昨日12月8日は太平洋戦争開戦の日なのににうっかり忘れていました。爺いの平和ボケですよね。
79年前の昭和16年(1941)12月8日は日本海軍の空母を中心とした大艦隊の航空機が宣戦布告もなく大挙してハワイのアメリカ艦隊を攻撃して狂気の戦争が始まった日ですよね。
わたしは当時16歳でした。開戦の思い出といえば全生徒が講堂に集められて対アメリカとの開戦決意の行事がありました。どんな行事があったのか忘れてしまいましたけど、その行事が終わっていつものように寒い校庭で軍事教練があったのを思い出します。
生徒たちは高揚してはいませんでした。まだ成人していな16歳です事態情勢は分かっていませんでしたけど、アメリカは当時戦っていた中国とは桁の違う強力な大国であることは皆知っていましたから「いったいこれからどうなるんだろう」という不安みたいのものが心の底にあってちょっとしずんだ気持ちの軍事教練でした。
でも大本営発表という勇ましい発表があって破竹の勢いで勝ち進む日本軍の報道に気持ちが高揚して不安など消し飛んで しまいました。
これは戦後にわかったことですけども日本海軍の真珠湾攻撃は宣戦布告のない不意打ちの卑怯な攻撃である、「リメンバーパールハーバー」と非戦の雰囲気であったのアメリカ国民の戦意を一気に高めました。
またこれも戦後分かったことですけども真珠湾で撃沈ささたアメリカ海軍の艦船はどちらかというと旧式の艦船が多く、だいじな空母は一隻も真珠湾にはいなくて外洋にいて健全に残っていたということです。つまり実質のアメリカ海軍の損害は割と少なかったとも言えるんだそうです。
太平洋戦争開戦の次の年の6月に太平洋戦争の状況転換のきっかけとなったミッドウェイ海戦がありました。大本営発表では日本海軍の空母1隻が沈没し1隻が損傷したがアメリカ海軍に大損害を与え勝利したとありました。私などまた勝ったんだ大勝利だと喜んでいました。
その年の10月頃でしょうか今考えると不思議なことがありました。学校の先輩(たぶん海軍予備学生になった人)が数人が来て講堂に集まった生徒たちに「アメリカは弱い国という風潮があるが間違っている、若者はしっかり気をひきしめてがんばらなければいけない」といって短い日本海軍とアメリカ海軍との海戦の実写フイルムを映写して見せてくれました。
空いっぱいの弾幕の中を飛び交う飛行機、そして何機もの日の丸をつけた飛行機が海に着水して沈みそのパイロットをボートで救出するシーんがありました。16歳の私など海戦ってすごいんだと感動しましたけど、たったそれだけのことで高揚した気分などありませんでした。
でもいま考えるととそのことはとても大変なことだったんです。その映画はミッドウェイ海戦を日本の従軍カメラマン撮影した実写映画だったのです。日本の飛行機が海に着水して沈んだということは日本の空母には着艦できない、つまり日本の空母は飛行甲板が破壊されたかあるいは撃沈されたかが分かる実写映画だったのです。
あの狂気の戦争の時代は本当に大変な時代でした。郵便に投函した封書まで開封されて調べられる時代でした。もしおかしなことがあれば黒塗で消され、万々一軍の秘密に少しでも触れるようなことがあれば特別高等警察(特高)に引っぱられ激しい暴行を受けて調べられるというような恐ろしい時代でした。
戦後は「大本営発表」というと嘘っぱちのおおぼらふきの代名詞と言われていますけど、戦時中はその大本営発表に一喜一憂していたんです。でもそれが「勝った勝った」といっているけど實は「負けているんだ」とどこからか秘やかに聞こえてもきました。でもそのことがもし特高の耳に入ればひっぱられて激しい暴行を受け調べられる時代でした。
アメリカ海軍に大打撃を与えたと大本営発表のあったミッドウェイ会戦は、アメリカ軍が日本の作戦暗号無線を受信解読していて日本海軍が4隻の新鋭空母を中しんとした大艦隊でミッドウェイ島攻略にくることを把握していたんです。空母が無傷健在のアメリカ海軍が満を持して待ち受けているところに今までの勝利に慢心していた日本艦隊がなんにも知らずにやってきたんですからたまりません4隻の日本空母は一瞬にアメリカの航空機に急降下爆撃され沈没してしまったのです。そのとき日本の空母の飛行甲板には大型爆弾を装着した飛行機が航空魚雷に付け替えるため全機並んでいたんです。そして空戦防御の零戦は敵の雷撃機防除の為に低空にいたのです。雲の上には日本の戦闘機零戦はいなかったのです。そのときアメリカの急降下爆撃機10数機が上空の雲間から突然急降下爆撃してきたのです。1発命中すれば日本空母の甲板上の飛行機に付いてる爆弾や魚雷が誘発して4隻の新鋭の日本空母は一瞬に轟沈してしまったのです。
日本海軍を代表する新鋭空母4隻が一瞬に撃沈されたことで空母に搭載されていたゼロ戦をはじめ優れた日本の飛行機数十機が失われたのです。それ以上に重要なことは優れた日本のパイロットが多数戦死してしまったのです。
この敗戦で僅か開戦後6ヶ月で日本海軍の戦勢が敗戦ムードになってしまったのです。
戦後そのミッドウエイ海戦を日本のカメラマンが摂った実写フイルムの映画をみて驚きました。その映画は開戦の次の年の10月ころ学校の先輩が持ってきて講堂で全生徒に見せたのと同じだたったのが分かったのです。
あの厳しい情報統制の時代 「ミッドウエイ海戦の惨敗」は絶対の秘密でした、飛行機が海に着水して沈みパイロットがボートで助けられる様子は空母が沈んだとういいことです。そんな敗戦の実写フイルムが民間に流れていて一部で放映されているとわかればたいへんんなことになるのに、いったいどんなルートで流れたんだろうかと不思議でなりません。
太平洋戦争が敗戦でおわったとき私は18歳でした。ですから戦場にでることはありませんでした。でもあの狂気凄惨の戦争のいろんなことを体験しました。その思い出は消えるることはありません。その思い出のひとつを書かずにいられなかったのです。
もうひとつつけくわえると昭和20年の4月(1945年終戦の年)学徒動員で横浜の軍需工場で厳しく苦しい仕事をしていましたけど、たぶん仕事をする材料がなくなったからと思うんですけど学徒動員が北海道の十勝の援農作業に変更され一週間ほど帰宅することが許されたのです。家に帰ると母は着ているものを全部脱がせ盥に入れ熱湯をかけて悲鳴を上げました。下着にはきぬシラミの死骸あちこちにあってその卵が熱湯をかけられてきらきらと下着一面に輝いていたのです。
父は私の帰省の列車からみた横浜や東京がB29に爆撃され一面の廃墟になっている様子の話をだまって聞いていました。そして山に芝刈りに二人で行く途中たれもいないところで「さんたろうこの戦争はまもなく必ず負けておわる。いろんなことがおこるだろうけど決して死んではならんぞ」と小さな声で厳しく言いました。もしそんなことが人に知られば大変にな処罰を受ける時代だったのです。
私は新年の1月3日で94歳(90歳代中期の初年)になります。もうこんな体験をした人は少なくなりました。こらえていますけど書かないではいられない時があるんです。乱暴な文章にもならない文章です。もし読みにくいと思うんですけどこの駄文を判読していただいた方がいらっしゃったら心から感謝申しあげます。