ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

出雲市の鵜峠はかつて鉱山で栄えた小さな漁村集落

2022年04月05日 | 島根県

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         鵜峠(うど)は島根半島の西端部に位置し、東部を旧平田市と接し、北部は日本海に面する。
        細長い地形をなし、ほとんどが山あいの地である。(歩行約1.6㎞) 

        

         路線バスで鷺浦を散策して鵜峠に移動も可能であるが、最終便が事前予約制のため不確
        定要素あって、レンタカーを選択する。

         ちなみに路線バスの場合、電鉄大社駅前バス停(11:15)猪目奥組行きバス35分、鵜峠バ
        ス停下車。復路は14時32分に乗車すれば日帰りができるが、昼食場所がないので事前
        に準備する必要がある。

        
         山と海が迫る狭隘な地に駐車地が見つからず、工事車両用の待機場所の一部をお借りし
        て散歩する。

        
         右手のJFしまね大社支所の傍が鵜峠バス停。

        
         鵜峠漁港は第1種漁港で、出雲風土記には「宇太保浜」とみえ、当港は鷺浦港とともに
        石膏の搬出港として一時期賑わった歴史を持つが、現在は漁業者が大半を占める静かな漁
        港である。

        
         バス路線から山手への道に入る。(右手は屋号の松下屋) 

        
         鵜峠が活気を帯びるのは、1868(慶応4)年に鉱山が開発され、1877(明治10)年代
        が鉱山の最盛期で、3,000人の従業員がいたという。
         その後、硫化鉄鉱を産出し、1897(明治30)年代にはセメント用石膏が産出され、大
        正・昭和初期には8社が鉱山経営に携わっていたが、現在は鉱山も廃坑となり、静かな漁
        村集落となっている。

        
         石州瓦に白壁が映える人家。

        
        
         入江に面した細長い谷間に入ると、格子や屋根に煙り出しを持つ家などが散見できる。

        
         谷間の路地はここで行き止まり。 

        
         犬矢来ではないが柵を設けた綿屋さん。

        
         格子を張り巡らせた人家が多い。(浜岡屋さん)

        
         迷路のような路地裏歩き。

        
         県道23号線の仏照寺前。

        
         県道筋の町並み。 

        
         1889(明治22)年の町村制施行により、鵜峠浦と鷺浦が合併して「鵜鷺(うさぎ)村」い
        う動物名の村名になるが、1951(昭和26)年大社町に合併し、現在は出雲市である。 

        
         仏照寺は浄土真宗の道場(説教所)として、1914(大正3)年に建てられたもので、地区
        の寄り合いなどに使用され、地域にとって貴重な建物である。

        
         西方(さいほう)寺は浄土宗だが無住。本尊の十一年如意輪観世音菩薩は、33年毎に開扉
        される秘仏である。

        
         大宮神社の創建は明応年間(1492-1501)とされ、日本海航路の安全と豊漁を願う人々に
        崇敬されてきたという。 

        
         大宮神社の背後に大歳神社が祀られている。社伝によれば天応年間(781-782)の創建とい
        われ、もとは越目(こいのめ)にあったのが移転してきたという。

        
         昔ながらの風景、港町の雰囲気が残る地は、ゆっくりと時が流れている。

        
         重宝された土蔵も時代から取り残され、徐々に傷を負いながら消え去る日はそう遠くで
        はなさそうだ。

        
         お話した女性以外に姿を拝見することはできなかったが、のんびりできる集落だった。


出雲市の鷺浦は帆船時代の家並みが残る集落

2022年04月05日 | 島根県

         
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         鷺浦(さぎうら)は北を日本海と面し、域内を八千代川が流れる。沿岸一帯はリアス式海岸
        で、ほとんどが山間の地で陸の孤島といわれていた。(歩行約2㎞、🚻バス停にあり
) 

        
         鷺浦へは路線バスがあるものの1日4便のため、バス利用した場合には当地のみとなる
        ため、時間的ロスを考慮してレンタカー利用とする。大社町から山越えすると八千代川沿
        いに数台駐車できるスペースがある。
         ちなみにバス利用した場合、電鉄・大社駅前(11;14)から猪目奥組行き路線バスで約30
        分、鷺浦バス停で下車する。復路は14時37分に乗車すれば日帰り散策は可能であるが、
        食事場所がない。

        
        
         バス停傍の伊奈西波岐(いなせはぎ)神社は、出雲風土記以前に創建されたと推考されてい
        る。出雲大社の摂社で本殿は大社造りで建てられており、祭神は稲脊脛之命で、大国主命
        が国譲りの時に事代主命へお使い役をした神とされ、疱瘡の守護神とされる。

        
         F宅は無住のようだ。

        
         屋号であろう釜屋さんの二階になまこ壁。

        
         「NIPPONIA 出雲鷺浦 漁師町」の暖簾がかかる古民家。現在は宿泊施設として再利用さ
        れている。

        
         石州瓦で葺かれた屋根、表側には格子が設けられた建物が並ぶ。

        
         各戸には屋号と思われる表札が掲げてある。(加田屋さん)
 
        
         布野屋さんの所で道は鍵の手となっている。

        
         海への道が幾重にも設けてある。

        
        
         JAしまね鷺浦店は集落唯一の店で、店前では野菜市が開かれ、お茶も用意されてコミ
        ュニケーションの場にもなっているようだ。

        
         塩飽(しわく)屋は、江戸期に瀬戸内海にある塩飽島の塩で財をなしたといわれ、屋号の由
        縁にもなった。屋根には台所の煙や水蒸気を抜いていた煙り出しの小屋根が付いている。

        
         塩飽屋から山手側の路地に入る。

        
         路地の突き当りに向拍寺の地蔵尊が残されているが、多伎の猟師が時化で流され、方向
        が分からない時に、お地蔵さんの灯明で無事に入港できたという逸話もある。

        
         石州瓦の赤褐色が引き立つ鷺浦の町並み。

        
         枡本屋には軒先を物置、物干しとして利用した場所があるが、この地方では「もだり」
        と呼んでいる。

        
         路地を眺めながら歩くのも鷺浦の楽しみ方の1つでもある。

        
         浜古屋の塗り格子の虫籠窓。

        
        
         塩田屋の軒下には、鏝絵の本場である仁摩の職人が作った鶴の鏝絵ある。石見地方では
        多く見られるが、出雲地方では珍しいそうだ。大正初期頃の製作とみられ、戦前は丹頂の
        赤色が残っていたという。

        
        
