ぶらっと散歩

訪れた町や集落を再度訪ね歩いています。

宇部市上宇部の沼・山門・開にある史跡巡り

2023年10月07日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製加工したものである。
         上宇部は真締川中流の左岸、宇部丘陵の基部にあって緩やかな谷状の低地に位置する。
        大正期に沖の山が市街地されるまで宇部村の中心は上宇部の寺ノ前であった。今回は参宮
        通りと称される常盤湖側を見て歩きする。(歩行約5.9㎞)

        
         JR宇部新川駅前(9:02)から宇部市営バス参宮通り経由約10分、沼バス停で下車する。

        
         参宮通りを北へ向かうと、中学校通り入口に厳島神社(水の神)と稲荷社(五穀豊穣の神)
        がある。
         江戸期に水害に悩まされたとき、稲荷社を上宇部中学校と山大工学部辺りに祀ると、水
        害もなく稲も良く育つようになったとか。灯籠には文政丁亥(1827)沼村中と刻まれている。

        
         参宮通りにある日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)は、日を限ってお願い事をすれば、願いが叶
        えられるといわれる地蔵尊である。きらら交流館辺りに通じる道が完成した時に設置され
        たという。

        
         中学校通りに沿うと右手「火の神様」が祀られている。

        
         明治初め頃の教念寺前の通りには酒屋、酢屋、醤油屋、宇部でただ一軒の旅館もできた。
        村役場、小学校もでき、年の瀬には市も開かれたという。
         今、寺ノ前通りを見ると狭く感じられるが、明治の頃としては広い道であったようだ。 

        
        
         宇部の給領主・福原氏は禅宗であったが、教念寺(真宗)に対して 、1661(万治4)年に
        現在の地を授けた。1744(延亨元)年に本堂が落成したが、1825(文政8)年には本堂・
        庫裏を全焼する。3年後に今の本堂が建ったが、当時の宇部では大変な事業であったとさ
        れる。

        
         寺と宇部高校との間に煉瓦造の煙突が聳える。

        
         宇部高校の玄関に聳えるケヤキの木は、宇部村役場からのもので、1962(昭和37)
        火事が原因で腐朽が進んだが、諸般の方々の努力で元気を取り戻す。2015(平成27)
        の校舎建て替えの際、校舎を北東に10mずらしたという。

        
         1920(大正9)年4月全国初の村立中学校として宇部小学校の校舎で授業が開始された。
        のち村役場の隣地に宇部村立中学校が新築され、第1回卒業生が「宇部中学校記」の石碑
        を建立する。

        
         宇部高校創立100周年記念モニュメント。第28回UBEビエンナーレ新部門プロポ
        ーザル部の第1号で、「飛翔」がテーマであったとか。

        
         宇部高校グランドを過ごすと教念寺山。

        
         教念寺歴代の住職と室の墓だそうで、古い教念寺の地ともいわれている。

        
         京賀のお大師様と記念碑。 

        
         1939(昭和14)年荷馬車が通れるほどに道を拡張した記念に建立される。

        
         鎌倉期の1196(建久7)年真言宗の文殊院として建立されたと伝える。1625(寛永2)
        年福原元俊の次女が吉敷毛利家に嫁したが、若くして亡くなり、その位牌を本寺に迎えて
        真言宗から浄土宗とし、寺号も戒名から「松月庵」と称した。1911(明治44)年松月院
        と改める。

        
         1969(昭和44)年築とされる本堂と山門は、2009(平成21)年7月の豪雨で屋根が
        傷み修理した際、山門を含め木材色に塗装された。 

        
         この域内には学校が多く、右手に上宇部小学校を見ながら大小路筋の広い道に出る。

        
         常盤公園方向に進むと三差路左手に、1895(明治28)年建立の道標がある。もとは道
        路の向かい側にあったが道路拡張でこちらに移転したという。今の参宮通りができる前の
        参宮通りで、ちょうど分岐になることから設置されたとのこと。

        
         道標から琴崎八幡宮への道を進むと左手に細い路地があり、家前に「申田彦大神」と刻
        まれた石を祀るお堂がある。猿(申)田彦は道案内の神とされるので他に鎮座していたもの
        と思われる。

        
         この道が旧来の参宮通りだそうだ。

        
        
         1794(寛政6)年時雨川に架けられた太鼓橋は、1984(昭和59)年河川改修により朱
        塗りで擬宝珠付きの渦橋に架け替えられた。旧渦橋は地元自治会によって御旅所下に移設
        復元された。
         琴崎橋の親柱は、2003(平成15)年国道490号線沿いの橋が架け替えられ際に移設
        された。

        
         神社の祭礼(御神幸祭)において、御神体を乗せた三基の神輿を氏子が担いで本殿を出御
        (しゅつぎょ)して、御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。この台座は、1822
        (文政5)年9月氏子によって寄進されたとある。

        
         琴崎八幡宮の宮碑によると、貞観年中(859-877)頃宇佐八幡宮を山城国男山へ勧請する途
        次、海上の時化のため琴芝浦に寄港する。出発時に際して幣(ぬさ)に分けてこの地に留めた。
        里人は琴芝村八王子に社を建立し、平安期の1184(寿永3)年厚東武光が西ノ宮に遷座さ
        せて宇部郷の鎮守とする。厚東氏滅亡後に新社地を求め、南北朝期の1377(永和3)年現
        在地に遷座される。

        
         1936(昭和11)年に三間社流造りの現社殿が新築された。1921(大正0)年宇部村
        が宇部市になり、町の中心が新川に移り始めると、1925(大正14)年海を航行する船か
        らも八幡宮が見えるようにとの願いから、参宮道路は一直線に造られた。

        
        
         琴崎保育園の裏山に常盤用水路がある。常盤湖に灌漑用と工業用水を確保するため、厚
        東川の末信から常盤湖に入水させる工事を県が計画し、1938(昭和13)年から5年の歳
        月かけて完成する。
         水路は全長8.3㎞、幅2mで、末信、中山、小羽山、琴崎八幡宮を経由して常盤長尺り
        エゴ(入り江)へと入水されている。

        
        
         この広場で江戸期には琴崎八幡宮の流鏑馬(やぶさめ)が行われ、明治以後は西洋式の競馬
        場が行われたという。鐘台の台座に「市制10周年記念競馬場大拡張」と刻まれており、
        1931(昭和6)年に拡張工事が行われ、1964(昭和39)年まで競馬が続いたという。左
        手の鐘台には「勝敗場」とあり、鉄製には鐘が吊り下げられていたものと思われる。

        
         風呂ヶ迫の墓地内にある雨乞祈願成就碑は、日照りが続いたため雨乞い祈願をするため、
        千把焚き(せんばたき)が行われた。3日目に雨が降り、開・山門・大小路の住民が、193
        3(昭和8)年9月墓地手前に記念碑を建立した。 

