ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

飯塚市の幸袋は長崎街道筋に伊藤伝右衛門宅 

2022年11月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         幸袋(こうぶくろ)は遠賀川左岸に位置し、白旗山麓から集落が広がる。地名の由来は、遠
        賀川が蛇行していた地形からきたといわれ、「続風土記」には河袋と書くとあり。
         また、1838(天保9)年の五ヶ村用水の完成により「幸」がきたということで、河が幸
        になったともいう。(歩行約3㎞)

        
         飯塚バスセンター(13:25)から西鉄バス赤池工業団地行き約10分、伊藤伝右衛門邸前バ
        ス停で下車する。(始発は新飯塚駅)

        
         バス停から幸袋本町を抜けると遠賀川の河川敷に出る。遠賀川水運の船場として発達し、
        幕末には船庄屋が置かれたという。

        
         明治中期~後期頃に建築された建物のようで、妻入り入母屋造り甲造りで白漆喰を塗込
        めた居蔵造りである。

        
        
         幸袋の通りには明治・大正期を思わせる建物が残されている。

        
         無極寺(真宗)は創建以降300年来この地にあって、本堂屋根は銅板葺きである。

        
         街道筋にある伊藤伝右衛門邸の長屋門は、福岡市天神にあった別邸「通称:銅御殿(あか
          ねごてん)
」が、1927(昭和2)年漏電により焼失したが表門のみが焼け残ったため、後年、
                本邸に移築されたものという。

        
         表玄関は入母屋造りのどっしりとした構造で、鬼瓦には伊藤家の家紋「丸に三桝紋」、
        屋根は少しむくった破風が施してある。

        
         玄関に入ると「和協輯睦(わきょうしゅうぼく)」の額があるが、1936(昭和11)年書家の
        高田忠周が伝右衛門に頼まれて篆書で書いたものである。

        
         表玄関を上がると左手に応接室があるが、もともと和室だった部屋を改装したとされる。

        
         表玄関の右手に和洋折衷の書斎。床は寄木貼りと腰高までの羽目板、板戸には金の下地
        を塗り、四季の草本が描かれている。

        
         食堂からは庭の景色が楽しめるように設計されている。1906(明治39)年大広間や食
        堂などが建築されるが、1888(明治21)年伝右衛門は28歳で辻ハルと結婚。のち牟田
        炭坑の経営を開始、衆議院議員に当選するなど盤石な時代だった。

        
         食堂の手前にある上風呂はタイル張りの床、天井は舟底形に仕立てられた網代状の細工
        が施してあり、脱衣所(洗面所)と上風呂は和洋折衷の趣で構成されている。

        
         本座敷廊下は畳を横使いに敷き締め、広さを強調した造りがなされており、天井は板を
        矢羽に貼り込んだ作りとなっている。(左手は本座敷と次の間)

        
         次の間から見る庭園。

        
        
         伝右衛門の居間と東座敷は庭園を一望する角にあって、波をモチーフに彫られた欄間な
        ど豪華さが際立つ。

        
         総欅の階段を上がると、入口は上部が円形した火灯口(かとうぐち)と、茶室にみられる客
        出入口である躙り口(にじりぐち)を設けるなど茶室風に施してある。

        
         主に白蓮が使用したという2階部分。

        
         1910(明治43)年伝右衛門の妻ハルが死去すると、翌年に伯爵家の柳原燁子(あきこ)
        結婚。政略な面を持ちながら華やかであったという。のち、1921(大正10)年に燁子(白
        蓮)は宮崎龍介のもとに奔る。 

        
         明治期に建てられ、大正期・昭和期に増築された和洋折衷の邸宅と広大な庭園は、筑豊
        の石炭王・伊藤伝右衛門が誇った栄華を物語る。華族出身の燁子と、自らツルハシを握っ
        て極貧からのし上がった伝右衛門との間には、25歳の差、自ら望んだ結婚ではなかった
        こともあって溝は埋まらないま破局を迎えた。(1階が伝右衛門の居間、2階が燁子の居
        室) 

        
        
         邸宅の敷地北側の大部分が庭園で、川の水源に見立てて深山から石を敷き詰めた渓谷の
        風情から、蛇行しながら流れる川を再現し、太鼓橋や噴水を配した回遊式庭園である。 

        
         あらゆる所に石灯籠や層塔を添え、四阿の屋根は宝形造りで躯体にはシュロの木が用い
        られるなど、どこらから見ても楽しめる庭園である。

        

        
         信号機手前の2軒目の民家には、左に富士の裾野で狩りをする武士、右には一目散に逃
        げる猪、中央に富士の山が描かれている鏝絵がある。

        
         国道200号線(長崎街道)の歩道には、市の花であるコスモスが描かれたカラーマンホ
        ール蓋。

        
         国道筋に残る古民家。 

        
         一の鳥居は、1900(明治33)年9月伊藤伝右衛門の献納とある。

        
         陸橋で旧国鉄幸袋線を渡るが、かって小竹町の小竹駅と飯塚市の二瀬駅を結ぶ鉄道敷地
        であった。石炭輸送のために敷設された鉄道は、1894(明治27)年に開業したが、日鉄
        鉱業二瀬鉱業の閉鎖とともに国鉄赤字83線に指定され、1969(昭和44)年12月に姿
        を消す。

