ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

山口市阿東の地福は旧石州街道沿いを散歩

2020年11月03日 | 山口県山口市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         地福(じふく)は東西を山に囲まれ、中央を阿武川が南西に流れる川沿いの盆地に立地し、
                川に沿って国道9号、山口線、旧石州街道が並行する。
         地名の由来について地下(じげ)上申は、「往古、開立之時分、御並広キ里ニ相成場所ニ付、
        地福と名付たる由」とある。(歩行約5㎞) 

        
        
         JR地福駅は、1918(大正7)年山口線の三谷駅~徳佐駅間の延伸により開業する。島
        式ホーム1面2線を持つ無人駅で、特急列車は停車しないがSLやまぐち号は下りのみ停
        車する。

        
         往路は新山口駅9時13分山口駅行きに乗車、ここで益田行きに乗り換えると地福には
        10時46分に下車することができる。駅前に出ると静かな駅通りである。

        
         大きな建物には地福農協第1倉庫と記され、米倉庫のようだが使用されているか否か定
        かでない。(現在はJA山口県地福支所倉庫) 

        
         JR山口線踏切を横断。

        
         熊ヶ瀬川に架かる橋を渡ると地福市集落。(右手は市阿東地域交流センター地福分館)

        
         分館前にそびえ立つ高さ25mを超える2本のモミの木は、クリスマス時期には約4万
        個で電飾されたツリーに変わるとのこと。

        
        
         その先右手に桂光院(曹洞宗)の参道入口があり、傍には「氏原大作先生墓所入口」と刻
        字された標柱がある。
         氏原大作(本名、原阜(はらとおる))は、小学校高等科卒だが見込まれて17歳で代用教員
        となる。1938(昭和13)年戦地から応募した主婦之友社募集の懸賞小説「幼き者の旗」
        が、1等に入選して一躍有名となった。1997(平成9)年に選定された「山口県ゆかりの
        ふるさと文学者13人」の中の一人でもある。

        
         桂光院はもと茲音寺(真言宗)と称したが、1714(正徳4)年給領主の佐世広長が夫人追
        善のため再建し、現寺号に改称する。(参道にはツワブキの花) 

        
         山門右手に笠付き、高さ120㎝、横43㎝、塔身正面に仏像を浮彫した廻国塔がある。
        刻銘「奉納大乗妙典六十六部供養塔 寛政十一未歳四月吉日 願主村上源六」(1799年)。
         もとは街道の地福市の三差路(田中家前)にあったが、道路拡張にともない桂光院前に移
        設された。

        
         寺の裏手が旧石州街道。

        
         地下上申絵図では地福八幡宮前に一里塚が描かれているが痕跡はない。

        
         地福八幡宮参道脇に寄り添うように並立する大小の2つの自然石がある。地域では「も
        もか様」「ももこ様」と呼ぶ。子宝祈願、安産祈願、幼児の安全成長を願って参詣者もあ
        るという。生誕百日の「百日詣り」(ももかまいり)に八幡宮とともに「ももか様」に詣りする
        風習があるという。

        
         地福八幡宮は、室町期の1510(永正7)年宇佐八幡より勧請され、1702(元禄15)
        現在地に遷座する。

        
         拝殿には百人一首や神功皇后など多数の絵馬がある。

        
         道路拡張により街道の面影は残っていない。 

        
         地福市はゆるやかな勾配を保つ集落で、旧地福村の中心だったところであり、かっては
        道筋に沿って商家が並んでいたとされる。

        
         地福カトリック教会の地に隠れ切支丹墓標がある。案内によると、1604(慶長9)年頃
        毛利氏のキリシタン迫害が激しくなり、山口の信者2千人が宮野から峠を越えて萩市紫福
        (しぶき)に逃れた。一部は峠越えをして徳佐、地福、嘉年に入って潜伏した。
         墓は紫福の鍋山から産出された石材で作られ、紫福に残されている墓と同形式であるこ
        とから、潜伏後も連絡・交流があったと思われるが史料は残されていないという。
         
         
         町内に数十基散在しているものの1つで、隣の原医院前の「村市屋」(ビリオン神父の
        萩、津和野往復の常宿)裏の荒地にあったものとされる。

        
         時代の流れと共に商家を営む家も少なくなり、家も新しくなって古い軒を連ねる光景は
        見られない。

        
        
         時代の流れの中にあって、阿川家は古い屋敷を残す旧家である。1756(宝暦6)年藩主
        毛利重就が生雲・徳佐行きの際に昼休みをとったという。
         古老に聞くと「阿川医院」であったが、いつ頃に廃業されたかは記憶にないとのこと。

        
         高齢化世帯が増加する中、2010(平成22)年に地区内唯一のスーパーが撤退。日常生
        活に必要なサービスを確保するため、地域づくり協議会が中心となって地区内に開設支援
        金を募って、2012(平成24)年に地域の交流拠点としてミニスーパー「ほほえみの郷ト
        イトイ」がオープンした。今では阿東地域各所に移動販売も行われている。

        
         トイトイとは、五穀豊穣や家内安全を願う行事で、2012(平成24)年に国の重要無形
        民俗文化財に指定された。
         子ども達が主役の行事で、毎年1月14日の夜に行われている。わらで作っておいた馬
        をかごに入れて各家庭の玄関先に置き「トイトーイ」と叫び、物陰に隠れて家の人が出て
        来るのを待つ。家の人は馬を貰ったお礼に、かごにお菓子などを入れて家の中に入るとい
        う民俗行事である。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、地福上村・地福下村の区域をもって地福村が発
        足する。1955(昭和30)年まで村立し、山手側に村役場があったとされるが、場所を特
        定することができなかった。

        
         この付近の石州街道は、山裾を通っていたようだが廃道化したようだ。

        
         平入り二階建ての商家。

        
         さくら小学校の法面は石垣で積み上げられている。2000(平成12)年町内にあった篠
        目、三谷、地福の3小学校を統合し、さくら小学校が開校する。

        
         小学校の裏手が街道筋とされる。

        
         小学校グランド上に高さ58㎝、幅31㎝の野面石があるが、微かに「猿田彦大神」と
        読める。

        
         左手に銘「忠魂碑」「陸軍大将男爵陸軍大将田中義一」とあり。

        
         学校裏を巡ると歩いて来た県道に合わす。

        
         歩いた道を引き返しトイトイで昼食を買い求め、交番のあるT字路を右折して農協倉庫
        脇から線路に沿って駅に戻る。

        
         わずか2時間ほどの滞在だったが、JR地福駅12時31分の山口駅行き列車に乗車す
        る。乗り遅れた場合、国道9号用路バス停13時04分の防長バス東萩駅バスに乗車し、
        三谷駅入口バス停で湯田温泉行きに乗り換えることも用意していたが、スムーズな便で戻
        ることができた。