        
         佐々木向陽(しょうよう・1801-1863)は長崎の通訳の家柄に生まれ、17・8歳頃には6
        ヶ国語に通じていたという。江戸へ行く途中、難破して丸尾へ避難する。阿知須の江口茂
        兵衛に学識と人物を請われ、 阿知須に留まって子弟の教育し、傍ら医を開業する。
         その名声が高くなり宇部の晩成舎に招へいされ、阿知須と宇部の子弟を教えることを楽
        しみとした。宇部では晩成舎を廃して郷校・菁莪(せいが)堂を建てることになり、学頭とし
        て招こうとしたが、当時は領内の者でないと採用できない制度のため、佐々木という人の
        いない家を継いで佐々木向陽と改める。宇部に在ること18年の間、青木周蔵など多くの
        人材を輩出する。

        
         右手は佐々木松墩(しょうとん・1835-1885)頌徳碑が建立されている。萩藩益田家の家臣
        の子(荻野時行)として生まれ、のち佐々木向陽の一人娘・八重と結婚して養子となり跡を
        継ぐ。のち萩明倫館の教授、維新後は京都師範教諭となり京都で没する。 

        
        
         山門のお大師堂(八十八ヶ所)には、文化三丙寅(1806)五月と刻まれた弘法大師像が祀ら
        れている。外側には2列87体の石仏が並ぶ。
         四国霊場の巡礼は船で渡り、徒歩で1ヶ月以上を要したので、各地に小型の霊場を設け
        て四国参りの代わりとした。

        
        
         1915(大正4)年11月御大禮記念として、開黒岩青年支会が道標を建立する。読み取
        りが難しいが、東:床波・丸尾、西:新川・居能、南:岬、北:井関・阿知須駅と刻まれ
        ている。
         ここで歩きを終えて、傍の開バス停(13:23)より宇部新川駅に戻る。


宇部市常盤は常盤池周回と野外彫刻

2023年05月24日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         常盤公園は宇部市の中心部から東へ4.5㎞、市域の南東部に位置する常盤池を中心とし
        た市営総合公園である。公園の中心にある常盤池は東洋のレマン湖の愛称で呼ばれる。(歩
        行約8.6㎞・🚻あり)

        
         社会見学の子供たちと列車を見送る。1925(大正14)年宇部鉄道の停留所として設置
        されて駅舎も建てられたが、2020(令和2)年駅舎が解体されて待合所のみとなる。

        
         この駅は、正面に青い海と宇部空港を離発着する旅客機が見られる。

        
         歩道橋で国道を横断する。

        
         南駐車場前の案内図。

        
        
         満水時に堤防(本土手)が決壊しないように、荒手(水量が増えた時に水を流す排水路)が
        設けられている。この悪水溝に架けられた石橋で、1909(明治42)年までは石橋を利用
        して土手を往来していたというが、新道の完成後は通る人も少なく一部が崩落している。

        
         常盤公園入口の東側に飛び上がり地蔵のお堂がある。中に2体の地蔵が祀られているが、
        1929(昭和4)年常盤池の底から飛び出すように浮かんだことから、飛び上がり地蔵と呼
        ばれている。 
         どちらも頭と胴が後にくっつけられたもので、左の方が古いがいつ頃造られたものなの
        かは不明とのこと。

        
         石炭記念館は、宇部から炭鉱が姿を消してから2年後の1969(昭和44)年、炭鉱で栄
        えた宇部の歩みを長く後世に伝えるため、日本初の石炭記念館として誕生した。櫓は宇部
        興産㈱東見初(ひがしみぞめ)炭坑で活躍した竪坑櫓とのこと。

        
         常盤公園バス停の傍に際立つ鮮やかな赤色の彫刻が目を引くが、内田晴之さんの「重力
        空間ー赤」という作品である。横長の物体が水平に保たれており、マジックを見ているよ
        うな錯覚に陥る。
         ステンレス製の箱4つのうち、赤い箱に磁石が内蔵されており、反発し合うことで横長
        の箱が水平に保たれているとのこと。

        
         石炭記念館入口に荻原守衛さんの「坑夫」。荻原さんはロダンに教えを受けた彫刻家と
        される。

        
         常盤公園の白鳥と鯉が描かれたマンホール蓋。

        
         常盤橋前にある西野康造さんの「風になるとき」は、  常盤池一周は5.73㎞とあり。
        3本脚に支えられた翼が、風によって浮遊するように動
        いているが、鳥が大空に向かって羽ばたくような姿にも
        見える。

        
         常盤橋付近にはたくさんの白鳥が見られたが、2011(平成23)年2月高病原性鳥イン
        フルエンザが発生し、全白鳥の処分が行われた。現在は湖畔で白鳥を見ることはできない
        が、白鳥池前の飼育施設で数羽が飼育されているという。

        
         桜山入口にある関正司さんの「ロッキング・ロール」は、ボディ部分が衣装のようで裾
        は波形にふちどりされている。顔部分の髪は逆立した女人像である。

        
         池から初夏の風を受けながら周遊路を散歩。

        
         桜並木の散歩道。

        
         常盤池を地形図で見ると、掌を広げたように入り込んだ地形で、入江と突き出た岬はそ
        れぞれに表情を変えるので、次の入江はどんな表情を見せるのか楽しみの1つとなる。

        
         常盤池は上宇部、沖宇部、西岐波にまたがり、宇部丘陵地の新田開発のた
め灌漑用溜池
        として築造された。宇部の給領主・福原氏が藩に願い出て許可後、家老の椋梨権左衛門に
        命じて丘陵中の広くて長い浸食谷の最狭部に、堤高9.4m、堤長65mの堰堤を築き、周
        囲の台地から流入する水が自然に溜まるようにしたものである。
         3年の歳月をかけて、1698(元禄11)年供用開始したもので、2016(平成28)年「
        世界かんがい施設遺産」に登録される。

        
         「宇部炭田発祥の地」には炭生(たぶ)跡が残る。炭生とは“一散堀り”で採炭された竪坑(
        深さ3~7m)の事で、常盤池が完成する以前には家庭用石炭の採掘が行われていたとい
        う。 
        
         周囲には窪みがたくさん存在するが、2002(平成14)年に一散堀りが埋め戻された跡
        とのこと。

        
         1ヶ所のみ現状保存されている。

        
         平日だが多くの方がウオーキングされているが、皆さんは速足で散歩ベースではおぼつ
        かない。(常盤橋から2㎞地点)

        
         1920(大正9)年頃池のほとりの別荘地に桜が植樹されると、景勝地として知られるよ
        うになる。その後、地元の実業家・渡辺祐策らにより、常盤池周辺の土地購入活動が推進
        される。購入された土地が市に寄贈されたことで、1925(大正14)年宇部市常盤公園が
        開設された。(キャンプ場付近)

