ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市上宇部の参宮通りから福原邸跡と宗隣寺

2023年10月10日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         上宇部は真締川中流の左岸、宇部丘陵の基部にあって緩やかな谷状の低地に位置する。
        大正期に沖の山が市街地されるまで宇部村の中心は上宇部の寺ノ前であった。今回は参宮
        通りの西側から真締川付近を散歩する。(歩行約4.5㎞)

        
         JR宇部新川駅バス停(10:02)から宇部市営バス交通局行き約15分、八幡宮前バス停
        で下車する。 
         
                  
         琴崎八幡宮の森と参宮通りを見返るが宇部村が宇部市になり、1925(大正14)年町
        の中心が新川に移り
始めた頃、航行する船からも八幡宮が見えるようにとの願いから一直
        線に造られた。

        
         常盤公園の白鳥が中央に大きく描かれ、その周囲にも白鳥がデザインされたマンホール
        蓋。

        
         国道490号線(参宮通り)を南下してGSの先で右折すると、こんもりとした高台が宇
        部の給領主だった福原氏邸跡で、側面には白い土塀と石垣が再現されている。

        
         福原氏は毛利氏と同じく、鎌倉時代に源頼朝の家来であった大江広元を祖先としており、
        武蔵国長井庄を所領したことから長井氏を名乗っていた。安芸国に移り、南北朝期の13
        81年に福原庄を所領して「福原」を名乗る。

                
        
         萩藩の永代家老であった福原家は、宇部村ほか合わせて8,000石の領地が与えられ、
        この地に屋敷を構えた。藩の要職にあったため普段は萩屋敷にいたため、宇部の屋敷は御
        田屋(おたや)と呼ばれた。
         1976(昭和51)年宇部市福原史跡公園として整備された時、表門は萩の福原屋敷門を
        3分の2に縮小して再現され、石段も模擬建造物である。

        
                    
         御館は2階建ての主屋のほかに文武の稽古場、馬屋などがあったが、当時のものとして
        は井戸と祠(稲荷社と他に1基)、樹木が往時を偲ばせる。敷地全体はよく保存されている
        ようで、敷地は当時に近い状態と思われる。

        
         天保年間(1830-1844)に郷校として中村に晩成舎を設け、1845(弘化2)年には儒者・
        佐々木向陽(しょうこう)を招き、菁莪堂(せいがどう)と名を変えて福原邸の中へ移す。
         福原越後守元僴(もとたけ)の代、1864(元治元)年4月文武両道の教育施設として、この
        地に維新館が建てられた。洋式兵制にも力が注がれ、武士だけでなく庶民も入学が許され
        た。
         変革を意味する「維新(これあらた)」という語が使われたため、幕府からクレームがつい
        たとか。

        
         赤煉瓦塀と蔵のある民家前を過ごす。

        
         常盤公園で放し飼いとなっていたモモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、
        その周囲に市の花であるサルビアがデザインされたマンホール蓋。

        
         中村地蔵尊は、1682(天和2)年第15代の福原宏俊が大坂の石匠に依頼して制作され
        た。船便で京納台地の南側の講堂の地に安置され、大正期に現在地へ遷座させたという。

        
         地蔵尊の傍に「一石一宇経塋」と刻まれた経塚の碑がある。

        
         1827(文政10)年ある修験者が置いていったという不動尊と、他にあった荒神が一緒
        に祀られている。

        
         中村1丁目内を抜けると真締川に架かる御手洗橋があり、左前方に護国神社の看板が見
        えてくる。

        
         御手洗橋東詰にある2つの祠は、右側が八王子社で寛政八丙辰8月吉日(1796)川津村中    
        と刻まれている。左側が豊前坊として栄えた英彦山神社とのこと。

        
         護国神社の社務所がある広い平地は、いつ頃まで行われたか不詳であるが、祭りの時に
        は競馬場して使用されたとか。参道を進むと手水鉢舎には水琴窟が設けられている。

        
         1866(慶応2)年11月に創建された維新山招魂社は、禁門の変で戦死した21名とそ
        の責任を負わされた福原越後守元僴の霊を祀ったものである。
         明治以後、日清・日露戦争やその後の戦いで戦死した人たちの霊を合祀するようになり、
        1939(昭和14)年内務省令により宇部護国神社と改称する。

