さんたろう日記

95歳、会津坂下町に住む「山太郎」さんたろうです。コンデジで楽しみながら残りの日々静かに生きようと思っています。

ああ玉杯に花受けて

2012-01-05 | 日記
 4ヶ月前、あんなに元気に重いカメラ機材の鞄を肩に飛び回っていたのに今の私の現実は厳しいのです。急性心筋梗塞の今の私は今わずか500メートルほどのリハビリの散歩にも息切れしてしまうんです。 
 わずか1枚の軽いサブカメラのシャッターをようやく切った厳しい会津の町の冬景色です。でも、病後再出発の最初の1枚です。


 リハビリから帰宅して、PCの操作がよく分からないボケ老人の私がパソコンで遊んでいると、どうしたことか突然に「一高寮歌」のメロデーが聞こえてきたのです。そして懐かしいこのメロデーに幼い子供の頃の思い出がよみがえってきました。それは、若くして逝った父がいつも歌っていた幼い頃の懐かしい歌だったなのです。


 父は30何歳の若い頃山間の小さな村の小学校の校長をしていました。1933年(昭和8
年)から1938年(昭和13年)、私が小学校1年から小学校5年まで父母と弟妹そして私の5人でその小学校に住み込みで暮らしていたのです。


 当時、父は文検と呼ぶ旧制中学校教師の資格をとることを目指して勉強していることが幼い私にも分かっていました。父はよく「ああ玉杯に花受けて・・」の一高寮歌を歌っていました。それは上を目指して努力している父の思いにぴったりの歌だったと思うのです。その懐かしい一高寮歌のメロデーが暖かい父の息吹を思い起こさせてくれたのです。


 その時代は、東北地方の大凶作、二二六事件、盧溝橋での日中戦争勃発と続く暗い時代でもありました。二二六事件は陸軍の青年将校が部隊をひきえてクーデターを起こし重臣たちを殺害し首都を一時占拠した事件で狂気の軍国主義の出発点になったと言われています。でも子供の私の目には銃殺された青年将校たちは部下の兵たちの出身地の東北地方の惨状を思って国の改造のために起った英雄と写っていました。そして日中戦争は暴虐な中国を懲らしめるため聖戦であり日本の軍隊の連戦連勝を祝って万歳万歳を叫んで旗行列をして祝いました。私たち子供は毎日勇ましい戦争ごっこに明け暮れていました。それが10年後には日本の主要都市が爆撃で壊滅し、学徒出陣をした若者たちがおんぼろ飛行機に爆弾を抱えて特攻に出発し死んでいき、遠い南の島々では何十万人もの若い敗残の兵士たちが飢えで死んでいった悲惨な終末の出発点だったなどとは夢にも思いませんでした。

 私には当時の父と母に、いまひとつの懐かしい思い出があるんですよ。
 父の本棚の引き出しには200字詰めの原稿用紙が残されていました。それは昭和10年頃の東北地方を襲った冷害飢饉での小さな山間の小学校の惨状をある新聞に頼まれて書いた原稿用紙の残りだったのです。

 小学校2年くらいだった私にも当時の山間集落の惨状がまざまざと思い浮かびます。昭和8年冬の豪雪はものすごいものでした。小さな小学校の校舎はすっかり雪に埋もれてしまいその雪よけ作業をしている父や村の人の姿が屋根越しの向こうに見えるのです。幼い私も「こうしき」と呼ぶブナの板で作ったスコップで作業を手伝っていたのです。

 5月、苗代を作る季節になっても深い積雪は消えませんでした。村人たちは大きなノコギリで積雪を切り割りながら除雪して苗代を掘り出していました。何も知らない子供の私たちはとっても珍しい楽しい村行事に思えて楽しく見ていていたのを思い出します。

 秋、取り入れの季節になっても稔りはありませんでした。登校する児童たちには弁当を持たない子が多く、もって来た子の弁当でも、中は水っぽい黄色のカボチャなどが少し入っているだけでした。私は今でもカボチャの煮物を見ると気持ちが悪くなるのです。

 その小学校になんと給食がおこなわれたのです。父が新聞社へ投稿した小学校の惨状が影響したのかどうかは分かりません。でもそれは私たち子供にとっては輝くような幸せの世界がやってきたのです。今でも弁当に盛られた銀色のご飯の喜びがまざまざと思い浮かびます。

 お米は、その年関西地方を襲った強烈な「室戸台風」で水につかって商品にならない米でした。でもおいしかったんですよ。おかずは鰯の「ほうどし」1匹でした。60人の児童に天国が訪れてのです。