        
         左手にサッカー場と車道に合わす付近が3㎞地点である。

        
         常盤スポーツ広場管理棟前で周遊路を外れて黒岩観音に立ち寄る。

        
        
         黒岩観音は、1926(大正15)年松月院住職の道重上人から「黒岩山の中腹で、清水の
        流れる所に開(ひらき)部落の守り本尊として、観音様を建立したらよい」との勧めで、子安
        観音菩薩(子供の成長と妊婦の安産)、馬頭観音菩薩(馬の守護)の2体が奉安される。

        
         主要な入江が7つあるという。

        
         薬草園付近が6つ目の入江。

        
         常盤池に流入する自然河川はなく灌漑用に造られた池であったが、宇部曹達工業(現セン
        トラル硝子)や東見初炭坑などが工業用水に使用すると、渇水期には水不足が生じ始める。
         1943(昭和18)年宇部市末信の厚東川より常盤池までの8.5㎞をつなぐ導入路が設
        けられたことで、池の底を見せることがなくなる。(近代化産業遺産)

        

        
         1992(平成4)年竣工の白鳥大橋と武荒信顕さんの作品「あなたと‥(わすれてしまっ
        たこと)」

        
         楢原の入江に架かる斜張橋は青空に白色の橋が映える。

        
         しょうぶ苑には中央にスイレンの池があり、周りにハナショウブの花が見られる。

        
         外磯秀昭さんの「Sin」は、大きな形が小さな形を包括している作品。

        
         常盤神社は、1698(元禄11)年常盤池築堤に際し、堤の上に「水神様」を勧請したの
        が始まりとされる。後に変遷があったようだが、江戸後期頃に小島(小鍋島)に遷座したと
        いう。
         橋手前の鳥居には「慶應四(1868)戌辰八月」と刻まれており、境内にある鳥居、灯籠な
        どは、1969(昭和44)年草江の大歳神社を合祀した際に移設されたようだ。

        
         高病原性鳥インフルエンザで殺処分を免れたペリカンは、野鳥との接触を避けるため、
        ペリカン島全体がネットで覆われている。

        
         林の中にひっそりとある土屋公雄さんの「底流」は、1991(平成3)年第14回彫刻展
        の作品だが橋脚が再利用されているようだ。

        
         永廣隆次さんの「杜」
      
        
         向井良吉さん(1918-2010)は野外彫刻展の草創に尽力し、のちも同展の発展に寄与した人
        物である。この「蟻の城」という作品は、1962(昭和37)年宇部をテーマにした彫刻で
        現地制作されたものという。材料は地元企業から提供された鉄クズ(バネやレールなど)で
        構成されている。
彫刻の丘展示場で毎年出品作は変わっても、「宇部のシンボル」として
        この場所から動かず常設され続けている。
         左手奥は「月と山、水脈」という岡田健太郎さんの作品。

        
         三宅之功さんの「はじまりのはじまり」は、高さ3・5mの卵型をしており、表面はス
        テンレスのプレートと苔で覆われている。動植物に共通する「奇跡の誕生」を現わしたも
        のという。

        
         一風変わった作品は松本勇馬さんの「変身」で、木材・竹・稲わらで構成されており、
        全身に毛が生えた動物のような人間の造形である。 

        
         新宮晋さんは自然エネルギーで動く作品を制作されているが、噴水池にある「時のシル
        エット」は、9枚の白い帆が今目の前を通り抜けた風の軌跡を示しているという。
         まだたくさんの作品があったが、少々歩き疲れたので公園を後にして、正面入口のバス
        停よりJR宇部新川駅に移動する。


宇部新川に野外彫刻と真締川

2023年05月24日 | 山口県宇部市

        
               この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         宇部新川は宇部丘陵の南部に位置し、南は周防灘に面する。宇部という地名については、
        海辺が転訛したとも、ムベが繁茂していたからとも、宇治部という古代部民集団の居住に
        因むともいう。
         「新川」は宇部市中心部を指す地域名称のようで、住居表示あるいは大字の呼称として
        は存在しない。一般的には宇部市立新川小学校の校区が該当するという。残念ながら先の
        大戦で焦土と化し、戦前の遺構等が残されていないため、野外彫刻と真締川の沿いを散歩
        する。(歩行約6.9㎞、川沿いに🚻あり) 

        
         JR宇部新川駅は、1914(大正3)年宇部軽便鉄道の開業と同時に設置される。当初の
        設置場所は平和通りの宇部中央バス停付近に設置されたが、線路付替えにより現在地に移
        転する。
         駅名については、当初は宇部新川駅であったが、1943(昭和18)年宇部鉄道が国有化
        されると宇部駅に改称する。1964(昭和39)年山陽本線西宇部駅が「宇部駅」に変更さ
        れると、開業当時の駅名に戻る。

        
         駅前にある澄川喜一氏の「そりのあるかたち」は、高さ3mの巨大な石柱を軸にして、
        左右に大きく翼を広げた抽象的形態で、大きく羽ばたこうとしている。

        
         この一帯は、1945(昭和20)年の戦災により焼野原となった所で、戦災復興方針に基
        づき、この道が建設されて焼け野原に樹を植え、花が咲く道となる。
         平和を願い復興を取り組む中で、いつしか「平和通り」と呼ばれるようになり、「緑と
        花と彫刻の町ー宇部」のシンボルロードとなる。(彫刻は竹内三雄さTransfiguration“Link”V
        Ⅱ
 )

        
         新川大橋北の真締川公園西に関根伸夫さんの「空の天秤」。宮城県産の伊達冠石とステ
        ンレスで作られ、大きい石と小さい石がバランスを保って天秤状態となっている。

        
         桜井祐一さんの「あるポーズ」がある公園は、緑豊かな散歩道。

        
         緑橋は、この付近が白砂青松の「緑が浜」であったといい、その名が橋名に残された。
        大正期には装飾灯があったという。

        
         重村三雄さんの「風景のある抜け殻」は、柱の上部に逆さとなったセミの抜け殻。

        
         前田哲明さんの「Untitled 01-A」は、大きなステンレスの軸がうねりながら斜めに伸び
        上がる。パラボラアンテナのような不思議なパーツを通って、最後は逆さになったアクリ
        ル製のピラミッドに到着するというコンセプトだそうだが、アクリル板は修理中なのか存
                    在しなった。