         高台からは赤い屋根、山の緑と海の青が映える。

        
         鷺浦隧道は、1935(昭和10)年地元の人たちが岩盤を打ち砕いて作ったものだそうで、
        トンネルから町筋が額縁に入ったように見える。

        
         前庭のある家。

          
         塩田屋の蔵。

        
         海風を受けながら海岸通りをてくてく歩き。現在の漁港は第1種漁港で、帆船時代は風
        待ち港として繁盛し、明治期には定期船の寄港地であった。山陰本線の開通により廃止さ
        れて、昔の面影は残されていない。

        
         海に面する家には「間立て」と呼ばれる竹で作られた風除けが取り付けてある。海から
        の潮風など厳しい自然環境の地を垣間見ることができる設備である。

        
         鷺浦港の入口に浮かぶ柏島は、冬の荒波を塞ぐためにできたような島である。島には柏
        島神社が祀られているそうだ。

        
         鷺浦集落は八千代川で二分されている。鷺銅山は大永年間(1521-1528)に開発され、江戸
        期を通じて稼働されていたが、いつしか休山となったという。

        
         なまこ壁と格子が見られる大坪屋さん。

        
         文珠院(曹洞宗)の本尊は、文珠菩薩でなく釈迦如来という。創建は文禄年間(1592-1596)
        とされるが現在は無住のようだ。

         
         文珠院山門両側に安置されているのが粗流玄武岩に線刻された仁王像。石の表面に水滴
        ができる様が汗をかいているように見えることから、汗かき仁王と呼ばれている。仁王さ
        んが汗をかかれると雨か火事になるといわれ、特に火の元は注意したとのこと。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、鵜峠村と鷺浦が合併して鵜鷺(うさぎ)村となる。
        1951(昭和26)年大社町に合併して大社町となるが、平成の大合併で出雲市となる。
                (宿のような造りの備前屋さん)

        
         小坂屋さん付近の家並み。

        
         椿舎搾油工房近くにある人家の格子も美しい。

        
         駐車地に戻って鵜峠へ移動する。


出雲市平田は雲州木綿の集散地として栄えた町 

2022年04月05日 | 島根県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         平田は出雲平野の一角で、東は宍道湖、北は日本海に面する。市街地の中ほどを平田船
        川が流れ、近世に雲州木綿の集散地として栄えた商業の町並みが残る。(歩行約2.4㎞)

        
         雲州平田駅は1914(大正3)年一畑電車が出雲今市ー平田間で開業すると終着駅として
        開設される。翌年、一畑間が開業すると中間駅となったが、現在の駅舎は1967(昭和4
          2)年に建てられた3代目の駅舎である。
         一時期、平田市駅に改称されたが、平成の大合併で平田市が消滅すると最初の駅名に改
        称された。地元では「バタデン」の愛称で親しまれている鉄道である。

        
         平田本町商店街を直進して平田船川を目指す。(徒歩10分)

        
         木綿街道と名付けられた道は、江戸期には「松江杵築往還」の一部で、この地域におい
        て綿の生産が盛んであり、「雲州平田木綿」を取引する市場町として栄えた歴史がある。
         木綿街道と呼ばれるようになった時期は明確ではないが、「街道と木綿」をベースに地
        域住民によって呼称されたとか。

        
         「宍道湖公園湖游館」と「ゴギ」2匹がデザインされたマンホール蓋。

        
         入口に醤油樽。

        
        
         江戸期の商家の店構えを残す岡茂一郎商店(醤油製造)は、二階部分の階高が低くなって
        いるが、当時の商家特有構造(つし二階)である。二階の階高で江戸期か明治期以降の建物
        かがわかる。

        
         切妻屋根妻入りの建物が2棟。
      
        
         木綿街道交流館は観光案内所として、江戸期の「外科御免屋敷」と称される旧長崎医家
        を復元した建物である。

        
         交流館の隣にある本石橋邸は、かっての大地主で、1750(寛延3)年頃に建てた家。妻
        入り造りの狭い間口には、両脇に庇を設けて幅を広くしている。二段になった海鼠壁、親
        子格子とともに威容を誇っている。
        
        
         1872(明治5)年「学制」が発布されると、石橋孫八(1847-1915)は自宅に郷校を開設
        する。翌年旧郡屋(江戸期の村役人集会所)に平田一番小学が開校されたが、これが島根県
        内最初の小学校であった。

        
        
         旧石橋酒造は隣接する本石橋家と同じ頃に建てられたもので、本石橋家から分家して酒
        造業のほか木綿問屋も営んでいた。1752(宝暦2)年に酒造りを始め、酒の銘柄は「世界
        の花」であったが、255年の歴史に幕を閉じられた。後に酒蔵の趣を残した宿泊施設に
        変わる。

        
         なまこ壁と格子が美しい町家。

        
         加藤醤油店は明治初期の建物で、切妻屋根妻入りが2棟に分かれている。

        
         加藤醤油店のべんがら格子と蔀戸の遺構がある。

        
         新大橋の袂にある小さな祠は、何が祀られているかを見落としたが、商売繁盛のえびす
        さんだろうか。右折すると片原町筋に入る。

        
         格子に赤い円形ポストが似合う。(高橋燃料店付近) 

         
          持田本店は1877(明治10)年創業の老舗酒蔵で、現在も銘酒「ヤマサン政宗」とい
         う銘柄で伝統的な酒造りをされている。二階の格子には、長い2本、短い2本が組み合
         わされた出雲格子(親子格子)が用いられている。

         
         持田醤油店は昔ながらの木桶に仕込み、長
期間熟成させるという醤油を醸造されている。
         片原町は1876(明治9)年の大火後に再生された町でもある。 

        
         「出しの小路」は町ができた後、運河と道が付け替えられ、家屋が斜めの形になってい
        る。

        
         飯塚酒店と来間屋(くるまや)生姜糖本舗の建物は、町割りが先にできた後に、船川運河が
        付き替えられ、川に伴走するように道が付け替えられた。
         このため、飯塚酒店の屋根は斜めに切り取られたような形をしているが、来間屋本舗は
        壁の造り方を工夫されて斜めの屋根が目立たないようにされている。
         飯塚酒店は、昔造り酒屋を営み「蓬莱」という銘柄で親しまれていた。来間屋本舗は創
        業300年、日本生姜糖元祖の菓子屋だとか。

             
         片原町の町並み。

        
         宮之町に入ると左手の理容カノウは、旧雲州今市銀行の建物だったとか。

        
         宮之町の町並み。 

        
         1887(明治20)年代に建てられた平入切妻塗壁造りの小村邸。2001(平成13)年七
        宝模様のなまこ壁、格子、西側の焼き杉板など町並みの雰囲気を保存する形で再生されて
        いる。

