この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
日原(にちはら)は津和野川と吉賀川の合流点に位置する。地名の由来は、小高い丘で日が
よく当たることによるとも、総鎮守の大元社が銅山近くの日地ヶ原にあるが、その転訛に
よるものともいう。(歩行約6.9㎞)
JR日原駅は、1923(大正12)年山口線の津和野-益田間延伸により開業。相対式の2
面2線を有し、駅舎には枕瀬簡易郵便局が入居し、日原公民館枕瀬分館とは渡り廊下で繋
がっている。
駅から津和野方面に「つわのや旅館」さん。
駅まで戻って益田方面へ向かう。
津和野川に架かる枕瀬橋を渡る。
高津川を泳ぐ「なまず」と「魚・カニ」がデザインされた旧日原町のマンホール蓋。
枕瀬橋を渡って国道187号線への道。
右手にある杵築神社は、出雲の出雲大社(旧杵築大社)と関係するものと思われるが、詳
細を知り得ず。
津和野町役場を過ごすと、「神崎直三郎顕彰碑」に功績が記されているが読み取れず。
この一帯に製糸工場があった石西社(せきせいしゃ)の創業者と思われる。
日原歴史民俗資料館前に「天領だった日原。江戸時代の歴史ポイントを探して、まちを
歩いてみませんか」と案内されている。
津和野川(手前)と吉賀川が合流する地点。(桧橋より)
桧橋よりJA西いわみへ通じる道。(歩いた後に見返る)
川で町並みは3ヶ所に分断されている。(旭橋より)
割烹・美加登屋さんは、1953(昭和28)年築の昭和風情を残す旅館だった建物をその
まま活用されている。スッポン・鮎料理を味わうことができるそうだ。
銀行もあって日原のメインストリートだが、駅からは少し離れている。江戸期には日原
銅山を中心とした幕府直轄領(天領)で、高津川の舟運、津和野奥往還などの交通の要衝で
あった。
津和野奥筋往還は津和野藩領の飛地である美濃・那賀・邑智3郡を支配するための重要
な街道であった。
また、石見銀山大森代官所の役人が、日原・畑迫にあった幕府直轄領を往来する道でも
あった。
「にちはら・下水道」の文字で上下2分され、下半分は町の花だった向日葵と町章、上
半分は日原天文台と星空がデザインされた旧日原町のマンホール蓋。
往還道から本光寺への道。
浄土真宗の本光寺。
1889(明治22)年町村制施行により、日原村、枕瀬村、河村、池村,左鐙村、滝本村
の一部が合併して日原村となる。その後、町制に移行して昭和の大合併で青原村と合併。
平成の大合併で津和野町と合併して日原町が廃止されたが、町役場の本庁舎は旧日原町に
設置されている。
春日神社は奈良の春日大社が総本社で、当神社の創建は不明とされる。天文年間(1532-
1555)に鉱山師の三好家が社殿を再建したといわれている。現在の社殿は、1772(安永元)
年に遷宮されたもので、春日宮を変形した一間社である。
境内から見る日原の町並み。
日原鉱山を経営していた水津家(大和屋)の主屋と蔵。現在は賑わい創出拠点「かわべ」
として活用されている。
火の谷川のほとり、難身切(なみきり)不動尊から下る三叉路に高札場があった。この付近
が天領日原で一番賑わった場所であった。
反時計回りに散策する。
日原中学寮とあるが、町内に4ヶ所あった中学を順次統合して、1965(昭和40)年に
日原中学校となる。(付近に日原鉱山跡があったようだが見落とす)
この筋には天領の商家として、かっては川から舟を乗り入れて商いを行なっていたとさ
れる。(渡部商店)
説明板によると、日原銅山に携わる人を山方(やまかた)といい、山方を取りまとめるのが
「山年寄」で、朱色山の鉱床を発見したという藤井氏は後藤氏とともに就任し、藤井家が
代々受け継いできたという。
藤井家は屋号を「麴屋」といい、主屋は1825(文政8)年に建てられたものとされる。
高津川堤防道から眺めると、広大な屋敷地に蔵などが建ち並び、川から直接船を着け荷
物の積み下ろしができるようになっている。
浄土真宗の丸立寺(がんりゅうじ)には井戸平左衛門の芋塚がある。
この高津川は、吉賀町を発する全長81㎞の一級河川であるが、本流にダムがないこと、
清流日本一の川としても有名である。その川面を眺めながらJR日原駅に戻る。