        
         1910(明治43)年9月宇部村立新川尋常小学校としてこの地に開校するが、1941
        (昭和16)年10月宇部市西小串へ新築移転する。 

        
         黒川晃彦さんの「ロンド」は、ベンチに座った少し滑稽な姿をした人物が楽器を奏でて
        いる。ベンチの片隅が空いているので記念写真も可能のようである。

        
         ANAクラウンプラザホテル宇部と宇部興産ビルは、建築家・村野藤吾(1981-1984)最
        晩年の設計とされ、1983(昭和58)年に完成する。

        
         宇部市渡辺翁記念会館は、宇部市発展の基礎を築いた渡辺祐策翁の遺徳をしのび、翁の
        関係した7事業所の寄付で、1937(昭和12)年に建てられた。
         かの有名な村野藤吾設計によるもので、ゆるやかなカーブを描く外観は、煉瓦に模した
        タイルが張られているがしっとり感がある。建物を上空から見ると飛行機のような形をし
        ているという。
         村野氏と丹下健三氏は日本を代表する世界的な建築家であるが、丹下氏は官公庁関係が
        多いのに対し、村野氏は民間関係の建築を多く手掛けた。同館は2005(平成17)年に国
        登録重要文化財に指定された。

        
         宇部市文化会館は、1979(昭和54)年村野藤吾設計によって建てられた。

        
         モモイロペリカン「カッタくん」に子供がぶら下がり、その周りを市の花であるサルビ
        アが描かれたマンホール蓋。

        
         宇部中心部を流れる真締川は、霜降岳を源に発し、南に向かって周防灘の宇部港に注ぐ。  
        かっての宇部の中心は上宇部で、南に沖の山砂丘が広がっていた。真締川が宇部本川と呼
        ばれていた頃は、樋ノ口(現山口大学医学部)で西に向かい居能へ流れていた。
         このため、洪水で農地が被害を受けるので、1797(寛政9)年樋ノ口から河口まで開削
        して、流路を取り換えて新川と名付けた。真締川は「新川地区の間を占める川」から間占
        川となり、転じて真締川となる。塩田川から流れ込む樋門があったので、樋ノ口となり橋
        名にもなる。

        
         散歩するにはベストなコースであるが、橋詰を横断するには信号機を利用しなければな
        らない。

        
         山口大学医学部付属病院にはドクターヘリが駐機中。

        
         西野康造さんの「空を行く2005」は、風で動く彫刻で、3つの回転軸が個別で動く
        ことで伸びたり縮んだり、広がったりと空の上で複雑に変化している。(やすらぎ橋の上流) 

        
         山口大学付属病院通りの宇部大橋で左岸に移動する。

        
         吉野辰海さんの「大首Ⅲ」は、犬の大きな首で瞳は静かに前を見据えている。20世紀
        から21世紀へ、時を凝視することを止めた人間に代わって視る大首。

        
         やすらぎ橋は、中央に半円形の突き出たテラスと休憩用のベンチが置かれた歩行者専用
        橋。

        
         光善寺(曹洞宗)の創建等は知り得なかったが、本堂前に「人間のいのちは燭涙火(ろーそ
          く)
のようにまわりを照らしながら減ってゆく 止めることはだれもできません ただ ど
        こをどのように照らしていくか 与えられたたった1つの自由である」と‥。使える命(時
        間)の尊さを学び、寺を後にする。

        
         宇部図書館前にある佐藤忠良さんの「冬の子供」は、厚着のハーフコートがすっぽり包
        み込み、靴を履いた顔の表情がよい。佐藤忠良は日本を代表する彫刻家のひとりでもある。
         “彫刻の町・宇部”の育ての親、故星出市長を顕彰し、宇部市民有志によって寄贈され
        たものとされる。

        
        
         1917(大正6)年に発足した宇部紡績工場の遺構で、1930(昭和5)年には従業員数
        1,400人を数えたという。
         第二次世界大戦になると材料の確保が難しくなり、1942(昭和17)年紡績工場の整理
        で福島紡績と合併したが翌年に解散する。工場は呉海軍工廠宇部分工場となり、学生動員
        により特殊潜航艇のエンジンなどを作ったそうだが、1945(昭和20)年の空襲で大被害
        を受ける。戦後は市の車両課が使っていたが、現在は琴芝県営住宅、市立図書館などが建
        ち、図書館には工場の壁の一部が組み込まれている。

        
         旧宇部軽便鉄道の鉄道橋が使用されているが、「日立製作所笠戸工場製造大正12年(1
        923)3月」というプレートがあるそうだ。

        
         宇部線を過ごすと公園内に入るが、日影を歓迎する季節になってきた。

        
        
         1938(昭和13)年7月に架橋された松島町と寿町を結ぶ寿橋。橋詰には巨大な擬和風
        の親柱にはガス灯が付けられており、近代化土木遺産とされている。

        
         山内壮夫さんの「宇部産業祈念像」は、宇部市の戦後復興の祈念ともいうべきモニュメ
        ントである。男女が持つスコップが植物になって、柄から若葉が芽吹いている。

        
         同じく山内壮夫さんの「母のひざ」は、セメントで制作された2体の女像で、母のひざ
        をベンチ代わりにして座れるように工夫されている。

        
        
         新川大橋東詰を左折して常盤通りを市役所方向へ進むと、市役所は建て替えられて旧庁
        舎は解体中。少し先に進めば井筒屋というデパートがあったが、ここも建物が解体中であ
        った。

        
         中津瀬神社は、1801(享和元)年新川疎通のお礼と村の鎮護のために川の左岸(東)、今
        のヒストリア宇部の場所に祀られた。祭神は、農耕・水産諸産業の守護神とされ、本殿は
        川の方角(西向き)に建立されていたが、1991(明治44)年に川幅を拡張したとき現在地
        に遷座する。
         建立当時は松浜にポツンと建てられ、敷地も広かったと思われるが、今は建物に囲まれ
        窮屈そうにみえる。

        
        
         神社や本殿を魔物から守るため、魔除けとして狛犬が置かれているが、ここでは珍しい
        ライオンの石像である。1922(大正11)年に旧錦橋ができた時、橋の飾りとして造られ
        たものだという。

        
         法興寺は、東寺真言宗の別格本山という直轄寺の格式を持った寺である。新川に移転し
        てきたのは大正期とされるが、平安前期の859(貞観元)年大和国の大安寺の行教という高
        僧が天皇の命を受けて宇佐神宮に参詣した。
         のち京都の雄徳山に行く途中、赤間関(下関)に寄り亀山八幡宮を建立し、翌年に神宮寺             
        として建てたのが同寺の始まりという。

        
        
         宝篋印塔には安永10年(1781)の年号と、塔身の下方に菊の紋が彫ってある。1913
        (大正2)年に下関から移転させたものという。

        
         新天町商店街を歩く。

        
         旧宇部銀行館は、渡辺翁記念会館などを手掛けた村野藤吾設計により、1939(昭和1
          4)
年建築された。
         1944(昭和19)年1県1行(戦時統合)の政策を受けて、県内の各行が合併して宇部銀
        行は山口銀行宇部支店となる。現在は総合コミュニティホールとして活用されている。(近
        代化産業遺産) 