        
         許斐(このみ)神社は、1573(天正元)年の頃、秋月氏の家臣・許斐某が、この城にあった
        木実権現を崇敬し神社を建て直したので、いつしか許斐神社と言われるようになったと伝
        えられている。

        
         高林寺(曹洞宗)は、1600年代に慶閏寺の塔頭として現在の佐賀市に創建された。1
        915(大正4)年伊藤伝右衛門の妻・燁子の世話で、娘静子(燁子の実子ではない)の婿養子
        として堀井秀三郎を迎い入れた。
         堀井は近くに禅宗の寺を欲したため、1930(昭和5)年に佐賀の地から現在地に移転し
        てきたという。

        
         高林寺からの街道筋は、概ねこのような町並みが続く。

        
         建花寺川付近の古民家。

        
         片島の町並みを歩きたかったが、時間の制約もあって水江バス停からJR新飯塚駅に戻
        る。


飯塚市に長崎街道の飯塚宿

2022年11月10日 | 福岡県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         飯塚は穂波川と遠賀川が合流する左岸に位置する。地名の由来について、神功皇后が三
        韓から帰途、ここで将士を郷里に帰す時、「何日可逢」と別れを惜しんだという伝説から
        「いつか」が地名になったという。また、聖光上人が明星寺を造営した開堂供養の時、今
        の太養院の所で食物を調えたといわれ、炊いた飯が多くて塚のようであったことに因むと
        もいう。
         しかし、太養院西側の台地にある円墳状の飯の山が、飯塚の地名発祥の故地と考えられ
        るとのこと。(歩行約4.4㎞)

        
         新飯塚駅は、1902(明治35)年に貨物専用の芳雄駅として開業、大正期に旅客業務が
        開始された。1935(昭和10)年に新飯塚駅と改称し、現在は橋上駅舎となっている。

        
         飯塚病院前の道を遠賀川方向へ歩く。

        
         ベンチで猫が日向ぼっこ中。気持ちがよいのか動こうともしない。 

        
         遠賀川と穂波川が合流する地点には2つの橋が連続し、その間の東町橋東詰に「殉職碑」
        が建立されている。

        
           「師の君の 来ますむかふと 八木山の 峠の若葉 さみどりのして」
        
 河川敷に柳原白蓮の碑が設置されているが、遠い九州の地を訪れる師(佐佐木信綱)を迎
        える前に心境を詠んだ歌が刻まれている。歌碑はボタ山を背景に建ち、川には沈下橋が架
        けられている。

        
        
         嘉穂劇場は、1931(昭和6)年に坑夫の娯楽施設として開場した江戸時代の歌舞伎様式
        を伝える木造2階建ての芝居小屋である。
         炭坑が華やかな頃は、遠賀川流域に48座あった芝居小屋も、炭鉱の閉山と合わせるよ
        うに芝居小屋も姿を消して、残ったのが嘉穂劇場のみである。火災、水害と幾多の災害を
        乗り越えてきたが、2021(令和3)年5月13日より休館となり、飯塚市に譲渡されて再
        開に向けて建物の改修などが行われている。(柵が設けてあって柵からの見学)

        
         飯塚市の市花であるコスモスが描かれたマンホール蓋。

        
         嘉穂劇場から飯塚図書館方向への通り。

        
         長崎街道飯塚宿に大名などを迎い入れるという場所にあたるため、向町(むかいまち)と名
        付けられたという。1908(明治41)年からの遠賀川流路変更の工事で新たに川ができた
        ため、1913(大正2)年に架橋された向町橋の親柱が残されている。 

        
         飯塚宿は2度の大火に見舞われ、現在は商店街の道として残っているが、宿場町の面影
        は残されておらず、宿場関連の史跡には石碑が建てられている。

        
         長崎方面から飯塚宿の入口になるのが西構口で、両側に街路と直角に石垣を築いて築地
        塀に門が設けてあった。一定の時刻に門が開閉するなど、城郭的な役目を果たしていた。
        長崎方面の門を西構口、江戸方面を東構口と呼ばれていた。

        
         向町観音堂で西構口の正面にある。

        
         街道筋はこの先で右折する。 

        
         1706(宝永3)年この場所で「元大神」と刻まれた光る石が発見され、住民が「大神石」
        と称して祠を建てて、曩祖(のうそ)八幡宮の末社として祀ってきた。1909(明治42)年本
        社に合祀されると跡が荒れることを畏れて、神の栄を念じて井戸を掘り、神に捧げる酒造
        りを始めたという。「神の栄」という銘柄であったが、河川工事により良質な水が出なく
        なり井戸は埋められたという。

        
         長崎街道飯塚宿の一部は東町商店街になっている。(街道は三差路を左折)