 私には、そのときの母を中心として村のお母さんたちが差し出す弁当に白いご飯においしい鰯のおかずをもってくれる姿がとっても暖かく幸せに見えたのです。

 「ああ玉杯に花受けて・・」のメロデーは、若い父の歌声、そして子供たちにご飯をよそってくれる懐かしい母たちの姿が思い浮かんで85歳の老爺はPCの前でしばらくぼうだの涙を流していたのです。

 あの懐かしい父は49歳の若さで旅立ちました。私は今でも父の「ああ玉杯の・・・」の歌がはっきりと聞こえてくるのです。

85の祝いよ ラーメン老い2人

2012-01-04 | 日記


 2012年1月3日の今日は私の誕生日です。
 ささやかに「山茶花」のおいしいラーメンでジジとババ2人で祝いました。

 今日からジジの「さんたろう」は85歳、後期高齢者から晩期高齢者になりました。

 晩期高齢者それは、今仮に終わりの時がやってきたとしてもそれほど悔いる歳でもないし、人もまた「さんたろうは」よくぞここまで生きてくれましたと祝ってくれる歳かもしれません。

 思い起こせば生き抜いてきた85年は決して空疎ではありませんでした。心の弱い私にとってよくぞ生き抜いてきたと思う濃密な85年でした。

 世の出来事の最初の思い出といえば、長い長い墓場へと続くの葬列のシーンです。それは満州事変で戦死した人をたたえそして悲しむ村人総出の村葬の葬列です。わずか4歳だった私の強烈な最初の思い出です。

 父の手作りの「アシナカ」と呼ぶわら草履を履いて山に栗やアケビやサナズラと呼ぶ小さな山葡萄やキュウイの味のするこくわなどの幸を求め、勇ましい「戦争ごっこ」に明け暮れた子供時代でした。
おもちゃは、野や山の木や草を「肥後の守」と呼ばれる安物のナイフで自分で細工した笛であり刀であり風車でした。だから肥後の守のナイフはいつも研ぎ澄まされ輝いて切れ味抜群でした。

 そしてその幼い子供の日からいつも弱い心にむち打って生きぬいてきた85年です。
 そして84歳の最後の思いでは、10月4日の私のブログに書いた広瀬幼稚園の運動会の様子です、そして11日のちびっ子マラソンの様子です、そして16日の体調を崩しながら「人見えぬ圃場の村」が遠く見える寂しい様子です。振り返って85年の私の人生は決して空疎ではなく、弱い心をむち打って生きた濃密なものだったと思うのです。

 美しい花の香りや、人々の喜びをカメラで追ったつもりの80歳前半でしたけれども、期間の終わりはすごいことになりました。

 2011年10月13日(木)、10数年来の胆管炎とのつきあいの中央中央病院での三ヶ月おきの定期診察を終えての帰り道、段差のある歩道で激しく転倒して体を強打しました。84歳の老いの体に応えました。でも特別な痛みもなく帰宅できました。

 14日(金)朝、左胸部に痛みがありましたが、かまわず5㎞ほどの散歩などを含めた日常の生活を過ごし、夕方には痛みも消え気分よく食事をして床の入りました。

 15日(土)、朝より胸が痛み町の厚生病院の診察を受けようと思いましたが休診日で我慢しました。夜になると痛みが強くなり、体温は37度3分と少し高くなりました。
 夜10時頃、胆管炎治療に頂いた痛みと炎症を抑えるロキソニン錠を飲みました。そして16日朝の起床時には痛みは消えていましたが微熱37度3分ありました。

 16日(日) 病院は休診。胸部の痛みは消えましたが弱い頭痛で、食欲なく1日寝ていました。夜12時頃体温38度1分、毛布をはいで体を冷やすと37度6分になりました。

 17日(月)町の厚生病院内科の診察を受けました。胸部レントゲン、血液検査等の診察の結果、胸部に異常はないが、微熱と血液検査に問題があるので定期診察を受けている中央病院の消化器科の診察を受けるようよう紹介状を頂きました。

 午後、中央病院を訪れると午後の外来は休診だけれども、消化器科主治医の野村先生が特別に診察してくださって検査入院をすることになりました。

 17日(火)消化器科で血液検査、胸部レントゲン、肝臓と胸部のCT検査、肝臓のエコー検査などして頂きました。

 18日(水)朝、主治医の朝野村先生が回診され消化器系に異常は認められないが、胸部の痛みがあるので循環器科で診察頂くよう手配した。もし循環器系に異常がなければ退院出来るとつげられ嬉しくなりました。

 しかし当日は、循環器科では外来診察が多く、私の診察は午後5時過ぎになりました。その間弱っている体を鍛えようと病院内をエレベーターをつかわず階段をつかって歩行して運動していました。今考えるとすごい危険な命に関わる行動でした。