        
         銀行の建物配置からすると、戦前の常盤通りは現在とは異なる角度で真締川交差してい
        たと思われる。(建物は宇部市役所)

        
         歩行者専用橋である新川橋を渡ると、木戸修さんの「支え合う螺旋」。

        
         平和通りと国道分岐点に伊藤憲太郎さんの「SEED 増殖」がある。5mを超える巨
        大な砂時計のような彫刻で、空に伸び上がるような形である。つやつやした球体は周囲の
        景色を取り込んでいる。

        
         往路とは反対側の平和通りを歩く。

        
         二口金一さんの「メッセージ」は、マントを羽織った人体像をピラミッド形に集約され
        て、三人三様の動きを持たせている。 

        
         塚本洋守さんの「エンドレス コア」だが、歩いた道にあった43作品を撮影したが、
        事前に作品コンセプトを知り得ていたら、違った作品の見方ができたのかなと思いつつ駅
        に戻る。

        
         宇部線の列車はロングシートのため車窓を楽しむ雰囲気でないため、宇部市営バスの特
        急「新山口駅」行きに乗車して車窓からの風景を楽しむ。


宇部市東須恵の広い域内は丘陵地 

2021年11月27日 | 山口県宇部市

                          
                          この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         東須恵は宇部市と山陽小野田市の市境をなす丘陵が、瀬戸内海に向けて突出して本山半
        島を形成している。今では干拓されて半島とは思えないが、その東側に位置し、厚東川右
        岸にあって南北に長く、ほぼ中央部分に日本一の私道である宇部興産専用道路が敷設され
        ている。域内は広いため南側の小野田線、国道周辺部をぐるりと一周してみる。(歩行約
        6.4㎞)

        
         JR妻崎駅は、1929(昭和4)年宇部電気鉄道の沖ノ山旧鉱駅(のち宇部港駅)ー新沖山
        駅(のち廃駅)開通と同時に開業した駅で、後に小野田線扱いの駅となる。

        
         原ふれあいセンターの入口には、「原尋常小学校跡」を示す標柱がある。1901(明治
          34)年に厚南小学校分教場として開校し、1908(明治41)年厚南尋常小学校原分教場と
        改称する。 

        
         ドラえもんが立つ横断歩道で山手側へ向かう。

        
         辻に地蔵尊。

        
         その反対側に庚申塚。碑には文政7申歳(1824)立とある。

        
         庚申塚からは下り道。

        
        
         下り坂に2つのマンホール蓋。上段は常盤公園で放し飼いにされていたモモイロペリカ
                ン「カッタくん」に子供がぶら下がり、周囲は市花「サルビア」がデザインされている。
        下段は常磐公園の「花菖蒲」と周囲は市花「サルビア」、市木「くすのき」である。

               
         坂を下ると国道190号に合わし、地下道で反対側に移動する。

        
         丘陵地のため坂道が多い。

        
         大きな屋根を持つ人家。

        
         坂道を登り終えると庚申塚があるが、刻まれた文字は読めず。

        
                 岡田屋公会堂先の広場が岡田屋百手(ももて)祭の祭地である。室町期の1468(応仁2)
        年頃、この地に疫病が流行して多くの死者が出たため、松江八幡・八大龍王・大歳の三神
        に祈願し、鬼に見立てた的に矢を射たところ疫病が治まったという。以来、感謝と厄除け、
        五穀豊穣を祈念して神事が行われているとのこと。

        
         国道190号と高天原浄水場を過ごし、丘陵地を越えるとJR長門長沢駅前に出る。妻
        崎駅同様に宇部電気鉄道の沖ノ山旧鉱駅ー新沖山間開通と同時に設置された。

        
         水神社の創建年代は不明だそうだが、原地区の農業水利のため、小野田の堂島神社より
        勧請して祀ったという伝承が残されている。

        
         住宅地を抜けると梅田川沿いに出る。左岸は1860(万延元)年に開作された妻崎開作。

        
         厚南南部はそのほとんどが開作地帯のため、土地の守り神または水の守り神として、猿
        田彦大神や庚申塚が建立された。

        
         かっては漁船が出入りし、上流には魚市場があったとされる。

        
        
         庚申塚には注連縄もあって大切に祀られている。

        
         梅田川妻崎開作の樋門があった所で、1979(昭和54)年下流に新しい水門が作られて
        廃止された。

        
         幕末の萩藩は産業振興のため、撫育方を設置して石炭の量産に努めた。1868(明治元)
        年には石炭局が設置され、妻崎には庄屋の屋敷に石炭会所(支所)が置かれ,積み出し及び
        販売を管理した。

        
         梅田川から寺への坂道。

        
         西宝寺(真宗)の開基は俗性・縄田八左衛門といい、室町期の1475(文明7)年に当寺を
        建立したという。 

        
         原小学校玄関前に「南部懇話会之碑」が立っている。原地区は厚南村南端にあって農・
        漁業をしていたが、生活は苦しく文化にも恵まれなかった。地元の有志がこの現状を憂い、
        南部懇話会を結成し、地域の発展には教育の普及が急務であるとし、1901(明治34)
        用地や資金を出し合って厚南小学校原分教場を創立したと記す。

        
        
         土地勘がないため道を踏み外し、いくつかの史跡を見落とすことになる。妻崎駅に戻る
        と、人家に咲く皇帝ひまわりや皇帝ダリアを眺めて、15時48分の小野田駅行きに乗車
        する。 


宇部市の藤曲は保育園から大学まである地 

2021年11月27日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分の1地形図を複製・加工したものである。
         藤山(ふじやま)は厚東川河口部に近い左岸および宇部丘陵に位置する。1889(明治22)
        年町村制施行により、藤曲と中山の2ヶ村の区域をもって発足し、村名はそれぞれから1
        字をとって藤山村とする。
         藤曲の地名は、昔、藤が「く」の字に曲がっていたことに由来する。(歩行約6.4㎞)

        
         JR居能駅は、1929(昭和4)年宇部電気鉄道の駅として開業。現在は宇部線と小野田
        線が乗り入れ、相対式2面2線を有する。

        
         1687(貞亨4)年阿川毛利氏が居能開作築立の守護神として八大竜王を祀ったことから
        竜神社といい、通称は水神社といわれた。しかし萩藩の御根帳入りの神社でなかったため、
        1842(天保13)年淫祠として社殿が解体される。
         その旧地に、1855(安政2)年周防国生見村(現岩国市美和町)から大山祇神を勧請、そ
        の際に中山村にあった八大竜王も合祀して三島神社とした。


        
         
