この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
川棚は狗留孫山の南麓より発し、日本海に注ぐ川棚川とその支流域及び沖積低地に立地
する。平野の中央を南北にJR山陰本線と国道191号線が並行して走る。
地名の由来は、川棚河口で毎年6~7月に市が設けられ,両岸の茶屋が川の中に棚をか
け、涼を求めたことから付けられたというが、附会のようでもある。(歩行約6.4km)
JR川棚温泉駅は、1914(大正3)年長州鉄道の駅として開業。温泉町の玄関口らしい
木造駅舎だったが、2002(平成14)年コミュニティプラザと駅舎の複合施設として建て
替えられた。(下段は旧駅舎)
駅前からほぼ直線的に延びる道は、かって鉄道路線(温泉鉄道)として計画されたようだ
が未完に終わり、その鉄道跡が青龍街道に転用された。(鉄道とバス時間はマッチせず)
青龍街道(駅~温泉)にあるマンホール蓋は、川棚温泉の守護神「青龍」がデザインされ
ている。
かって大きな沼地だった川棚に棲んでいた青龍が亡くなった際、住民が手厚く祀ると湯
が湧き出したという青龍伝説が残されている。
毛利侯御殿湯街道と銘打った道。
玉椿旅館は、1923(大正12)年十両力士だった山口県出身の玉椿関が引退後に創業し
た旅館。
川棚温泉縁起によると、再びこの地で日照りと疫病が襲いかかり、三恵寺の怡雲(いうん)
和尚が祈り続けると、枕元に薬師如来が現れ、人々の病気を治した温泉の物語を告げる。
温泉を掘り起こすことを決意し、薬師如来の霊告のとおり、再び温泉が湧き出て、湯を浴
びた人々の病気が治癒したという。二度と温泉が枯れないようにと村の守護神として湯明
神を祀る。
傍の狗留孫山献燈は、1849(嘉永2)年参詣道に建立されたもので、川棚温泉に宿泊し
て参詣する人が多かったといわれている。
旅館竹園と旅館小天狗の旅館街筋。
狗留孫山八十八ヶ所5番札所の本尊は勝軍地蔵菩薩。
温泉街の周辺部に民家。
妙青寺の大きな鐘楼が見えてくる。1932(昭和7)年6月3日種田山頭火は寺に拝登し、
お寺の土地借入と草庵建立を長老に懇願する。
妙青寺(みょうせいじ)の寺伝によると、室町期の1416(応永23)年大内持世の弟・持盛
が、叔父の盛見の菩提寺として創建し、法名をとって国清寺(臨済宗)と称した。
その後、大内義隆の旧臣であった杉蓮緒が、義隆の菩提を弔うために修理し、曹洞宗に
改め寺号を瑞雲寺とする。
1604(慶長9)年長府藩主・毛利秀元が実姉の菩提寺とし、法名から現寺号に改称され
た。
本堂は間口9間の大きな建物で、「大慈宝殿」の扁額が掲げられている。
種田山頭火は自らの体を休め、いずれ命を終えるための安住の地を求めて、嬉野温泉を
発って唐津、小倉を経て川棚温泉に辿り着いたのは1932(昭和7)年5月24日だった。
川棚温泉の地が気に入って、ここを終(つい)の棲家にしようとしたが、地元の人々が受け入
れに難色を示したため、川棚での造庵は夢に終わり、100日間滞在した川棚を後にして
いる。
「湧いてあふれる中にねてゐる」は6月20日の行乞記に記載。
本堂裏に池泉回遊式庭園があり、池の中に弁天堂が祀られている。水墨画家で禅僧の雪
舟作とされ、池は「心」の形をしているという。
裏山にある竜福稲荷。
稲荷社より松尾神社までの山道は整備されている。
松尾神社の由緒によると、天正年間(1573-1592)この地の守護神として、京都右京区に
ある松尾神社より勧請する。現在の社殿は、1660(万治3)年に再建されたもので、当時、
この地は疫病が大流行し、当社に祈願したところ疫病が平定したとされる。
参道を下ってくると川棚温泉交流センター「川棚の杜」。
交流センターから三恵寺(さんねじ)までは約1.6kmの上り坂だが、山頭火も歩いた道と
される。途中の駐車場には寺まで約70mの案内があり、その先に石段が見えてくる。
種田山頭火行乞記(二)の5月24日には、「土地はよろしいが、温泉はよくない、人間
もよくないらしい。妙青寺(曹洞宗)拝登、荒廃々々、三恵寺拝登(真言宗)、子供が三人遊
んでゐた、房守(坊守)さんの声も聞える、山寺としてはいゝところだがー」とある。
本堂左側に五百羅漢の石仏が、いろんな表情で並んでいる。
川棚温泉バス停まで戻って、15時50分のサンデンバス下関行きに乗車する。