この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平30情複 第467号)
河浦は天草下島の南部に位置する。
河内浦には我国唯一の宣教師養成のためのコレジョ(神学校)が、1591(天正19)年か
ら7年間存在した。この中に遣欧使節の4人の少年達も入校している。
河内浦城の築城年代は定かではないが、天草氏によって築城されたと伝わる。
天草の乱後、徳川幕府は城跡にキリスト教弾圧を目的として崇円寺を建てた。
崎津は天草下島の河浦町南部に位置し、東シナ海に面した羊角湾の入口にある小さな漁
村である。
この集落のシンボル的存在である崎津天主堂は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関
連遺産」として、2018(平成30)年6月に世界遺産となった。(歩行約4㎞)
公共交通機関による移動には長時間を要するので、車で崎津集落と周辺を散策する。世
界遺産になったことで交通規制されて集落に入ることができず、道の駅崎津へ誘導されて
しまう。
ルイス・フロイド「日本史」によると、天草氏はルイス・フロイド・アルメルダを領内
に招き、キリシタン伝導を許すとともに、ポルトガル船の寄港を希望し、寄港の予定地と
して崎津の港を案内している。
崎津バイパスの交差点からサンセットラインに入ると、左手に教会の尖塔がそびえ立つ。
まさに「海の天主堂」である。
交通規制されているため静かな通りとなっている。
羊角湾の奥深い封鎖的な崎津では、天草・島原の乱後のキリスタン弾圧下にあっても密
かに信仰が続けられた。1805(文化2)年に大江・高浜・今富の4ヶ村を合わせて5千人
余の隠れキリシタンが発覚したが、幕府は処分を穏便に取り計らった。
家と家の間にはトウヤと呼ばれる細い路地があり、表通りから海岸へ抜けられる。
諏訪神社前で左折する。
教会と神社を繋ぐ通り。
吉村家は大正期に建てられた木賃宿。当時は漁業や木炭の交易拠点として栄え、教会と
諏訪神社を繋ぐ道沿いには、多くの旅館や木賃宿が建てられたとのこと。(説明板より)
崎津天主堂の歴史は古く、最初のお堂は室町期の1569(永禄12)年に竣工。以来、天
草におけるキリスト教の布教拠点となった。
江戸時代に禁教令が出されると取り壊されたが、信者は潜伏キリシタンとなって信仰を
受け継ぎ、明治期に信教の自由が認められると教会堂が建てられる。
現在の建物は1934(昭和9)年に再建されたもので、九州に多くの教会を残した鉄川与
助の設計によるとのこと。
天主堂はハルブ神父の強い希望で、弾圧の象徴である絵踏みが行われた吉田庄屋役宅跡
が選ばれた。絵踏みが行われた場所に、現在の祭壇が配置されたといわれている。
教会は、尖塔の上に十字架を掲げた重厚なゴシック様式で、その堂内は畳敷きになって
いる。
白い部分が木造で入り口部分は鉄筋コンクリート造だそうだ。
この付近で路地から見える教会も見納めとなる。
海に向かって佇むマリア像は、漁船の運航安全と豊漁を願って、1974(昭和49)年に
建立される。天草夕陽八景の1つにもなっている。
崎津諏訪神社は、1805(文化2)年に潜伏キリシタンが発覚する「天草崩れ」の舞台と
なった神社。代官所の役人は、異仏取り調べるため、信心具を境内に設置した箱に捨てる
よう指示したとされる。階段の左手には、ハルブ神父の墓、旧崎津教会跡がある。
神社から見る教会。
約500段の階段を上がると、集落に溶け込むように教会が建つ。(チャペルの鐘展望
公園より)
対岸から見る天主堂。
大江天主堂はキリスト教解禁後、天草で最も早く建てられた教会。現在の教会は、193
3(昭和8)年フランス人宣教師ガルニエ神父らによって建てられた。
ロマネスク様式の聖堂は、白亜の外観が美しい。