神社に向かって左奥に「藤曲浦網代碑」がある。江戸期から藤曲浦は妻崎から床波まで
        網代権(漁業権)を持ち、浦石といって税も納めていた。1887(明治20)年頃から新川や
        岬辺りで漁をする人達が出始め、紛争が起こるようになる。
         裁判所が仲介して、網代権を取り決めたことを記念して、1897(明治30)年に建立さ
        れた。

        
         神社から東へ細い道を辿ると、ホームセンター・ナフコ裏に出る。1914(大正3)年宇
        部~新川間に宇部鉄道が敷設され、藤山駅(山口銀行藤山支店付近)が開設される。その後、
        同駅はナフコ付近に移転し、藤曲駅と改称するが痕跡は残されていない。

        
         伏谷食料品店先に「香川裁縫塾跡」の碑がある。1903(明治36)年香川昌子は岡田家
        を借りて裁縫塾を創設。その後、香川裁縫女学校、香川実科女学校、香川高等女学校など
        を経て、宇部フロンティア大学付属香川高等学校へと名称変更する。

        
         1872(明治5)年郵便制度が発足し、1874(明治7)年7月国広宅を郵便局とする。
        1900(明治33)年郵便局は宇部村の島に移転したが、藤曲には郵便取扱所として残され
        た。

        
         名和田作兵衛旧宅跡で、1645(正保2)年7月27日長崎奉行を乗せた船が、藤曲浦の
        沖で難破しかけた時、村人総出で助けた。その時に陣頭指揮をした庄屋とのこと。 

        
         この筋が当時の中心地だったようだ。

        
         善福寺(真宗)の寺前は、元禄年間(1688-1704)に江ノ内開作ができるまでは海であったと
        いう。
         風土注進案によれば、俗名金益太郎左衛門尉安善という上方の浪人で、当国へ弟左仲と
        ともに下ってきて毛利家の家臣となる。島原の乱で弟が戦死したので、その菩提を弔うた
        め豊前国の法光寺のもとで剃髪、
慶長年間(1596-1615)に一宇を建立したのに始まるとい
        う。
         
        
         1931(昭和6)年宇部市に編入されるまで当地に村役場があった。

        
         西宮八幡宮は鎌倉期の文治年間(1185-1190)安芸の厳島神社より勧請して厳島社と称して
        いたが、1708(宝永5)年琴崎八幡宮の三神を勧請して現社号とする。 

        
         1894(明治27)年船木区裁判所藤曲出張所が開設されたが、廃止された年月は不明と
        される。

        
         道路は小さなS字を描いて西へ向かう。(右手が小学校跡)

        
        
         1872(明治5)年学制発布により、善福寺の庫裡を借りて藤曲小学校が開設されたが、
        1875(明治8)年茅葺きの小学校1棟が建築されて当地に移る。
         建設時に造られた石垣の中に、瓢箪と盃が彫ってある扇状の石があるが、この石は扇石
        と呼ばれ、石垣を築いた記念に石工が残したものと思われる。1899(明治32)年学校は
        再び移転する。

        
        
         現在の藤山小学校には、1902(明治35)年青木周蔵がドイツより持ち帰り寄贈したプ
        ラタナスの木が現存する。
         1844(弘化元)年周蔵は三浦玄仲の長男として生まれ、1849(嘉永2)年厚狭郡生田
        村より藤曲村に移り少年期を過ごす。(山陽小野田市埴生に生家跡あり)
         1865(慶応元)年毛利家の侍医(じい)青木周弼の弟研蔵の養子となり、周弼の次女テル
        と結婚して周蔵と改名する。明治期に外相を3回務めた。

        
         藤山中学校の角を右折して、次の三叉路は左折する。

        
         宇部軽便鉄道を通す工事で山を削った際に発見された茶臼山古墳跡。

        
         岩鼻駅への道。

        
         平原神社(秋葉社)は火除け、荒神の神として崇敬されている。

        
         右手の溜池を巻くように進むと、東平原第二公園前に出る。

        
         宇部は丘陵地で坂が多い。

        
         智光院(真言宗東寺派)は住宅街の小高い丘にあり、明治初期に観音の霊験を得た智光尼
        が草庵を建てたことに始まるとされるが、以前から祠はあったようである。 

        
         中国楽寿三十三観音18番札所で、中国三十三観音霊場とは別である。

        
         山号を由利野山といい、厚東氏滅亡の折に姫君がこの山に逃げ込んだが殺害された。姫
        の名が百合野であったことから百合野(由利野)山と呼ばれるようになったとか。以前から
        あったとされる祠は、姫の菩提を弔うため建立されたと伝わる。(本堂)  

        
         文京台を下ると右手に浜田自治会館があり、その先の四叉路を左折する。

        
         宇部市のマンホール蓋は、「白鳥」や「カッタ君」、常磐公園の「花菖蒲」がデザイン
        されたものが多いが、この地区は亀甲模様の中央に市章がデザインされたマンホール蓋で
        ある。

        
         この先で厚東川河口に出る。

        
         浜田水神社は、1699(元禄12)年浜田開作の築造が完成したが、その工事中に中山村
        開作竜神社として建立された。 

        
         旧厚東川鉄橋跡より20m上流付近に「松崎の渡し」の船着場があったとされる。

        
         1913(大正2)年12月宇部軽便鉄道厚東川橋梁が完成したが、1963(昭和38)年新
        鉄橋が完成すると役目を終えて鉄橋跡のみが残されている。

        
        
        
         岩鼻公園への第4種踏切を渡る。

        
        
         丘陵地から見る市街地。 

        
         こちら側からは駅へ行くことができない。

        
         JR岩鼻駅は軽便鉄道が開業した1914(大正3)年に開設される。居能駅(10:13)から
        約4時間の散歩だったが、ここから山陽本線の宇部駅に出る。


宇部市山中は旧山陽道沿いに2つの集落

2021年08月21日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         山中(やまなか)は厚東川支流甲山(こうやま)川流域の山間部に位置する。旧山陽道が域内を
        走り、集落は上市と下市に分れており、両市間は約1kmの隔たりがある。この集落へは公
        共交通機関がなく車対応となるが、極楽寺跡下に駐車スペースがある。(歩行約3.4km)

        
         熊野神社の社坊であった勝蓮寺は廃絶し、1615(元和元)年浄土宗の専念寺(浄土宗)と
        して再興された。1869(明治2)年極楽寺と改めたが、時期は不明だが現宇部市木田へ移
        転する。

        
         旧山陽道は割木松を過ごすと、国道2号線の北方を通り上市に入る。

        
        
