ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

岩国市玖珂町谷津‥鞍掛合戦千人塚から鞍掛山城跡

2024年09月09日 | 山口県岩国市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         谷津は玖玖珂盆地の北に位置し、水無川が当地の西を南西に流れ出ている。1889
        (明治22)年の町村制施行により、近世からの区域をもって玖珂村が単独で自治体を形成す
        る。平成の大合併で岩国市玖珂町となる。(歩行約6.8㎞) 

        
         JR徳山駅から岩徳線で約55分、JR玖珂駅で下車する。

        
         歩道橋で駅北側に移動する。

        
         国道2号線の一画に千人塚の案内があり。次の四差路にも「千人塚 西へ100m右側」
        の案内がある。

        
         戦国時代の1555(弘治元)年11月14日(一説には10月27日)大内氏の重臣・杉隆
        泰軍2,600人は、毛利元就軍と蓮華山城主・椙杜隆康軍の7,000人を迎え撃って戦
        う。
         しかし、杉氏は奮闘むなしく討死し、鞍掛山城は落城する。城を脱出した杉方将兵と毛
        利軍の戦いが、玖珂盆地内各所で展開された。激戦地となった谷津の地には、戦死者を弔
        うための積み石塚が造営され、1933(昭和8)年には墓標「鞍掛戦死者之碑」が建立され
        る。
         その側に作家・宇野千代の直筆による「史跡千人塚に想ふ」の追悼碑は、随筆「残って
        いる話」の中に記述があり、合戦の悲痛さに胸打たれた想いが語られている。

        
         左手に鞍掛山、その奥に聳えるのが蓮華山。

        
        
         曹洞宗の善住寺は、往古には瑞雲寺の24坊の1つであったという。のちに寺号のみと
        なった時代もあり、再建されたものの鞍掛の戦い後は、再び壊廃して寺跡を残すのみとな
        った。岩国領主吉川経倫によって再建され、岩国横山の洞泉寺末寺になる。

        
         生活バスの善住寺バス停近くに、小さな祠と灯籠が立っているが、何が祀られているか
        知り得なかった。

        
         新幹線下を潜り、出雲大社玖珂教会のある三叉路を北上し、水無川の山王橋を渡る。

        
        
         比叡神社参道入口の右手には、この境内で行われた流鏑馬(やぶさめ)神事を詠んだ栗陰軒
        貞鯛の狂歌碑がある。
             「とんつはねつ 花な散らしそ 
                     山王の 桜の馬場に 勇む駒鳥」
         1857(安政4)年に碑が建立されたが、狂歌とは社会風刺、皮肉や滑稽を盛り込んだ和
        歌である。

        
         参道(馬場跡?)を進むと本殿への石段が始まる。

        
         比叡神社の井戸に水神(亀) 

        
         221段もある石段の途中に踊り場が設けてあって、休みながら上がって行く。周囲は
        大杉の木立に囲まれているが、杉氏や椙杜氏の崇敬厚く、神前に杉の木を植えたのが大木
        になったという。

        
         山王山に鎮座する比叡神社は、平安期の805(延暦24)年に近江国(滋賀県大津市)の日
        吉神社から勧請して創建された。当初は山王宮と称していたが、1868(明治元)年に現社
        号となる。

        
         下りの石段を避けて谷津上方面へ下る。

        
         蓮華山は旧玖珂町の最高峰の山で、いくつかの登山道があるようだが、谷津上から登る
        室ヶ迫(多老坊)コースは、古くからのコースとされる。

        
         出雲神社前の三差路を右にとって、鞍掛山登山口へ向かう。

        
         新幹線下の谷津下公会堂に弥山道の道標があり、「これよりみせん道 寄進 谷津村新 
        町中]と刻まれている。北河内の阿品にある弥山社への参詣道に設けられたものである。
         江戸時代の庶民が、日常生活の憩いとして、神社や寺院の縁日に参詣するという信仰と
        同時に、楽しみとしていたようだ。