        
         宇美神社は延喜式神名帳に記されている神社で、戦国末期に平田の町割りを行なった際
        に、熊野権現など7社を合祀して現在地に祀られた。


出雲市の小伊津は3階建ての漁村集落

2022年04月05日 | 島根県

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         小伊津(こいづ)は日本海に面する漁村で、急傾斜地に階段状の集落が発達している。(歩
        行約1.5㎞)

        
         雲州平田駅前から平田生活バス小伊津漁港行き約30分、終点の漁港前で下車する。

        
         バス内では海方向ばかり眺めていたが、バスから降りるとびっくりする光景が広がる。

        
         標高差40mぐらいの谷間に、200戸以上の家が階段状に密集するという漁村集落を
        形成している。

        
         狭い土地を有効利用するため3~4階建てである。

        
         路地歩きをするため斜面状の密集集落に入る。

        
         狭い路地に急斜面という条件のもと、どのようにして建物を建てたのか知りたかったが、
        情報を得ることができず。

              
               左右に細い路地が続く。

        
         この先、階段と迷路になっているため歩くことを残念する。

        
         今では階下を倉庫として利用されているが、海辺の家々は船を格納する所だったという。

        
         小伊津漁港は東に坂浦、西に三浦の分港があり、古くから延縄、一本釣り漁業が盛んで、
        「小伊津のアカアマダイ」としてブランド化されている。
         また、資源保護を目的に、漁協屋内に円形水槽を設置し、中間育成して放流も行われて
        いる。

        
         漁港の整備は1945(昭和20)年代後半から継続的な整備が行われ、小伊津漁港は地元
        漁業主を中心の漁港でもなく、全国的な漁港でもない第2種漁港に指定されている。

        
         集落内には生活物資を扱う店、葬儀ができる寺もある。

        
         県道小伊津港線を上がって行くと視界が開け、漁港の全景が見えてくる。防波堤も新設
        されたようで、海からの災害を防いでいる。

        
         亀甲模様に旧平田市の市章がデザインされたマンホール蓋。

        
         県道山手側にも階段で結ばれた住宅が建てられているが、クルマ社会の中にあって付近
        に駐車場所も見当たらず、どのようにされているのだろうか。

        
         集落を見下ろす位置にある三社神社の屋根は、外削りの男千木(ちぎ)である。祭神は上筒
        之男命、中筒之男命、底筒之男命の三神で、海上安全、大漁満足、家内繁盛などに神徳が
        あるとされる。

        
         三社神社近くに稲荷神社。

        
         一度災害が発生すると防止するすべがなく、幾たびか生々しい災害の試練を経験してき
        た地である。左手の小伊津アパートは、1963(昭和38)年小伊津大火災の跡地に建てら
        れた被災者のためのとのこと。

        
         小さな集落での営みは昔と変わらない漁業が中心で、人とのつながりが残る地も高齢化
        の波が押し寄せて空家も増えているようだ。


出雲市大津町は本陣が残る旧山陰道の町

2022年04月04日 | 島根県

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大津は出雲市街地の東端にあって、斐伊川を渡って西へ延びる旧山陰道筋に町並みが形
        成されている。(歩行約1.9㎞、🚻駅) 

        
         一畑電鉄・大津町駅は、1914(大正3)年出雲今市ー平田間に一畑軽便鉄道が運行開始
        されたと同時に開業する。木造駅舎があったようだが老朽化のためか新駅舎となっている。

        
        
         駅から旧山陰道に合流するまでの道。

        
         真宗大谷派の光明寺は、もと天台宗で、文明年中(1469-1487)荻原村に建立され、7世の
        ときに改宗されたという。

        
         ユニークな販売方法の洋品店。

        
         一直線の町並み。

        
         いぶし瓦を使った切妻平入り厨子2階建ての建物が並ぶ。

        
         山田家住宅は松江藩主が出雲大社に参拝する折の宿所として、御成座敷と雪隠、湯殿を
        増築して本陣とした。

        
         大津町は、1636(寛永13)年現在地に移し替えられたことに始まり,商・工業が盛ん
        な町へ発展した。

        
         妻入り平入り厨子二階建てが多く見られるが、入母屋妻入りの商家も見られる。

        

        

        
         歩いてきた旧街道筋。

        
         伊川土手に鎮座する秋葉神社は、1787(天明7)年遠州秋葉山から勧請した防火の神が
        鎮座する。1777(安永6)年に大火で町通りの7割が焼失するという惨事が起こり、防火
        の神を迎えると大きな火事は起こらなかったという。

        
         土手に上がれば斐伊川。 

        
        
         街道の沿いの裏筋。

        
         和魂(にぎみたま)神社は、八雲池という池に島があり、そこに祀られていた。この地に遷
        座させた時代は不明だが、地区の守護神にしたと伝える。

        
         大津幼稚園付近の町並み。

        
         「月の井」の説明によると、雪の井・花の井とともに三銘水とされ、1846(弘化3)
        松江藩主松平斉貴(なりたけ)によって選定命名されたと伝える。

        
         「月の井」がある西光寺(浄土真宗) 

        
         出雲神話の山岐大蛇(やまたのおろち)と、中央に旧出雲市章がデザインされたマンホール蓋。

        
         「バタデン」の愛称で親しまれている一畑電車。運よく島根県のご当地キャラクターし
        まねっこをラッピングしたご縁列車「しまねっこ号」に乗車する。


出雲大社の門前町 (出雲市大社町)

2022年04月04日 | 島根県

               
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         大社は島根半島の西端に位置し、北と西は日本海に面する。険しい北山山脈の南は、神
        戸(かんど)川流域に平地が開け、大社湾に臨む西側一帯には砂丘が発達している。(歩行約
        4.1㎞)

        
         JR出雲市駅と出雲市大社町を結ぶ一畑電鉄の出雲大社駅。駅舎は1930(昭和5)年に
        建てられた鉄筋コンクリート平屋建て、半円形の緑色の屋根を持つ駅舎。

        
         内部は白く塗られた壁や高い天井、ステンドグラスを施した造りとなっている。

        
         日本最古級の電車「デハニ50型・52号車」が展示・保管されている。1928(昭和
          3)
年、小境灘(現一畑口)ー北松江(現松江しんじ湖温泉駅)間と、1930(昭和5)年大社線
                開業に併せて一畑電車唯一のオリジナル車両4台が新造された。