        
         本殿前から左方向へ進むと招魂社跡があり、旧社殿跡には「殉国戦死之碑」が建立され
        ている。その奥には安否不明となった福原家臣の霊標が並ぶ。

        
         霊標には「不知所終(おわるところしらず)」と刻まれており、これは禁門の変で、亡くなっ
        た場所もわからないような壮絶な死に方をしたことを表しているとのこと。

        
         第二次幕長戦争を前に福原芳山が組織した西洋式の軍隊「知方隊(ちほうたい)」が、戊辰
        戦争での会津落城前にライフル銃16挺を献納したことを示す記念碑。碑には「献装條銃
        (そうじょうじゅう)」とあり、これは銃身内部にらせんの切れ込みを入れた当時最新式のミニ
        エー銃である。

        
         鎌田橋は真締川では最初に架けられた橋で、江戸期には宇部村と藤曲村を結ぶ重要な橋
        だった。

        
        
         鎌田井堰は真締川では一番大きな堰で、蛇瀬池の水と合わせて尾崎水路に流れ、小串・
        鵜の島開作へ送水されている。

        
         鎌田橋から道に沿って上がって行くと、右手に庚申塚があり猿田彦大神と刻まれている。
        日本神話で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向国高千穂の峰にくだったとき、先頭に立って道
        案内をしたという神。中世には「塞(さえ)の神」と混同されて道祖神となり、一方、仏教の
        影響を受けて「猿」が「申」との混同から、庚申の日にこの神を祀るようになった。

        
         鎌田橋から県道を避けて里道を歩くと、今では珍しくなった「はぜ掛け」が見られる。

        
         宗隣寺(臨済宗)は奈良期の777(宝亀8)年唐より来朝した為光(いこう)和尚がこの地に来
        た時、この辺りはまだ海水が入り込んでいた。ここの景色が故国の松江(ずんこう)に似てお
        り、この地に松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ)を創建したと伝える。

        
         普済寺はいつのころか廃寺となったが、宗隣寺として再建されたのは、1670(寛文1
          0)
年福原広俊が、宇部の最初の領主であった亡父福原元俊の菩提ため、開創したといわれ
        「宗隣」は元俊の法号からとられたものである。
         屋根瓦には福原家の家紋「二文字三つ星」、護国神社には「酢漿草(かたばみ)」が用いら
        れている。

        
         福原越後は禁門の変の責任を取って、1864(元治元)年11月12日岩国市の龍護寺で
        切腹した。その首は広島の国泰寺に運ばれて首実検され、その後、宗隣寺に持ち帰られた。
        寺の裏山に墓所があるが、命日に法要が行われ、この日だけ一般公開される。 

        
         南北朝時代に築庭された山口県最古の池泉式庭園として知られ、潮の干満を表す干潟様
        の池では平泉の毛越寺(もうつうじ)の2箇所しかない造りとされる。

        
         方丈の北側にある龍心庭の池中には8つの夜泊り石は、蓬莱思想や仏教の四諦(したい)
        正道を表しているといわれている。
         四諦とは仏教の礎となる4つの心理、苦諦・集諦・滅諦・道諦。八正道とは正見・正思
        ・正語・正行・正命・正精進・正念・正定。 

        
         寺は宇部村で初めて小学校が開かれたところであり、現在は中国観音霊場23番霊場と
        山陽花の24ヶ寺になっている。

        
         福原芳山(ふくはらよしやま)は長州藩の上級藩士粟屋親陸の次男として生まれ、1864(元
        治元)年福原越後が禁門の変の責任を取り自害すると、藩命により宇部領主福原越後の養子
        となる。
         1867(慶応3)年藩命により大英帝国へ留学し、帰国後は不正に独占されていた厚狭郡
        内の採鉱権を、私財を投げ打って買い戻し、その後の宇部の炭鉱産業発展の基礎を築く。 

        
         大阪市北区の鶴満寺にある銅鐘に遼の太平10年(1030)の銘があり、「長門州厚東郡宇
        部郷松江山普済寺」「永和五年己未仲呂日」の追銘があるという。この銅鐘は普済寺の廃
        絶によって地中に埋もれていたが、元文年間(1736-1741)真締川の堤防工事中に発見され、
        藩主毛利氏によって鑑定のため大坂に送られていたのを、鶴満寺(大阪市北区)の再興する
        に際して延亨年間(1744-48)毛利氏より寄付されたと伝える。現在ある銅鐘の鋳造年など
        は知り得なかった。

        
         片隅に庚申塚。

         
         小串バス停よりJR宇部新川駅に戻る。


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