        
         公会堂前に火切地蔵尊。

        
         小畑浦次郎(1878-1936)は、谷津ヶ原約100haの畑地を水田開発しようとする。この地
        は扇状地であることに着目し、地下ダムによる用水路を設けることを計画したが、地主の
        反対にあって失敗に終わる。根気強く説得を続け、計画から12年が過ぎ去ったが、難工
        事の末、1925(大正14)年に完成させた。
         碑は小幡が逝去して15年後、1951(昭和26)年10月に「小幡浦次郎頌徳碑」が建
        立された。

        
         旧玖珂町のマンホール蓋は「町の花・ツツジ」がデザインされ、中央に「ク」と「ガ」
        が図案化された町章が配置されている。

        
         生活バスの鞍掛住宅前バス停向い側に、鞍掛山登山道入口を示す標柱がある。この道は
        城があった時代は「大手道」と呼ばれていた。

        
        
         最奥民家前に「林間歩道」「山頂まで650m」の道標がある。雑木林の中に明瞭な道
        が続く。

        
         新幹線第一玖珂トンネルの上に出ると、歩いたルートの一部が望める。(山頂まで唯一の
        展望地)

        
         要所には距離標やベンチがあって素人には心強い。

        
         蓮華山城主・椙杜隆康と鞍掛山城主・杉隆泰は大内氏の家臣であったが、日頃から不仲
        であったという。厳島合戦で陶晴賢が敗死すると、両氏は毛利氏に従うことになった。
         しかし、杉氏は大内氏への忠誠から大内義長へ「大内氏には恩ある身なので、毛利を討
        ち果たすつもり」という密書を僧に持たせたが、椙杜氏の手下に捕まり、毛利元就に通報
        されて鞍掛山城攻めが開始された。(北に蓮華山) 

        
         平坦尾根は鞍掛山城二の丸跡とされる。

        
         鞍掛山城の戦いは多勢に無勢であったため、あえなく城主以下多数が討死する。その後、
        毛利軍は長府まで進撃し、1557(弘治3)年大内義長が自害したことにより防長2州は毛
        利氏が支配することになる。

             
         鞍掛山は2回の合戦舞台となる。室町期の1469(文明元)年11月陶弘護(ひろもり)と大
        内教幸の鞍掛の戦いがあった。応仁文明の乱で大内政弘が京都に出兵すると、政弘の叔父
        である教幸が主家奪還を狙ったクーデターを起こした。
         しかし、教幸は敗れて安芸国へ逃れ、翌年に再決起したが、追い詰められて豊前国馬ヶ
        岳で自刃する。

        
         標高240.1mの本丸跡は砦規模の広さで、二の丸も物見台程度であったとされる。城
        の砦を形どった展望台が設置されている。

        
         山頂からは玖珂の町並みが一望できる。

        
         下山は登ってきた道とは違う反対方向へ下ると、途中にテーブル付きの展望地がある。
        急坂の登山道は横木階段となっている。

        
         トイレのある林間広場は駐車場でもある。

            
         舗装路を下って行くと、ガードレールの所に「鞍部コース」の案内がされている。この
        まま下って金龍寺に立ち寄る予定であったが、列車時間のこともあって、上り時に利用し
        た登山道と合流する鞍部コースを辿ることにする。

        
         植林帯の中の緩やかな道を辿ると、南ピークとの鞍部に出る。そのまま直進すると、林
        間歩道入口付近に戻ることができる。 

        
         近道したことで筏山古墳に立ち寄るが、古墳は玖珂中学校の裏手にある。

        
         筏山古墳は、1954(昭和29)年2月に高森高校前の国道2号線工事で発見され、この
        地に移築された。古墳は古墳時代中期(5世紀頃)に築造された竪穴式石室古墳とのこと。

        
         戦国哀話の鞍掛山の背後には、蓮華山が威圧するかのように迫っているが、この2つの
        山は、「眺めてよし 山頂からの眺めよし」と地元や登山者に愛されている。国道2号線
        の地下道を利用してJR玖珂駅に戻る。