        
         木造を基本にした半鋼製車体は、荷物室付き車両で乗降口の扉は手動であった。
         ちなみにデハニとは、電動車の「デ」、客室がイロハに区分され、三等車であったため
        「ハ」。荷物車付きであったため「ニ」という記号が付与された。

        
         宇迦橋から出雲大社正面までの約700mの表参道(神門通り)は、大社参道を延伸する
        形で、1913(大正2)年に開通し、大鳥居と松280本(当時)植栽された。
         クルマ社会の到来とともに歩車共存型道路へと生まれ変わり、駅から車を気にすること
        なく歩ける空間となった。

        
         太平戦争末期、飛行機の代替燃料として全国的に松ヤニ採取が行われたが、神門通りの
        松も対象とされた。しかしながら技術力不足で、松ヤニが代替燃料として使われることは
        なかった。

        
         勢溜(せいだまり)にある第二の鳥居は、木製の鳥居だったが特殊な鋼で建て替えられた。
        勢溜とは、江戸期に芝居小屋があって、参拝者の足を止める様が、勢いをためているよう
        に見えることからきているという。

        
         一般的に日本の神社は、本殿に向って上がって行く形式だが、正門付近が大社町の平野
        部分で、この付近が高台となるため、全国でも珍しい「下り参道」となっている。

        
         祓社(はらえのやしろ)は出雲大社参拝前に、お願いごとをするよりも健康で出雲大社参拝
        に来れたことを感謝し、知らぬ間に犯した心身の汚れを祓い清めることがよしとされてい
        る。

        
         浄(きよめ)の池はバードウォッチングスポットとか。 

        
         素鵞(そが)川に架かる祓橋を渡ると、鉄製の第三鳥居は「松の参道の鳥居」と呼ばれてい
        る。松は1630(寛永7)年頃に松江藩主・堀尾忠氏の夫人が祈願成就のお礼に奉納された
        ものである。現在は松の根を保護するために通行禁止となっているが、もともとは藩主や
        皇族などのみが通行を許されていた。

        
         左手の勅使館は、皇族(主に天皇)の使者である勅使の方の宿泊などに使われるもので、
        1921(大正10)年に建てられた唐破風を備えた御殿風の純和風建物である。

        
         参道右側にはムスビの御神像脇に会所。もとは宝物殿付近にあったようだが、1943
        (昭和18)年に現在地に移転する。会所は神職が神事の際に身を清めたり、藩主などの参拝
        の応接、連歌会など多目的に使用されていた。平成の修理によって、1667(寛文7)年造
        営時の姿に復原された。(国指定重要文化財)

        
         境内との境にする能野(よしの)川。

        
         かっては出雲大社に奉仕する神職の屋敷が立ち並んでいた社家(しゃけ)通り。

        
         北島国造館(きたじまこくぞうかん)の大門は、1859(安政6)年松江藩主松平定安が武運長
        久・子孫繁栄・国土安全などを祈念して奉納したものである。大注連縄は長さ55m、中
        央の太さは3mあるという。

        
         南北朝期の1344年、国造家のお家騒動に端を発し、千家(せんげ)国造家と北島国造家
        に分かれて、江戸末期まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担してきた。
         明治期に入ると千家氏は出雲大社教、北島氏は出雲教と、それぞれに宗教法人を主宰し
        て分かれ、出雲大社の宮司を千家が担ったという。(出雲教の神殿)

        
         能野(よしの)川上流から亀山の巌を落ち、心字池に注ぎ込む亀の尾の滝。手前の天神社は
        大国主命と力を合わせ、国造りをしたとされる少名昆古那命(すくなひこなのかみ)を祀り、医
        療・くすり・酒造・温泉・農業の神として知られている。

        
         四脚門は1667(寛文7)年、出雲大社の造替遷宮の際に、本宮の後方にあった北島国造
        家の屋敷と共に移築された。門を潜ると、古式に則って乾(いぬい/北西)の方角に祀られてい
        る御三社がある。 

        
         出雲大社の拝殿は、1953(昭和28)年不慮の火災により焼失したため、6年後の19
        59(昭和34)年総檜造りで再建された。正面に立つと拝殿が少し左にずれているが、本殿
        の屋根を拝するように配慮されているとか。

        
         本殿は大社造りと呼ばれるもので、現在の本殿は1744(延亨元)年に建てられたもので、
        60年毎に檜皮葺きの屋根を葺き替えて遷宮が行われる。
         参拝する門が八足門で、正月3ヶ日に限り、この門が開かれ、その先の楼門前で参拝で
        きる。

        
         八足門の右にある観察楼は、楼門と同じく1667(寛文7)年に建てられたもので、途中
        から二階建てとなっており、2階部分に畳が敷かれ、朝廷などの要人が訪れた際に南側の
        境内を観ることができるようになっているとか。

        
         十九社は旧暦の10月の神在月(全国的には神無月)に、全国から八百万(やおよろず)の神
        々が集まり、7日間の神議り(かむはかり)の間、この社に宿泊されるため、この期間はすべ
        ての扉が開かれる。東十九社は出雲大社より東地域の神社(鹿島神宮など)、西の十九社は
        出雲大社より西地域の神社(厳島神社など)が滞在する。
         ちなみに十九社とは、「1」は物事の始まりで、「9」は物事の終わりを示す数字を結
        合したものとされる。  

        
         釜社(かまのやしろ)の祭神は食物を守護する神とされ、11月23日の夜、拝殿で執り行
        われる「古伝新嘗(しんじょう)祭」では、この社より御釜を拝殿まで移動させて御釜神事が
        行われる。

        
         1667(寛文7)年の遷宮に際して新造された文庫(図書館)は、寄棟造りで中央が土蔵造
        りの架蔵部屋で、その左右が畳敷きの閲覧部屋になっているそうだ。

        
         本殿の真後ろに建つ「素鵞社(そがのやしろ)」は、大国主神の父神である素戔嗚尊が祀ら
        れている。
         社では砂がいただけるそうだが、砂をいただくための手順があるそうで、出雲大社から
        西にある稲佐の浜の砂を持参し、参拝後に砂を社の軒下にある木箱に入れる。この手順を
        踏まないとご利益のある砂はいただけないそうだ。

        
         彰古館は1914(大正3)年、宝物や歴史的遺品などを展示する施設として建てられた。
        入母屋造の二階建てで、正面中央に切妻造りの玄関を設け、二階部には高欄を設けるなど
        社寺建築の要素が取り入れられている。

