
これはゲンノショウコの花ですね。
「現の証拠」と書くらしいです。広辞苑によれば「服用後ただちに薬効が表れる」という意味なんだそうです。
そうです、昔の人は夏に白い花の咲くこの薬草を摘んで陰干しにして保存しました。
消化不良や食あたりで下痢をおこしたときこの薬草を煎じて飲めばぴたりと止まるといわれた大事な薬草でした。
私の幼い頃、80年ほど昔のことですけれど、私の住む山峡(やまはざ)の小さな集落には当然のことですけど病院などありませんしお医者さんもおりませんでした。3里(約12km)ほどの離れたところにお医者さん(医者殿といっていました)がいらっしゃいましたけど徒歩か馬でしか移動出来なかった昔のこと、それに保険制度などありませんから診察や薬代も高額でしたから、特別なことでもなければ診察を受けに行くことも往診をして頂くこともありませんでした。
だから、年に2度ほど大きな薬の入った柳行李(やなぎこうーり)を重ねて大きな風呂敷でつつんだ薬の入れ物をしょってやって来る富山の薬屋さんがおいていく置き薬の入った箱や袋がどの家にもありました。
よく効きましたね。
セメン(蛔虫の虫下し)、ケロリン(飲むとけろりと治る風邪や頭痛の薬)、タコノスイダシ(化膿した時塗っておくと膿が吸い出される緑色の薬)、熊の胃(熊の胆のうの燻製で胃の薬、万能に効く)、ドクケシ(毒を消す薬、蜂に刺された時などかみつぶしてつけました、黄色の丸薬)、救心(ちいさな銀色の粒で失神などに効く薬)、仁丹・・などなどみな懐かしい薬です。それが私たちば病の時の頼りでした。
蛔虫なんてもうわかる人は少なくなりましたけど、化学肥料などなかった昔は農業の大事な肥料に糞尿が使われていました。「肥え」と呼んでいました。その肥えを使って野菜の肥料にしていましたから人間の腸の中には寄生虫というミミズのような虫が湧いていたんです。今考えると不潔で恐怖を感じる話しですね。腹痛や嘔吐感があり学校などではカイニンソウなどを煎じて全校児童にのませまて駆除しました。うそみたいな話しです。
ラジオも電話も新聞もない時代です。人々は風聞、世間のニュースに飢えていました。富山の薬屋さんは薬だけでなくその楽しい世間の風聞や出来事の話しをもってやってくるのです。だから富山の薬屋さんがくると家内の老若男女がすべて集まって、矢立(墨壺のついた筆入れの筒)から筆をとりだして記録し薬を補充したり置き換えをしながら話すその世間話を楽しみながら聞きました。5歳か6歳の幼いわたしでさえその風聞を聞くのがとても楽しみでした。 それに薬の補充取り替えが終わるとお土産に紙風船をくれました、嬉しかったんですよ。
脇道にそれましたけど、いろんな薬草がありましたね、子どもでも上手にそれを使っていました。肥後の守というナイフで傷をつけた時などはチドメグサをもんでつけ、うちに帰ってオトギリソウの焼酎を塗ると奇妙に早く治りました。なにかで化膿すればドクダミの葉を和紙に包んで囲炉裏の火であぶったものを布につけて貼ると膿がとれました。
ダイモンジソウやイカリソウなど強壮の薬草もありました。「ひったち」とか「毒ぼっこ」なんてのもありましたね。
それにゲンノショウコには別の楽しい思い出があるんです。実が熟してはじけると小さなコウモリ傘の骨のような形になるのです。それを眺めるのがとても楽しみでした。

なぜって、当時雨の日は私たち貧乏人は竹と和紙でつくって亜麻仁油(あまにゆ)をぬったカラカサをさしていました。コウモリかさはハイカラで高価でお金持ちのお嬢さまがさすものでした。
コウモリ傘は美しいお金持ちのお嬢さまのシンボルでした。幼い私はコウモリ傘の骨の形をしたゲンノショウコの実をみるとうっとりと天国へいったような気分になったのです。
この小さな白い花にも老いた私は幼い頃のいろんな思い出があって懐かしいのです。
老いの身のくだらないぐちを書きました、ごめんなさい