         熊野神社にある縄田家の初代は、紀州(和歌山)出身の伊藤彦四郎で、南北朝時代は南朝
        方の武将であったが、南朝方が不利となり西に落ち延びたが、頼りの厚東氏は滅亡してい
        た。
         やむなく山中の地に隠れ住み、耕地の造成や溜池造りに力を入れた。これが大内氏の目
        にとまり、この地を預かる目代(もくだい)の役を授かる。
         江戸期から明治にかけて綿の小売りや質屋を営み、1858(安政5)年伊藤家から縄田家
        の家名が許される。1894(明治27)年に新築された家屋が現存する。

        
        
         熊野神社は伊藤彦四郎が室町期の1394(応永元)年、大内弘世の許しを受けて、日ごろ
        崇敬していた熊野権現を勧請した。

        
        
         1592(文禄元)年豊臣秀吉が名護屋から帰路に宿泊した甲山市は、近世になると山中市
        といわれていたが、天保末期頃(1840年代)には半宿となっていた。「宿馬」(伝馬)が1
        5頭いたが、「継人足」は村人の生活が厳しかったため定着しなかった。

        
         民家は旧道筋に並ぶ。

        
         緩やかな坂道を下り、甲山川にかかる橋の手前を右折する。

        
         右折する地に三界地蔵。

        
         甲山川付近から見る上市。

        
         国道に出ると伊藤彦四郎の墓跡を示す標柱がある。山中市を開いたとされる彦四郎は応
        永年間(1521-1528)に死去し、遺言により上市と下市双方が見える向かい側の山中に十三年
        神として祀られた。

        
         国道には横断歩道はあるが信号機がないので注意を要する。国道に沿うと旧ドライブイ
        ンの先で甲山川に沿う。

        
         甲山川の小さな橋の袂に庚申及び三界萬霊。

        
         家並みの中を抜けると再び国道に合流する。

        
        
         専念寺抱えの薬師堂は西福寺といい、大内隆弘が薬師堂に立願したところ、眼病が平癒
        したために建立したので厨子に大内家の家紋・大内菱があると伝える。

        
         民
家の間に道はなく国道から直に各家へ繋がっている。

        
         薬師堂から下市西端へ向かうとコンクリート造の建物前に本陣跡を示す標柱がある。(本
        陣の詳細知り得ず)

        
         国道筋から集落を眺めて往路を引き返す。  


宇部市車地に残る駒の頭と旧二俣瀬村役場  

2021年08月19日 | 山口県宇部市

                
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         車地(くるまじ)は、厚東川中流域左岸及び同支流甲山川下流左岸に位置し、北部と南部の
        河岸沿いに狭小な段丘があり集落を形成する。
         木田(きだ)は、厚東川中流域右岸の川岸段丘及び周辺に位置する。南部の国道2号周辺に
        民家が集まり集落を形成する。(歩行 約5km)
        
        
         JR厚東駅から宇部市営バス木田行約10分、終点の木田バス停で下車する。

        
         国道2号を引き返して旧山陽道に入ってみるが、道筋の民家は更新されて街道だった面
        影は残っていない。

        
         街道筋に秋葉社の鳥居。

        
         秋葉社は火の神とされ、防火、防災、火難除けなどの神徳があるとされるが、鳥居の大き
        さからすると石祠でなく小社が建っていたと思われる。

        
         旧山陽道は才ヶ峠を過ごすと瓜生野集落に入る。

        
         引き返して県道小野木田線に入ると極楽寺がある。現宇部市山中にある熊野神社の社坊
        であったが廃絶し、1615(元和元)年浄土宗の専念寺として再興された。1869(明治2)
        年現寺号に改めたが、後に現在地へ移転したという。

        
         入口には種田山頭火の句碑「道しるべ 立たせたまふは 南無地蔵尊」があり、その傍
        に3体の地蔵尊。

        
         木田の広大な農地。

        
         県道小野木田線を北上すると、上田木工所脇に灯籠と「歯朶(しだ)ノ木丸山城址328
        m」の案内がある。

        
        
         途中に大歳社と金比羅社が祀られている。

        
         詳細不明だが厚東氏配下の吉見正頼の城跡とされる。

        
         田園地帯を横断する。

        
         国道2号線車地交差点のガソリンスタンド前を左折すると、甲山(こうやま)川に架かる橋
        の袂に永山惣五郎(永山酒造2代目)の顕彰碑がある。車地と荒瀬集落との間には甲山川が
        あり、水量に関係なく往来できる橋を架けたとのこと。

        
        
         厚東川右岸にかけて平地が広がっているが、厚東川が低い所を流れているため、水を田
        地に引くことができなかった。
         南北朝期の正平年間(1346-1369)頃に木田の藤本五左衛門が中心となり、甲山川に井手
        (堰)を造り、厚東川の東岸まで水を引き、これを木管で厚東川の底をくぐらせて対岸に吹
        き上がらせるサイフォン式の樋を造って木田の田地を潤した。この仕組みが筧(かけひ)の先
        につけて噴水式にして物を冷やす道具の名をとって「駒の頭」と呼ばれた。

        
         旧山陽道の間には厚東川が流れ、川には渡し舟(二俣瀬渡し)があり、両岸の渡し場には
        石垣が築かれていた。風土注進案に「木田村に二俣瀬川、川幅22間(約40m)、渡船2
        2艘云々」とある。江戸期の終わり頃に舟橋が架けられたが、明治になって本格的な橋の
        工事が開始され、1872(明治5)年に完成した。

        
         1888(明治21)年創業の永山本家酒造場。

        
         日吉神社へは二俣瀬小学校の校庭を横断しなければならない。

        
         日吉神社の社伝によると、1621(元和7)年神託によって持世寺山王社から車地に勧請
        したという。
         一方、地元の口碑(こうひ)には、南北朝期に厚東氏が滅亡の際、持世寺から密かに御神体
        を持ち出して横山に祀っていたが、後に現在地へ移したとする。

        
         かって使われていた駒の頭の石組みが、二俣瀬市民センターに復元されている。(説明板
        あり) 

        
         永山本家酒造場のオフィスは、1928(昭和3)年天皇即位を記念して、永山惣五郎・梅
        三郎兄弟が二俣瀬村役場として寄贈したものである。
         二俣瀬村は、1889(明治22)年の町村制施行により、木田・山中・車地・瓜生野・善
        和の5ヶ村が合併した村である。

        
         厚東川左岸の旧道沿いに、石垣を高く築き、川に正面を向けた石造風木造2階建ての建
        物である。現在は永山氏の所有で国指定有形文化財となっている。

        
         永山本家酒造場は「貴・男山」の銘柄で知られる。(厚東川右岸より) 

        
         木田側の駒の頭。

        
         木田側の渡し場跡。

        
         現在の木田橋下流約100mのところに大きな洲(中の島)があり、川の流れが2つに分
        かれていたことから二俣瀬の名が起こったとされる。
         大雨になると水かさが増し、溢れることも多く、川の堤防を高くすることになり、洲の
        土砂が大量に使われた。それから分かれていた川は1つの流れとなったそうだ。