        
         本殿などの屋根に「千木(ちぎ)」と、中央に棒状の「鰹木」と呼ばれるパーツがある。
        千木の先端が地面と水平になっていれば「内削ぎ」で、社殿に祀られているのは女神とい
        われ、地面に垂直になっているのが「外削ぎ」で男神が祀られているという。
         鰹木は形が鰹節に似ていることから、この名があるようだが、茅葺き屋根や檜皮葺き時
        代、屋根を抑えるための重りとされる。

        
         出雲大社宮司の祖先を祀る氏社と西十九社。

        
         もとは千家国造家の大広間と使用され、「風調館」呼ばれていたが、明治に出雲大社教
        が設立されると、神殿としても使用された。
         現在の建物は1981(昭和56)年に造営され、神楽殿として祭典、祈願、結婚式などが
        執り行われている。

        
         国造家の住まいと潔斎場を合わせ持った出雲千家国造館。

        
         出雲阿国の道を220mほど行った右手に「連歌庵」がある。出雲阿国(1572-没年不明)
        は、出雲大社の巫女であったが、戦国時代後の混沌とした社会で、参拝者も少なく修繕費
        もままならない状況にあった。文禄年間(1592-1596)に出雲大社勧進のため、諸国を巡回し
        たところ評判になったという。
         かぶき踊りを創始し、この踊りが様々な変遷を経て歌舞伎になったといわれる。晩年は
        大社に戻って尼となり、連歌を楽しんで余生を過ごしたといわれ、そのため、この草庵は
        阿国寺“連歌庵”と呼ばれるようになる。 

        
         庵はもともと生まれた中村町にあったが、大火で焼失してしまい、後世になって養命寺
        の下に再建されたが、その後、この地に移築された。

        
        
         阿国の没年は諸説あってはっきりしないし、京都大徳寺の三玄院にも同様な墓がある。

        
         信号交差点まで戻ってお宮通りに入る。

        
         大社町時代のマンホール蓋で、日御碕灯台と経島(ふみしま)のウミネコがデザインされて
        いる。

        
        
         1889(明治22)年の町村制施行により、杵築東村と南村の区域をもって「杵築町」と
        なる。1925(大正14)年杵築町と杵築村が合併して「大社町」となるが、町名は出雲大
        社の鳥居前であることによる。現在は出雲市大社町で、大社町の呼び名が「たいしゃまち」
        から「たいしゃちょう」となる。 

        
         お宮通りの町並み。
    
        
         出雲大社は杵築大社ともいい、伊勢神宮と並び称される古社である。祭神は大国主神で
        「古事記」「日本書記」によると、高天原の天照大神は国譲りの代償として、大国主命に
        対し壮大な宮殿を与えた。これが出雲大社の始まりという。(神迎えの道)

        
         越峠荒神社の創建年代は不詳とされ、三宝荒神(生活の守護神)が祀られている。

        
         歯科医院の看板がある建物。

        
         神迎の道の町並み。 

        
         1877(明治10)年出雲大社に訪れる参拝客のために開いたという竹野屋旅館。神門通
        りに唐破風の玄関を持つ木造旅館を眺めて駅に戻る。 


津和野町の畑迫は山間に堀庭園と病院跡

2020年11月17日 | 島根県

        
                   この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         畑迫(はたがさこ)は西方山口県境山地から東流する白石川、西谷川の本流津和野川との合
        流地点付近にあり、笹ヶ谷鉱山の鉱床に富む須郷田山が北から迫っている。
         地名については、銅が湧いて出て人家多く稼ぎがあり、家の四辺が畑地になったことに
        よるという。江戸期から1955(昭和30)年までの畑迫村(一時喜時雨村となる)として村
        立していた。(歩行約1㎞)

        
         JR新山口駅9時13分の列車に乗車すると、JR津和野駅から津和野町営バスに連結
        し堀庭園バス停11時46分に下車できる。

        
         津和野の町中から山間に向けて約25分。バス停前に石見銀山で繁栄した堀家の主屋と
        長屋蔵が見える。

        
         堀家は鎌倉期の1282(弘安5)年吉見頼行が能登から木部に入部した際、頼行に従って
        当地に移住する。吉見氏は殖産を奨励し、特に銅の採削においては、堀氏を山口の長登銅
        山に派遣し、後に畑迫の山ノ内、木部の石ヶ谷、笹ヶ谷の3ヶ所で採掘を始めたとされる。
        (堀庭園案内図)

        
         受付と駐車場に挟まれた地が御米蔵跡。

        
         受付は邸内でなく道路を挟んだ反対側にある。(入場料500円)

        
         吉見氏の萩への撤退後は萩へ赴いたが、帰国して畑ヶ迫村に居住する。江戸期には天領
        だった当地は、大森代官による管理下に置かれ、堀家は代々銅山年寄役を務める差配家と
        なった。

        
         表門を潜ると正面に主屋の玄関。

        
         1733(享保18)年1月8日火災に遭い、建物および当家の記録を焼失する。1785
          (天明5)年に建築された木造2階建ては、入母屋造りの石州赤瓦葺きである。
         玄関が2つあって左手の式台がある玄関は、身分の高い来客を迎い入れるために設けら
        れた。

        
         玄関から座敷に上がると電話室があり、その奥に主室がある。

        
         8畳2間で構成されている主室。

        
         1875(明治8)年第15代藤十郎(礼造)が家督相続を受けて、鉱山経営は笹ヶ谷を主採
        掘場とし、石見、出雲、摂津、因幡、山口の長登など数十ヶ所の銅山を経営し、盛況を呈
        した。(囲炉裏の間と台所)

        
         1920(大正9)年鉱山経営は堀鉱業㈱に引き継がれ、日清・日露戦争後は笹ヶ谷と石ヶ
        谷を残して売却し、1928(昭和3)年に解散する。笹ヶ谷鉱山も日本鉱業㈱に営業委託し
        たが、1949(昭和24)年廃山となった。(2階の間より表門)

        
         主屋から楽山荘の門を潜る。

        
         1900(明治33)年に建てられた客殿の「楽山荘」は、木造瓦葺二階建ての数寄屋建築
        である。「楽山」の名は造営した堀藤十郎(礼造)の号によるとされる。(玄関前)

        
         楽山荘庭園は背面の岩山を背景とし、その一部を削って滝や平場に池泉回遊式庭園を設
        け、園内を散策できようになっている。滝の水源は、裏山の廃坑となった旧山ノ内鉱山の
        坑道から引き込まれている。

        
         玄関は式台を備えた格式高い造りとなっている。

        
         1階の主座敷は庭園に面した8畳の座敷で、床柱や付書院などに数寄屋風の意匠が見ら
        れる。

        
         池泉には六角雪見灯籠と立石で岩島が設けてある。

        
         階段を上がると、この空間から四季折々の色が楽しめそうだ。

        
        