 もちろん、循環器科への診察にも元気で徒歩で行きました。
 循環器科ではすぐに、心電図検査と心エコー検査をうけました。ところが思いもかけず主治医の先生は真剣な顔で、「これは心筋梗塞です。心筋梗塞の治療は8時間が勝負です。あなたの場合は発症後5日もたっておりきわめて危険です。すぐにHCUに入院し治療をしなければなりません。」そうつげられるとあれよあれよというまに酸素吸入やたくさんの電極が体につけられベット近くのモニターが怪しく輝いていました。そして10日間安静にしてないと心臓が破裂する可能性があるとつげられました。大きなボトルの点滴が2つもつけられあっという間に重病人になってしまいました。

 そしてそれから2ヶ月、辛い苦しい闘病生活が始まったのです。一日一日が苦しみに耐える積み重ねでした。夜中に失神して倒れ、気づくとベットごと頭部のMRI検査に運ばれるている途中でした。幸い最も恐れられていた心筋梗塞に付随する脳梗塞ではありませんでしたが原因は分かりませんでした。そのため主治医の先生が心配なさり入院治療が普通の人の倍になりました。また激しいじんましんの症状がでて全身がかゆく眠れぬ夜昼に苦しみました。治療が進んでの毎日ベットと病院の廊下を歩行するリハビリだけの単調な長い治療期間は拘禁症状と言うんでしょうか涙が出たりする異常心理にもなり苦し見ました。

 そのような苦しみに耐えて、死への道から生き返らせて頂くことが出来たのは、もちろん優れた中央病院の先生方の医療の知識と技術と、最新のCTやMRIその他多くの医療設備とその技術者の方、そしていつも笑顔で苦しみやつらさに耐える患者を優しく介護してくださった看護師さんの方のおかげです。

 深夜突然に意識を失った私の診療のために駆けつけくださった主治医の先生、じんましんのかゆみに耐えられず安定剤を頂いて夜思わず失禁してしまった私を笑顔で慰めながら、下着からベッドのシーツとマットまで替えてくださった若い看護師の方、私のわがままな闘病生活の不満を暖かな心で聞いて主治医の先生に伝えてくださった年配の看護師の方、私の苦しい2ヶ月の闘病生活は感謝仕切れないほどの親切に囲まれていました。

 同室の患者さんの中には狭心症で詰まった心臓の動脈を胃の後ろにある動脈で取り替えようとして出来ず、急遽大腿部の動脈で取り替える手術をなさった方がいらっしゃいました。肩の下から下腹部へ、そして大腿部にも直線の長い手術後の痛々しい傷跡がありました。退院後、頸動脈に梗塞がおきて再入院されたのに、いつも明るく「何度でも生き返るんだ」といつもみんなを笑わせ楽しませていらっしゃいました。

 10年前、狭心症で手術したけれどもまた心臓の動脈が詰まって70日間入院して治療しているとおっしゃる方は、何も知らない心筋梗塞の患者の私に優しく治療からリハビリまでの治療の有り様を教え励ましてくださり、私の退院する数週間前に賢そうで明るいお孫さんの娘さんに囲まれて退院して行かれました。

 同室の循環器科の患者さんはみな苦しさつらさに耐えながら、明るく過ごしていらっしゃいました。
 その大きな要因の1つは、主治医の先生が患者にいつもその病状と治療の見通しを詳く教え、患者にいつも明るい希望をもたせてってくださったからだと思うんですよ。

 患者にとって、主治医の先生が信頼でき、いつも治療の見通しと明るい希望をもてたことは本当にすばらしいことでした。いつも主治医の先生と心がつながっていると思っていたのです。

 私も、同病に友人たちもみんな苦しみつらさに耐えて元気になって退院し新しい命を頂くことが出来たのです。中央病院の先生方、明るく優しい看護師さんたち、そして最新の設備とその技師さんたち、本当にありがとうございました。技師さんたちはいつもその処置が終わると「ありがとうございました」とおっしゃってくださいました。どんなに患者の心を慰めてくれたか分かりません。

 退院して3週間がすぎました。少しずつリハビリを重ねてようやく無理をしなければ日常生活を送れるまでに回復してきました。

 新しく頂いた85歳のこの命、どのように充実させ楽しもうか、もちろん重いカメラ機材をもって飛び回った4ヶ月まえの84歳の私ではありません。今日から85歳の新しい道を探るスタートです。ゴールまでがんばるつもりです。

 圃場の畦に人知れず咲く地味だけれども美しい「ハルジョオン」の花のように強く生きたいと思ってもいるんですよ。