        
         往時の飯塚川は内野の山中を発して流れ下り、宿場を横切っていたという。川幅が40
        ~50mぐらいあって水運の便もよく、旧街道には白水(はくすい)橋が架けられていた。
         遠賀川の改修工事に伴い飯塚川は埋立てが進められて、1975(昭和50)年頃には完全
        に埋立てされたそうで、橋が架かっていた場所に欄干の一部が残されている。

        
         本町商店街は長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケード街になっている。 

        
         明正寺筋に入ると寺の一角に「勢屯り跡」の碑があるが、この上にある上茶屋に宿泊し
        た大名が、ここで行列の体制を整えて出立したという。大名行列は通常の場合、宿場や主
        だった街道沿いの場所のみ勢を整えていたといわれる。 

        
         明正寺(真宗)の過去帳には、幕府に献上された象が通ったことが記してあるという。(境
        内は幼稚園)

        
         高台にある飯塚片島交流センター脇に「御茶屋跡(上茶屋)」の碑があるが、1640(寛
          政17)
年に福岡藩が本陣(御茶屋)を設け、参勤交代の大名や長崎奉行の宿泊所とする。

        
         飯の山は飯塚の地名発祥の地の1つとされるが、頂上には上がることができない。

        
         街道筋に戻ると人形付きオルゴール車が置かれている。店主によると喫茶が奥にあるた
        め、宣伝用のマスコット人形と以前はオルゴールも演奏していたが、商店街から騒音との
        指摘もあって今は使用していないとのこと。

        
         店内はステンドグラスに囲まれた素敵な空間である。

        
         飯塚宿の町人も宿場の繁栄を願って恵比須の石像を祀っていたが、その後、曩祖八幡宮
        の境内に移されたという。

        
         本町商店街筋。

        
         森鴎外は、1901(明治34)年7月に飯塚を訪れ、福岡日日新聞に「我をして九州の富
        人たらしめば」を掲載し、炭鉱主たちが贅沢を止め地域の文化振興にその財力を惜しまず
        尽くすべきと唱える。のちに安川・松本家が明治専門学校(現九州工業大学)を創設したの
        は鴎外の掲載によるものとされる。 

        
         太養院筋に入ると重厚な建物が残る。

        
         曹洞宗の太養院(たいよういん)は行基の開山と伝えられ、1640(寛永17)年飯の山の横
        にあったが、御茶屋が新設されたため現在地に移転したという。

        
         太養院の隣に眞福寺(浄土宗) 

        
         江戸時代の飛脚制度にかわって、1871(明治4)年4月東京~大阪間に近代郵便制度が
        導入される。8ヶ月後の12月小倉~長崎間(長崎街道)にも導入されて、街道筋の16宿
        駅に郵便取扱所が開業する。
         当初は黒ポストであったが、夜は見えづらいといった理由で、1908(明治41)年赤ポ
        ストになったという。

        
         本町商店街にあるレトロな建物は福岡銀行飯塚本町支店で、1924(大正13)年福岡銀
        行の前身である旧十七銀行の飯塚支店として建てられた。

        
         飯塚本町商店街の中央付近にからくり時計が設置してある。10時から18時までの毎
        正時に音楽に合わせて、渡来の象などをはじめ飯塚宿を通る大名行列の人形が歩き出すと
        いう。時間的タイミングが悪く拝見できず。

        
         宿場の施設として、東西の構口、関屋(番所)、上茶屋(本陣)、中茶屋(脇本陣・からくり
        人形がある場所に長崎屋)、下茶屋(脇本陣)のほか、郡屋、問屋場(人馬継所)、馬立所、蔵
        屋敷、オランダ屋敷などが置かれた。

        
         北側の本町商店街入口に東構口が設けられていた。

        
         右手に寶月楼跡の碑を過ごすと、鳥居が3ヶ所設置されている。石段に向って左側が飯
        塚八幡宮、中央が曩祖八幡宮、右側が祇園宮で飯塚の追い山は、この石段下から出発する。

        
         中央の階段を上り随神門を潜ると八幡宮の拝殿。古くは神功皇后が三韓より帰路この地
        へ立ち寄り、離別を惜しんだ地とされている。社伝では、鎮座年は不詳とされるが、その
        跡地に作られたのが当八幡宮という。(由緒より) 

        
         高野山真言宗の観音寺。 

        
         江戸期に貿易を許されたオランダ人には、御礼言上のため江戸に参府して将軍に謁見す
        る義務があったという。1609(慶長14)年に始まり、1633(寛永10)年から毎年、1
        790(寛政2)年からは5年に1回に改められ、幕末の1850(嘉永3)年まで続いた。
         長崎から江戸まで約2ヶ月かけて、長崎から長崎街道を通って大坂、京都を経て江戸に
        向った。各地には指定の宿舎があったが、飯塚では宿場内の施設ではなく、東構口の外れ
        にオランダ屋敷が設けられたという。(ここで散策を終える
)