         各階とも庭園に面した東面に濡れ縁・広縁が設けてある。

        
         2階の主座敷は琵琶床(床の間の脇半分が高く琵琶を飾ったことに由来)を備えた書院造
        りとなっている。

        
         和楽園側から見る楽山荘。

        
        
         1915(大正4)年に作庭された「和楽園」は、楽山荘の2階座敷の縁先に展開するよう
        に設けられている。

        
         県道17号からの堀家。

        
         緑橋の脇にひっそりと建つ観音堂は、毎年秋祭りも行われていたようだが詳細不明とさ
        れる。

        
         中堀家。

        
         地域の児童のため堀家が私費を投じて建てた旧畑迫小学校跡地。今は空地となっている
        が、かっては4間×10間の木造2階建ての校舎が建っていたとのこと。
         周辺には映画館などもあって、町の中心部まで出かけなくても日常生活が可能だったほ
        ど栄えていたという。

        
         和堀家。

        
         和堀家と並ぶ家も堀家と関係筋と思われる。

        
         新堀家は堀家の分家で、入口の坂と石組みを残して、屋敷は山口県山陽小野田市にある
        洞玄寺の庫裏として移築されたといわれている。

        
         学校の校舎を思わせる旧畑迫病院の建物。右側が診療棟、左側が病棟の造りとなってい
        
る。

        
         堀藤十郎(礼造)は銅山経営の傍ら、1892(明治25)年巨費を投じて畑迫病院を創設す
        る。1917(大正6)年には莫大な費用を投じ手術室や病室などを増築、いち早くレントゲ
        ンなども取り入れている。官立の病院はともかく当時の私立病院で、このような先進的な
        治療器具や薬品などを取り入れていた稀にみる施設であった。(左側玄関が診察用)
         白石川に架かる病院橋付近が、天領と津和野藩領との境だったされる。

        
         1931(昭和6)年以降は鉱山業が不振で堀家が経営権を手放したが、1984(昭和59)
        年まで医院、診療所と名称を変えながら地域の医療を支えた。(見学はこちらの入口)

        
        
         病棟廊下と病室は畳敷きベッド。

        
         島根県内でもいち早くキング型第2号レントゲン装置が導入された。

        
         昭和初期の様子が再現された診察室。

        
         手術室や外科室、検査室、薬局などもあった。

        
         随所に洋風建築の要素が取り入れられ、大正時代の風情を呼び起こす優れた建物である。

        
         白石川の両側は石積みで、所々に川に下る階段がある。これは汲み地と呼ばれ炊事や洗
        
濯に利用された。

        
         庭園バス停から旧畑迫病院までぶらぶら歩きにちょうどよい。(掘庭園前バス停15時
        14分)
 


津和野の城下町は伝統的建造物保存地区

2020年04月08日 | 島根県

          
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
         津和野の街を1日で歩くには時間が足りないので、レンタサイクルを利用して伝統的建
        造物群保存地区と乙女峠コース、津和野城址と石州街道コースに分けて散策する。(伝建コ
        ース約4.5㎞)
 
        
         1922(大正11)年開業のJR津和野駅は、1977(昭和52)年現在の駅舎に建て替え
        られたが、「山陰の小京都」の表玄関にふさわしく、平屋ながら堂々とした構えである。
        (駅前にレンタサイクル)

          
         駅から益田方面に約250m進むと旧石州街道(山陰道)に合わす。

          
         鉄炮丁通りは本町・祇園通りとは対照的な通りである。

          
         「鯉のおるお米屋・吉永」という木彫りの看板があり、店奥に水路を引き込んだ大きな
        池に鯉が泳ぐ。

          
         1617(元和3)年亀井政矩(まさのり)が、この地に「祇園社」(今の弥栄神社)の御旅所と
        して、「祇園社休堂」を建てたのが始まりとされる。当時はまだ町の整備が始まったばか
        りで、町の北端を決めるため藩の庇護のもとに置かれた。(駅通り筋) 

          
         伝統的保存地区は橋北地区とされ、江戸期以前の吉見氏時代には城下町は城の西側にあ
        ったと伝えられており、東側(現在の城下町)には田畑が広がっていた区域である。江戸期
        に岡山から坂崎氏が津和野に入り、当地区の城下町として整備が行われ、坂崎氏の治政1
        6年ののち、亀井氏が鳥取県鹿野から入城して現在に続く地割整備を完成させる。
         2004(平成16)年から2年をかけて道路修景・無電柱化事業が行われた本町・祇園丁
        通り。

          
         創業200年以上の高津屋伊藤薬局は、森鴎外にとって馴染み深い店で、鴎外が日露戦
        争に出征する際、5代目当主から餞別としてもらった漢方胃腸薬「一等丸」を愛用したと
        いう。店内には薬箱や秤など鴎外が暮らした時代そのままに残されている。(明治中期頃
        に建築)

                
         伊藤薬局の裏筋にある酒蔵。

          
         「華泉」の銘柄で酒造を営む華泉酒造は、1730(享保15)年創業で、主屋は明治中期
        に建てられたとされる。

          
         1717(享保2)年創業の橋本本店は、津和野最古の造り酒屋であったが、現在は販売の
        みとされているようだ。

          
         「角海老舎」は代々醤油醸造業を営む商家であったが、築後180年以上の建物をリフ
        ォームされて、「海老舎(えびや)」として生活雑貨の店に変身している。

          
         古橋家は江戸期には広島藩士で、明治維新より当地に移り住み、1878(明治11)年か
        ら酒造りを始めたという比較的歴史の浅い酒造場である。当酒造場の代表銘柄である「初
        陣」は、当家が武家であった時代の名残を伝える。建物は大正期の建物らしく他家と比較
        して建ちが高い。

          
         古橋酒造の酒蔵。

          
         1854(安政元)年呉服商として創業された「さゝや」さん。主屋は江戸末期に建てられ
        た。

          
         明治中期に建てられた俵種苗店。

          
         椿家は屋号を「分銅屋」と称し、蝋燭や髪付油を取り扱った御用商人で、主屋は江戸末
        期の安政年間に建てられた。
         椿家隣の疑洋風建築は、1934(昭和9)年に旧布施時計店が建てたもので、現在は新聞
        社の支店として活用されている。

          
         この先に津和野城下の旧武家町と旧商人町の境で惣門があったとされる。津和野城下は
        1853(嘉永6)年の大火によって大半が焼失し、町家は大火後に建てられた。

