この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
富岡は古くには袋(福路)とも呼ばれ、留岡とも称した。天草下島の北西端に突き出た志
岐崎半島に位置する。半島の東から曲崎砂嘴が南東に延び、天然の良港となっている。唐
津藩主・寺沢広高が当地に城を築いていた時に富岡と改めたとされる。(歩行約3㎞)
ほぼ四方を海に囲まれた城山の上には、1601(慶長6)年に築城された富岡城があり、
戸田氏の私領時代に城が壊されたものの、以降の明治まで天領天草の行政の中心として、
三の丸に代官所が置かれた。
唐津藩主・広沢広高は関ヶ原の戦いの戦功により、幕府から飛び地領土として、天草の
地を賜わる。そこで、唐津から最も近く、船の発着にも便利な袋(富岡)に築城する。
駐車場付近から二ノ丸の石垣と本丸を望む。本丸方向へ進めば西虎口。
出丸から二ノ丸へ上がると4人の像が建つ。左手にはこの地を訪れた勝海舟と頼山陽。
右手に「天草・島原の乱」後の天草復興に尽力した鈴木重成、その補佐をした実兄の鈴木
正三(しょうさん)(和尚)が苓北の町と天草を見渡すように立てられている。
1637(寛永14)年に島原・天草の乱で、城は一揆勢に包囲されて大破するが、幕府か
ら天草の地を与えられた山崎家治は、城郭の修築に着手する。1641(寛永18)年に修築
は終わったが、同時に家治も転封となる。
幕府の天領となり代官・鈴木重成が任じられ、城詰警備は熊本藩が担う。
1627(寛永4)年に天草は私領となり、大坂城の石垣修復を担当した戸田忠昌が入城し
たが、1633(寛永10)年、戸田は幕府に対し、天草は永久に幕府領であるべき地として
建議する。
三の丸を残して本丸、二ノ丸を破却する。いわゆる「戸田の破城」と云われたが、城の
維持修復のための郡民の過重な負担を解消する方策がとられた。
本丸虎口
1634(寛永11)年に再び幕府領となり、以後は三ノ丸に陣屋が置かれ、天草支配の拠
点となった。
本丸から東虎口、稲荷神社、二の丸櫓へと連なる。
天草灘に突き出た陸繋島の砂州上に富岡の町並み。
西虎口から下城する。
パゼーの「日本耶蘇教史」には、1614(慶長19)年の項に、「フクロ村の基督教徒ア
ダム荒川を迫害し、6月5日に首を刎ねたり」とある。
「五足の靴」は与謝野鉄幹が北原白秋、吉井勇ら学生4人を連れて九州西部を旅した紀
行文の題名で、1907(明治40)年に発表された。富岡港に上陸し、大江教会のフランス
人宣教師ガルニエ神父に会うため、32㎞の行程を徒歩で移動する。
頼山陽は長崎から茂木を経て富岡に入る。その時の旅籠「泉屋(岡部家)」の屋敷跡で、
家屋は1830(天保元)年の富岡大火で焼失したとのこと。
古い町家は残っていないが、当時のままの石垣塀が大神宮と民家の間にある。
城下町からの攻撃に備えて、町内に堀切を設けて、新たな大手門の石垣が構築された。
大手門から城に向かう目抜き通り。
城下町はその後、港町として発展したが、町割りとわずかに残された町家に往時の面影
が見られる程度である。
富岡での一夜をテーマに「天草灘」 を記した林芙美子。文学碑には「旅に寝てのびのび
と見る枕かな」という句が刻まれている。