この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
近世、城下町松山に起源をもつ備中高梁は、域内の中央部を北から南へ貫通する高梁川
の左岸に市街地が形成されている。
松山城の南麓に城下町松山の建設が本格的に始まるのは、1600(慶長5)年に小堀新助
・作助父子が、備中国奉行として松山に赴任してからである。(歩行約5.5㎞)
備中高梁駅は、2015(平成27)年に駅上駅舎となり、隣接する地には複合施設が設け
られるなど駅周辺は様変わりしたようだ。
散策しながら備中松山城を見学する予定にしていたが、 駅に降り立つと微雨のため、
タクシーでふいご峠まで上がる。
ふいご峠は臥牛山8合目で、備中松山城の御社壇に納められた三振の宝剣をここで作ら
せていたので、大きな「ふいご」が設置されていたとのこと。
ふいご峠(標高290m)から山頂まで700mと表示されているが、城のある地点が標
高430mなので、標高差140mを登らなければならない。
登城心得「あわてず ゆっくり歩むべし 城主」と高札あり。
中太鼓櫓には石垣で造られた櫓台が残されている。
下太鼓の丸と大手門とのほぼ中間で、城主の登城の際や有事の際に、太鼓の音で情報伝
達をしていた重要な拠点でもあった。
櫓台から見る高梁の町。
美濃岩村城、大和高取城と共に日本三大山城とされるが、兵庫の竹田城も有名な山城で
はあるが、江戸初期に廃城となり、幕末まで使われた城とは異なることから選ばれなかっ
たとされる。
両脇の櫓台の上に建物が建てられ、その下に門が設けられた櫓門形式の大手門であった
とのこと。
大手門の先には多くの石垣が残されている。正面の塀は天守と二重櫓と同様に現存する
三の平櫓東土塀である。
大手門跡の右手に聳える石垣群は、大きな岩盤を利用して石垣、土壁が築かれている。
三の丸に足軽番所跡と上番所跡がある。
曲輪ごとに石垣が築かれて段状に連なっている。
鎌倉期の1240(延応2)年に秋庭三郎重信が備中有漢(うかん)郷(現・岡山県高梁市有漢
町)の地頭となり、大松山に城を築いたのが創始とされている。(三の丸櫓跡)
黒門跡。
現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国の重要文化財となっている。他の
11ヶ所は、弘前、松本、丸岡、犬山、彦根、姫路、松江、丸亀、伊予松山、宇和島、高
知。
国内の山城に残っている唯一の天守は、1683(天和3)年に水谷勝宗が大修復する。三
層に見えるように造られているが、二層二階の望楼型で高さは11mである。
本丸にある東御門。石段を上がれば天守曲輪と二重櫓へと続くが、あいにくの雨で残念
する。
7代藩主の板倉勝静(かつきよ)は、1868(明治元)年の戊辰戦争で幕府軍に最後まで忠義
を果したため、新政府の追討を受ける事態になる。松山藩の執政であった陽明学者の山田
方谷は、朝敵となったことや領民を戦火から救い、板倉家存続させるために無血開城とす
る。
天守に入ると八の平櫓との接続廊下。急階段で1階に上がる。
天守同様に現存する二重櫓は、天然の岩盤の上に石垣を築き、櫓が建てられている。
天守1階には囲炉裏が設けられている。
籠城時の城主一家の居室とされる装束の間で、戦いに敗れ、落城の時は死に場所にもな
った。
天守から本丸、五の平櫓、南御門、六の平櫓。縦連子窓のため展望は得難い。
二階には御社壇と呼ばれる神棚が祀ってある。
城見通りから花水木通りに入り、2つ目の信号を右折すると下町である。
下町から本町にかけては、幅員三間余(5.45m)の備前往来沿いに町家が並んでいる。
金物屋さん。
平格子を持つI邸。
庇の下に帯状の板暖簾が吊り下げられているが、町家の前面がすり上げ戸で解放される
ため、陽射しを防ぐ目的で付けられたとされる。
紺屋川手前の左手には元醸造家の大きな町家があり、木瓜縁で縦格子とした虫籠窓と、
縦格子の虫籠窓がみられる。
高梁市中心部を流れる紺屋川(外堀)の橋上には、蛭子神社が祀られている。
海鼠壁が目立つ町家。