          
         戝間家は江戸期には御用商人として活躍し、明治中期以降は酒の小売販売を営む。18
        
99(明治32)年に建てられた商家住宅が当時を伝える。

          
         建坪120坪(396.7㎡)を超えるという大規模な商家。

          
         旧河田家具店の建物は明治後期(30年代)に建て替えられたもので、殿町の境界位置に
        所在し、財間家住宅と対を成している。

          
         本町通りは商人町筋で、殿町は家老屋敷が並んでいた。

         
         津和野カトリック教会は、1928(昭和3)年シェファー神父が津和野藩町年寄堀九郎兵
        衛宅跡に建設したが、1930(昭和5)年の火災で焼失する。現在の建物は1931(昭和6)
        年に再建された。

            
             教会は木造平屋建ての鉄板葺で、シンプルな図柄のステンドグラス
            を有する短塔式のゴジック様式である。

          
         殿町通りの水路は、明治期に新しく造られ、昭和になって鯉が放たれ、花しょうぶが植
        えられた。

          
         津和野のイメージにもなっている鯉は、民俗学者・宮本常一氏の提案によって、193
        4(昭和9)年に放流されたのが今日の姿の始まりとされる。

          
         津和野町役場の表門は、家老・大岡家の表門が明治の初めに取り外されて保存されてい
        たものが、1975(昭和50)年代に今の場所に戻された。

          
         1919(大正8)年鹿足郡役所として建てられたが、郡役所制度の廃止後、警察署として
        使用された。1955(昭和30)年の町村合併で町役場となり、現在も現役の役場庁舎とし
        て使用されている。

          
         1786(天明6)年に8代藩主亀井矩賢が、堀内(現津和野小学校裏付近)に藩校「養老館」 
        を創設した。1853(嘉永6)年の大火で創設当時の建物は焼失する。

          

         1855(安政2)年現在地に移転して再建されるが、1872(明治5)年に廃校となる。
        現在は武術教場(槍と剣術)の建物と敷地が当時のまま残されている。

          
         多胡家は亀井家11代にわたって家老職を務め、藩財政に大きく貢献した家柄である。
        間口4m、高さ26mの武家屋敷門で、両脇に物見と番所が設けられている。

          
         弥栄神社の鷺舞は、室町期に大内氏が山口の八坂神社を分祀した際に鷺舞も伝承し、1
        542(天文11)年津和野城主吉見正頼が大内義興の息女を迎え入れたとき、津和野の弥栄
        神社に伝えられたといわれている。

          
         津和野大橋から高岡通りを駅方向へ戻る。

          
         右手に和崎医院を見て、次の四差路を左折して直進する。(久保踏切)

          
          
         永明寺の塔頭(たっちゅう)永大院の裏山に津和野藩主亀井家の墓所がある。(塔頭とは本寺
        の境内にある小寺)

          
         築地塀に囲まれた藩主亀井家歴代の墓所。
 

          
         永明寺(ようめいじ)は、室町期の1420(応永27)年吉見頼弘が開き、吉見、坂崎、亀井
        氏といった歴代城主の菩提寺となる。山門をくぐると右手に鐘楼、中門、17
29(享保1
          4)
年再建の本堂がある。

          
         本堂は屋根葺き替え工事中であった。

          
         森鴎外は11歳で上京し、故郷の土を踏むことがなかったが、死の間際に「余は石見人
        
森林太郎と死せんと欲す」の言葉を残す。

          
         坂崎出羽守直盛は宇喜多忠家の長男として生まれ、宇喜多秀家、徳川家康に仕える。関
        ヶ原の戦い後に津和野藩主となり坂崎姓を名乗る。
         大坂夏の陣で家康の孫・千姫を救出したことから千姫事件に発展し、経緯については諸
        説あるようだが、1616(元和2)年9月に自害(殺害説もある)し、大名の坂崎家は断絶す
        る。
         墓は改易された横手城主・小野寺義道が、庇護を受けていた恩義から建てたとか、町方
        大年寄の堀平吉郎が建てたと諸説あるようだ。墓碑は「坂井出羽守」となっている。

          
         2009(平成21)年当時の本堂。

          
         書院の間。

          
         谷文晁に師事して南画を学んだ津和野藩家老・多胡逸斎(1802-1857)は、多くを江戸の藩
        邸に在勤した。隠居後は津和野で画事に専念する。

          
         書院前の池泉庭園は、ほぼ円形の中心に中島(亀島)があり、架け橋により亀の甲に乗る
        ことはできる。作庭時期は不明とのこと。

          
         千人塚までは舗装路であるが上り一辺倒の道。

          
          
         乙女峠殉教者の墓(千人塚)にはキリスト像とともに「為義而被害者来乃冥福」と刻まれ
        た碑が立っている。乙女峠の殉教者の遺骨を谷の諸所から集め、1892(明冶25)年にピ
        ヨリン神父が碑を建立する。

          
         十字架の道だが逆回りをしているようだ。

          
         1951(昭和26)年に「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる」聖堂として、乙女峠マ
        リア聖堂
が建立された。

               
          聖堂のステンドグラスには当時の悲劇の様子が描かれている。

              
         1868(明治元)年長崎の浦上から153名の隠れキリスタンが、乙女峠にあった光琳寺
        に送られてきた。
         1873(明治6)年に宗教の自由が認められるまで、津和野藩は改宗を迫り36名が殉教
        した。その内の一人・安太郎が三尺牢に入れられていた時、生母マリアが出現したという
        伝説が再現されている。

          
         明治政府は神道を普及させるため、江戸時代同様に「キリシタン宗門制禁」を続ける。
        1871(明治4)年11月政府使節として欧米に赴いた岩倉使節団に対し、諸外国が浦上キ
        リシタン問題を厳しく追及する。弾圧が不平等条約改正の障害になっていると判断し、1
        873(明治6)年に禁制が廃止された。

          
         津和野川まで戻って次のコースを散策する。
   


津和野の城跡から旧石州街道界隈

2020年04月08日 | 島根県

           
        この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
 
         津和野は東に青野山を中心とした青野火山群と、西は中世から近世にかけての城山に挟
                まれた南北に細長い盆地で、その中心を津和野川が流れる。(城址ルート約11㎞)

           
         乙女峠より津和野大橋に戻って弥栄神社。

           
           
         弥栄神社は津和野城の鬼門を守るために祀られた古社で、境内のケヤキの大木がその歴
        史を物語っている。毎年7月に祇園祭の神事として奉納される「鷺舞」の舞台でもある。

