ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

益田市の旧山陰道沿いに雪舟庭園 

2022年04月20日 | 島根県

               
                     この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         益田は高津・益田両川が形成する複合三角州の東南域、益田川の谷口に位置する。
                 地誌「石見八重葎(いわみやえむぐら)」では、真田・舛田ともいい、良田の真砂田の音韻転
        訛に由来するという。(歩行約4.5㎞) 

        
         JR益田駅から石見交通医光寺行き約12分、終点で下車する。

        
         医光禅寺(臨済宗東福寺派)の惣門は高麗門形式で、屋根は切妻造・本瓦葺き、中央を高
        くして両側を一段低くするという段違いの方式がとられている。この門は益田氏の居城で
        あった七尾城の大手門を移設したものとされる。

        
         医光寺の前身は天台宗の崇観寺(すうかんじ)という寺であった。崇観寺は南北朝期の13
        63年創建と伝え、医光寺はその
塔頭(たっちゅう)であった。代々益田氏の庇護を受けたが、
        戦国時代に荒廃したため、天文年間(1532-1555)前半に益田氏が塔頭だった医光寺を再興し、
        崇観寺を合併させて、医光寺を継承寺院とする。


        
         本堂は1729(享保14)年大火で延焼し、その後に再建された。

        
        
         庭園は雪舟作といわれる池泉鑑賞半回遊式庭園で、面積220坪、山畔を生かした上下
        2段の構成で、蓬莱山水の手法で作庭されている。

        
         
雪舟(1420-1506・諸説あり)は現在の岡山県総社市に生まれ、10歳の頃より京都の相国
        寺で禅の修行を積む傍ら絵を学ぶ。1454(享徳3)年頃守護大名大内氏の庇護のもと周防
        国に移り、画室雲谷庵(山口市)を構える。1468(応仁2)年遣明船で明国に渡り、約2年
        間本格的な水墨画に触れる。

         帰国後は周防のほか豊後で創作活動をしたが、益田兼堯(かねたか)の招へいにより石見に
        来訪し、当地に逗留すること数年、晩年にも来訪して、この地で87歳の生涯を終える。
        この雪舟灰塚は当寺で荼毘に付した時の塚という。

        
         益田東高校を右手にすると、染羽天石(そめばあめのいわかつ)神社への参道。

        
         社伝によると、奈良期の725(神亀2)年創建したとされる式内社。平安期の808(大同
          3)
年熊野権現から勧請して瀧蔵権現と称し、さらに931(承平元)年真言宗勝達(しょうた
          つ)
寺を建てて神社の別当寺としたが、明治の廃仏毀釈で廃絶し、神社名も現在の名称に変
        更した。
         安土桃山期の1581(天正9)年に本殿を火災で焼失したが、2年後に益田元祥(もとよし)    
        によって再建されたもので、三間社流造りで随所に桃山建築の特色が見られる。

        
         入母屋造の神楽殿。

        
         案内表示に従う。

        
         益田川沿いの車道に出ると、萬福寺は新橋を渡らずに直進する。(先ほどの案内に納得)

        
         山門入口は工事用車両が占領しているが、鐘楼が強風で倒壊したため再建中とのこと。

        
         萬福寺(時宗)は平安期に建立され、安福寺(天台宗)と号して益田川河口付近にあったが、
        大津波で流失して小庵を建てて法灯を守る際に時宗の道場となる。
         南北朝期の1374年、益田兼見(かねはる)が中須にあった安福寺を現在地に移し、萬福
        寺と改称して自らの菩提寺とする。

        
         1866(慶応2)年の第二次幕長戦争益田口の戦いでは本寺が幕府軍の陣営のとなったた
        め、長州軍の攻撃により惣門を焼失したが、幸いに本堂・庫裏は戦禍を免れたという。本
        堂の柱に弾痕があるというが、あまりも柱が多くて見つけ出すことができず。 

        
        