伝統的な町家建築に袖壁が見られ、これによって各家は独立性を高めている。
縦格子の虫籠窓が多く見られる。
柱から外に突出した部分を受ける支え板(絵様(えよう)持ち送り)は、装飾のため様々な意
匠がされている。
通りに面して1階のみならず、2階の壁面にも格子が見られる。
、享保年間(1716~1736)頃に池上家は、この地で小間物屋「立花屋」を開業し、その後、
両替商、高瀬舟の船主等を経て「かねたつ」醤油製造で財をなした豪商とのこと。
千本格子や漆喰壁、掲げられた看板などに歴史が感じられる。
池上邸の帳場と暖簾。商家の雰囲気が伝わってくる。
1843(天保14)年に建てられた現在の建物は、大正時代に一部改修されたとのこと。
小高下谷川(内堀)にも蛭子神社が祀られている。
御根小屋とは藩主の住居と行政用の建物を兼ねたもので、1605(慶長10)年に備中国
奉行となった小堀遠州が頼久寺からここに移り住んだ。1681(天和元)年に水谷勝宗が備
中松山城と御根小屋を大改築したが、現在は当時の建物は残っておらず、跡地は岡山県立
高梁高校となっている。
武家屋敷通り(石火矢町)には土塀が250mほど続いている。武者窓が見られるが武家
屋敷の表長屋の外側に設けた竪格子のある窓で、屋敷を警固するため外の様子を窺う目的
で作られたとされる。板倉藩の家老・中之条左衛門の屋敷跡の一部で、かつては北側の古
井戸塀に武者窓があった。今の武者窓は、現梶谷邸を新築した際に作り直したものとされ
る。
ひときわ立派な風格を漂わせる屋敷が旧折井家で、書院造りの母屋などから当時の武士
の生活を知ることができる。
160石馬回り役を勤めた折井家の屋敷は、180年前の天保年間(1830-1844)に建てら
れた。
長屋門をくぐると前庭があり、式台、玄関へと続く。
奥座敷と手前は居間。
白壁、土塀が続く町並み。
旧埴原(はいばら)家は120~150石取りの武士であったという。
式台と玄関、玄関の奥に棚が設えてある。
内玄関から入ると、手前から広敷、玄関座敷、座敷と連なっている。
奥座敷には付書院、花燈窓と違い棚などがあり、武家屋敷としては寺院建築風の要素を
取り入れた珍しい造りとされる。150石取りの武士だが、藩主の生母を出したため贅沢
な造りになっているという。
武家屋敷南端辺りから、往時の御根小屋跡に建つ高梁高校が見える。
1877(明治10)年に上房郡役所が本町に設置されたが、その門が岡村邸に移設されて
いる。「男はつらいよ 寅次郎恋歌」の映画では、葬儀の会場に使用された。
1615(元和元)年の武家諸法度(ぶけしょはっと)によって、城の新築・改修などが厳しく
規制された。時の城主・水谷勝隆は堅固な石垣で囲まれた寺院を建立することで、町を城
塞化したのである。
このため、源久寺や水谷氏の菩提寺である定休寺など20余の寺院が建ち並んだとのこ
と。
頼久寺は足利尊氏が諸国に命じて建立させた安国寺の一つである。当寺の庭園は備中国
奉行・小堀新助の作庭とされる。
頼久寺の書院から望む枯山水の庭園。今回は時間の都合で入園できなかった。(06年
撮影)
1889(明治22)年築の高梁基督教会堂は、現存する岡山県下最古の教会であるとのこ
と。1879(明治12)年に始まった高梁でのキリスト教布教活動は、翌年に新島襄が来高
すると急速に発展し、信者の浄財によって教会が建築される。
泰立寺・薬師院は寺伝によると、花山法皇の開基により、平安期の968(安和元)年に創
建されたと伝える。山門前に「男はつらいよ ロケ地」の石柱が立つ。
仁王門から境内に入る。ここは中国薬師霊場2番札所でもある。
客殿。
1624(元和10)年築の薬師堂(本堂)は、勾配のある大屋根とこれを支える組物、浅唐
戸の彫刻、ほか随所に桃山風の特徴がよく表れている。
地名の由来は、古くは高橋と称したが、鎌倉期の1330(元徳2)年頃に高橋宗康が備中
国の守護職として当地に入った際、地名と城主の名が同じであることは好ましくないとの
理由で「松山」とした。
市史には、1868(明治元)年に伊予松山と混同するために元に戻し、「橋」の字に雅字
の「梁」の字を当てて高梁藩としたとある。