           
         弥栄神社先の赤い鳥居が表参道入口。(道傍に駐輪)

           
         伏見稲荷大社と同様に、千本鳥居があり、遠くからでも鳥居が確認できる。約300m
        におよぶ石段を登ればご利益がありそうだ。

           
         「太皷谷」は、津和野城がある城山の一角にあり、江戸期には時刻を知らせる太鼓が鳴
        り響いた谷間であることから名付けられたとされる。

           
         神門を潜れば眼下に津和野の町並み。

           
         太鼓谷稲成神社は、1773(安永2)年7代藩主・亀井矩貞が京都の伏見稲荷を勧請し、
        津和野城の鬼門に当たる太鼓谷の峰に創建する。「稲が成る」と表記するのは珍しく大願
        成就の願いが込められているとのこと。

           
         1867(慶応3)年津和野の乙女山にあった熊野権現社を遷して相殿となる。以来、社号
        は熊野神社となるが、1927(昭和2)年に稲成神社と改称する。現在の社殿は1969(昭
          和44)
年に造営された。

           
         今年の6月頃まで城山改修工事のため登山道利用はできず、リフト(往復700円)を利
        用する以外に手立てがない。下り便の最終時間が16時20分なので要注意である。

           
         大手門(東門)への登城口。

           
         東門跡は亀井氏の代は大手門となる。

           
         三段櫓跡には二階櫓が建っていたという。

           
         腰郭と二の丸、正面の石垣が三十間台。

           
         台所跡から見た天守台と三十間台。天守台は最高所でなく、一段下がった所にある変わ
        った城である。

           
         天守台石垣下にある中心部の縄張り図。

           
         搦め手側の西櫓門跡。

           
         正面の人質櫓(跡)には三十間台からのみ出入り可能な造りであるが、元来は三十間台を
        補強するために築かれたともいわれている。

           
         三の丸(霊亀山山頂)から見る人質櫓跡と三十間台。

           
         形の整った青野山は津和野のシンボル。

           
         三の丸の南端にある南門櫓跡。

           
         天守台から見ると左手に馬を繋ぎとめておく馬立場跡と台所跡、その奥に搦め手を監視
        する海老櫓跡。

           
         坂崎氏時代に三層の天守が建てられたとされるが、1686(貞亨3)年落雷によって火災
        が発生し、天守などが焼失した後は再建されることはなかった。

           
         三十間台から見る太鼓門跡と太鼓丸。

           
         三十間台は城の最高所で、実質的な本丸に相当する郭であったようだ。

           
         津和野の城下。津和野川が蛇行し、川の北側が伝建地区で、グランドは津和野小学校。

           
         町の南側には東の山裾をJR山口線と石州街道(山陰道)、県道13号線が南北に走る。

           
         三十間台から見る人質櫓跡と三の丸。

           
         かって津和野藩邸があった所で、明治維新後に藩邸は解体され、北側に津和野高校グラ
        ンド、南側に庭園跡が残された。もとは津和野高校の正面付近にあった物見櫓は、大正期
        の道路新設により嘉楽園の敷地内に移された。

           
         藩邸を橋北(現津和野庁舎)から津和野城直下(現津和野高校グランド)に移し、明治維新
        まで江戸期を通じて藩政を担ってきた。

           
         遊歩道と幸橋が交わる所に馬場先櫓があるが、藩邸の隅櫓で馬場に接していたことから
        名付けられた。江戸末期の嘉永大火で焼失した後に再建されたものである。

           
         太鼓谷稲成神社入口まで戻って石州街道に沿う。(津和野川)

           
         津和野町郷土館の門は、津和野藩主亀井家一族の草刈家屋敷門を移設したものである。

           
         殿町の風景とツワブキ、アヤメがデザインされたマンホール。

           
         山口線を潜ると街道だった面影は失われている。

           
         石州街道(山陰道)を南下すると、JR山口線手前に津和野藩の筆頭庄屋の屋敷を改装し
        た杜塾美術館がある。

           
         中座方面に進むと道は鉤の手になっている。

           
         津和野中学校付近の街道。

           
         街道を見返る。

           
         船蔵と百石蔵と呼ばれる酒蔵が街道に面する。

           
         1791(寛政3)年創業の戝間酒場は中座地区にあり、店舗・酒蔵は江戸時代後期の建
        物とされる。斜面地に建つため棟を段違いとするなど複雑な屋根構成を見せる。

           
         戝間酒場の先が石州街道(山陰道)と参勤交代道(津和野廿日市街道)との追分である。

           
         旧津和野藩亀井家の別邸と称される屋敷は、1900(明治33)年導火線製造販売で財を
        成した津和野出身の実業家・吉田三輔が建てたものである。1874(明治7)年亀井家の本
        邸が取り壊されたため、1920(大正9)
年津和野への逗留地確保を目的に購入したもので
        ある。

           
         鷲原八幡宮は津和野城南端の山裾にあり、津和野川に挟まれた地に立地し、津和野城お
        よび城下を守る重要な地であった。南北朝期の1387(嘉慶元)年石見国地頭職・吉見頼直
        により鶴岡八幡宮から勧請され、室町期の1405(応永12)年現在地に遷座したと伝えら
        れる。

           
         流鏑馬(やぶさめ)馬場は地形的制約のためか、八幡宮の参道を直行するように配置されて
        いる。全長270mの馬場は、日本で唯一原型を留めている馬場で、毎年流鏑馬神事が行
        われる。
 

           
         現在の社殿は、室町期の1554(天文23)年陶晴賢による津和野城攻めによる焼失後、
        1568(永禄11)年に再建された。

           
         境内に南面して本殿、拝殿、楼門が一直線上に立ち並ぶ構造となっている。拝殿と楼門
        の間に方形池を設けて、その上に潔斎橋が渡してある。

           
           
         西周(にしあまね)は、1829(文政12)年津和野藩医の子に生まれ、法学・西洋哲学をオ
        ランダで学んだ哲学者で、周が4歳から25歳までの住居である。土蔵には3畳の勉強部
        屋がある。

           
           
         森鴎外は、1862(文久2)年80石取りの藩医の嫡男として生まれ、11歳で上京する
        まで住んでいた家で、
平屋建ての簡素な造りには、父の調剤室や4畳半の勉強部屋などが
        ある。軍医と作家という2つの人生を生き、1922(大正11)年に没す。享年60歳。

           
         旧宅と一体となった森鴎外記念館。

           
         津和野川左岸遊歩道からJR津和野駅に戻り、16時56分の新山口駅行きに乗車する。
        (昼間はこの列車のみ)