         室町中期の1479(文明11)年雪舟によって造られた池泉鑑賞回遊式庭園。古代インド
        の世界観の中で中心に聳える山・須弥山(しゅみせん)を象徴した石庭は、書院の前に広場が
        あり、正面の心字池の向こうに須弥山がある。
         雪舟は西国各地に雪舟庭園を作庭したといわれるが、現存する雪舟庭のうち、医光寺、
        萬福寺、山口の常栄寺、福岡県添田町英彦山の旧亀石坊の4つの庭が「雪舟の四大庭園」
        とされる。 

        
         萬福寺門前入口が旧山陰道(津和野往来とも)。少し街道を歩いてみるため、「辰の口」
        まで行って引き返す。

        
         旧山陰道・辰の口と呼ばれるところで、東に山陰道、北に久城に通じる道とに大きく二
        手に分かれていて、あたかも龍が口を開いたようだったことに由来する。
         1866(慶応2)年6月17日、第二次幕長戦争で浜田領益田口に進撃した長州軍は、益
        田川を中心に陣取る浜田・福山藩兵と対峙して激戦を展開したが、長州軍が3方を包囲し、
        遊撃作戦により幕府軍は退去を余儀なくされる。

        
         石柱は旧山陰道の標柱であったという。

        
         辰の口から南下する道。

        
         道幅は原型をとどめていると思われるが、周囲の建物はすっかり変わっている。

        
         萬福寺の門前を過ごすと益田川。その先に見える大橋を右折して益田氏の居館跡に立ち
        寄る。

        
         中世益田氏の三宅土居跡イメージ図。

        
         木組井戸とされるもので、水深は4m以上とのこと。益田の中世史は益田氏の歴史であ
        り、20代益田元祥が関ヶ原の戦い後、現在の萩市須佐に転封されて終わる。元祥は西軍
        で内応した吉川広家に属していた関係から、戦後に徳川家康より恩恵的内意があったもの         
        の毛利輝元に殉じる。

        
         
遺構は少ないが東西に土塁を見ることができるが、かっては四方に張り巡らされていた
        と思われる。

        
        
         益田川大橋の欄干に益田氏の家紋・丸に九枚笹。

        
         田畑修一郎(本名:修蔵)は那賀郡益田町(現益田市)に生まれ、少年時に父河野弥吉が事
        業に失敗して自殺したため、この地にあった旅館「紫明館」や料亭を営む田畑キクの養子
        になる。
         義母との確執が田畑文学の基調となり、1932(昭和7)年に自伝的創作「鳥羽家の子供」
        を発表し、芥川賞を中山義秀の「厚物咲」と争う。将来を嘱望されたが盛岡での取材旅行
        中に志半ばにして倒れ、40歳の生涯を閉じる。

        
         右田本店は、1602(慶長7)年益田氏が須佐に遷ったことで、益田が寂れることを憂い
        た右田宗味が酒造業を始めたといわれている。

        
         建物は更新されて街道だった面影は見られない。
        
        
         妙義寺の参道入口と思われる石畳と太鼓橋を過ごす。(太鼓橋は寺を背に撮影)

        
         太鼓橋の脇に益田兼堯像と朱色のお堂。

        
         妙義寺(曹洞宗)は文永年間(1264-1275)臨済宗寺院として開かれたと伝え、室町期の13
        94(応永元)年益田兼見の孫・秀兼が上野国の直庵宗観を招いて再建、曹洞宗に改めて菩提
        寺とする。

        
         第二次幕長戦争では長州軍の本陣と野戦病院が置かれた。

        
         益田幼稚園の角に「益田藤兼の墓(これより250m)」と案内されている。畜舎の先に
        益田藤兼の墓と伝えられている五輪塔がある。
         藤兼は室町期の1551(天文20)年、姻戚関係にあった陶隆房(後に晴賢)の挙兵に協力
        する。毛利元就と対立することになったが、吉川元春の仲介により服属関係を結ぶ。68
        歳で没し、妙義寺に葬られたとされる。

        
         住吉神社まで行って益田小学校付近のバス停から駅に戻る予定であったが、水源地前バ
        ス停の時刻表を見ると駅行きのバス(14:51)があったので、神社を残念して益田駅に戻る。


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