてしまいました。それで塔寺の仁王さまの上の部分は黒くて、杉の仁王さまの胸には乳がないと言われています。
(故井関敬嗣先生の「会津坂下の伝説と史話」から)


 それ以来昔は杉と塔寺の人の間には縁組みがなっかったんだそうです。ちょっと困った伝説ですね。今は全く関係ない伝説です。

 
杉の薬王寺の仁王様です。山門が狭くて部分した撮れませんでした。



 塔寺の立木観音の仁王さまです。山門の中が暗くて仁王の姿がよく見えないのにしっかり撮ってくれました。仁王さまに叱られるといけないのでストロボは光らせません。


 
仁王門の狭い格子の間から小さなミラーレスのカメラをやっと入れて撮りました。

ふ~っとね「まほろばの道」を訪ねて見たくなりました

2015-12-08 | 日記
会津西部の山沿いにこんな広くて静かな道があるんです



そして道々のあちこちにこんな標識があるんです


 
まほろば街道(旧湯殿山道)とあります


 世間に疎い私は私達の町の山沿いにこんなすばらしい道があることなどしりませんでした。でも町主催の「町中ハイキング」に参加してこの道を遠い昔からあった古道に沿ってつくられた新しい道「まほろば街道」であることを知りました。


 「まほろば」なんかゆかしい美しい言葉のようです。、幼い日に学校で習ったような気がします「ヤマトは国のまほろば・・たたなづく・・なんとかなんとか」記紀の歌のところで習ったような気がします。ぼんくらのぼけ爺い、恥ずかしいですけどいくら考えてももよく良く分かりません。ネットのウィキペディアで調べて見ました。

やまとはくにの まほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるはし ...

古事記に収録されている倭健命(やまとたけるのみこと)の歌で「やまとは国々の中でも格別に優れた国だ。幾重にも重なる青々と木々の茂った山々。その山々に囲まれたやまとこそは本当に美しい国だ。」という歌の意で、皇子倭健命が景行天皇の命により、西に熊襲、東に蝦夷を討ちに行き、精根尽き果てた姿で鈴鹿の山にたどり着き、そこから故郷のやまとを望んで詠んだ歌です。とありました。

ああそうか「まほろば街道」それは道沿いに国の重要文化財の仏像や寺院がいっぱいあって、豊かで美しい山沿いの古道と言ううことでつけられた名前なんだということが分かりました。

「まほろば街道」は「八反道」ともいわれていた塔寺から赤留までの古道と、塔寺から宇内の舟渡しを通って喜多方に通じる「湯殿山道」と呼ばれていた古道に沿って新しく作られた街道なんですね。
 
(ネットで調べました)


「八反道」は越後から勝負沢峠を越えて会津西部の山沿いを通り日光に通じる重要な裏街道でしたし、「湯殿山道」は柳津から塔寺・宇内・喜多方を通り湯殿山に通じる信仰の古道だったんですね。

 「まほろば街道」は場所によって差がありますけどもほとんど車も人も通らない静かな街道です。それは「まほろば街道」がまだ完成していなくて終点の集落塔寺から2kmほどのところの杉の集落近くでが今工事中なんです。工事現場には立ち入り禁止です。車の列は工事現場の方の車です。


 もし工事が完成すれば越後街道の国道49号線からまほろば街道を通り赤留に通じるようになりますから車の往来も賑やかになると思います。

 私はまほろば街道の北の部分は散策を楽しんでいるんですけど、塔寺から南の道はまだ散策していません。どんな集落どんな寺院があるんでしょうね足を伸ばして大内峠を越えて大内宿までドライブしながら散策を楽しんできたいと思っているんです。楽しみです。

 ところで古道の「八反道」の由来について面白い言い伝えがあるんです。井関敬嗣先生の「会津坂下町の伝説と史話」から要約してみます。

昔「塔寺八反」とあだ名された泥棒の名人が塔寺にいた。この怪盗は物凄く足が速く、盗むとその日のうちに下野との国境の山王峠を越えて日光に行き朝市に出して金に換えて帰って来たといわれている。この塔寺八反はもともと盗賊ではなく、足早なところから飛脚を業としていたが、或る時山中で追いはぎに囲まれ脅かされた。その時彼は右によけ左に走り、前にいるかと思えば後ろで大笑いするという早業に追いはぎはほとほと降参し「是非私たちの親分になってほしい」と懇願されて大泥棒になったといわれている。

 塔寺八反の名の由来はものすごく足が速いので、八反の布をつないでその端を腰につけて走ると布は地に着かないほど早かったと言われている。なお栃木県今市から野沢にかけて、随所に似た様な名称があるので八反道は越後から会津裏街道を通って下野に至る重要な重要な道だったと思われる。

(小林吾浪画伯の挿絵です)


 なんかとってもおもしろいお話でした。いくらなんでも会津坂下町から日光の朝市で盗品を金に換えて日帰りするなどありえませんけどもね、昔の人は信じていたんでしょうか?