        
         大典記念碑の刻字は読み取れるが、昭和天皇即位を祝って建立されたものであろう。隣
        の灯籠には松崎神社と刻まれているが、合併した5ヶ村に該当する神社がないので詳細不
        明となる。

        
         この先で国道2号線と合わし、木田バス停に戻ることができる。


宇部市吉見は旧山陽道沿いの集落 

2021年05月14日 | 山口県宇部市

        
                 この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         吉見(よしみ)は厚東川と同支流の大坪川が合流する地域で、厚東川中流域の低地に位置す
        る。往古、吉見氏の住居があったことから地名となる。(歩行約5km)

        
         JR厚東駅は、1900(明治33)年船木駅として開業する。後に厚東駅と改称したが、
        新幹線の開通に伴い新幹線の高架下に移転する。(🚻使用不可)

        
         駅前の先が国道2号線。

        
         国道2号線を小郡方面へ進むと、山手側に進入道がある。 


        
         浄土真宗の円生(えんしょう)寺は、1873(明治6)年地内にあった西生寺と西円寺が合併
        する。西生寺は厚東氏の建立した持世寺ゆかりの寺として存続していた寺であった。

        
         寺の裏道を下ると県道宇部美祢線。

        
         麦畑の道を西進する。

        
         集落内で旧山陽道と合わす。この付近の街道は、参勤交代や役人・武士の通る「官道」
        で、一般庶民は厚東川沿いの「わき道」を利用していた。
         このため、「殿さまだけが通る道」が訛って「どんだけ道」といわれるようになった。

        
         旧山陽道は国道2号線に合流する。

        
         厚東川中学校の校門前辺りに吉見氏館があったと推定されている。津和野吉見氏と吉見
        村の関係は、吉見氏の先知行地であったとされる。

        
        
         正覚寺(真宗)は、寛正年間(1460-1466)地内の下岡に真言宗として創建されたが、15
        36(天文5)年大洪水によって被害に遭い、一切を流失したので現在地に移転。のちに浄土
        真宗に改宗された。

        
         街道から離れて山手に入ってみる。

        
         集落は国道2号沿線に集中する。

        
         石碑は破損してコンクリートで補修されているが、何の碑かは知り得なかった。

        
         尾越の坂道から狭い道を過ごすと国道2号線に出る。

        
         下岡交差点で国道下り側に移動。

        
         交差点から国道に沿うと、旧山陽道は左に分岐する。

        
         厚東川の左岸東方にある霜降岳には、山頂に厚東氏が築城したと伝える古城跡がある。
        築城年代は正確には明らかでないようで、地下(じげ)上申や風土注進案などは、厚東氏7代
        武光(平安末期から鎌倉初期)の頃としている。

        
         旧山陽道を道なり進むと、左折する道に出会う。

        
         左折すると左手に田地へ下る道がある。

        
         萱曲(かやまがり)古墳は直径約13mの小円墳で、玄室と小さな前室に短い羨道をもつ横
        穴式石室墳がある。古墳時代後期のものとされ、この地方の有力な豪族が埋葬されたこと
        がうかがえると説明されている


        
         県道と山陽本線下岡踏切を横断して持世寺温泉へ向かう。

        
         厚東川手前で下岡集落に入る。

        
         下岡神社の創建は鎌倉期の1289(正応2)年とされ、1868(明治元)まで疫神社と称
        した。当社は旧吉見村の総鎮守で、祭礼では「おはぎ神事」という特有の神事が伝承され
        ている。

        
         神社参道から畦道と思われる荒道を進む。

        
         山陽本線と新幹線の橋梁を潜る。

        
         1900(明治33)年山陽鉄道が敷設した赤い煉瓦積みが残されている。 

        
         新幹線下を歩けばJR厚東駅に戻ることができる。


宇部市棚井は厚東氏時代の史跡が残る集落 

2021年03月03日 | 山口県宇部市

        
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を複製・加工したものである。
         棚井は厚東川下流の右岸に位置し、河岸段丘に集落が立地する。地名の由来は「段々畑
        にてこれは向いなる故棚井と称する」という。(歩行5.7㎞)

        
         JR宇部駅から宇部市営バス木田行き約8分、厚東市民センター前バス停で下車する。

        
         バス路線を引き返すと右前方に厚東市民センターがある。ちなみに「厚東」とは厚狭郡
        の東部に位置したことによるという。

        
         1889(明治22)年町村制施行により、広瀬、棚井、末信、吉見の各村をもって厚東村
        が発足する。その役場がこの地に置かれた。

        
         センター内には棚井古墳第4号古墳と石碑がある。案内は薄れて判読できないが、上片
        山の裾にあったものを移設したとある。石碑も風化して読めないが、大正4年(1915)11
        月建碑とある。

        
         集落内を進むと幸神(さいのかみ)の石祠があるが、村や地域の境界、道の辻にあるので、
        文字どおり禍を防ぐ賽神と思われる。

        
         山陽小野田市は大きな河川を有しないため、宇部市の厚東川を同一水源としているよう
        で、この地に水道施設がある。

        
         棚井は上・中・下の区域となっているが、中心部は厚東氏の館あった棚井中のようであ
        る。

        
         厚東の史跡案内図が恒石八幡宮下にある。

        
         平安期の970(天禄元)年頃に厚東氏2代武基が備後国の常石浦に停泊中、海中から御神
        体を発見して持ち帰ったのが始まりとされる。厚東氏が建てた神社では最古である。
         厚東氏の居館の鬼門にあたる亀山(現在地)に本殿を建立し、仮殿から遷宮し厚東14郷
        の鎮守となる。

        
         裏参道に大きな鳥居、灯籠と石畳が並ぶ。

        
         境内神社として大歳神を主祭神とする亀山神社。八王子神、稲荷神、河内神が配祀され
        ている。

        
         八幡宮正面を県道まで進むと、宗廟恒石八幡宮を示す石碑と、石段を上がれば鳥居があ
        るが、途中の参道は車道になっている。

        
         南側の鳥居から戻る途中に厚東護国神社がある。

        
         厚東氏は古くより長門国に根付いた在地豪族で、7代厚東武光が霜降城を築城し、14
        代武実のとき長門守護職になるが、大内氏との争いに敗れて17代義武をもって滅亡する。
        (背後の山は城のあった霜降山)
 

        
         東隆寺参道入口にある三界萬霊塔と幸神。塔は文化十酉(1813)三月四日と刻字あり。

        
         東隆禅寺(曹洞宗)の山門を潜ると猫とワンちゃんの出迎えてくれる。寺は南北朝期の1
        
339年厚東武実が厚東氏の菩提所として建立する。長門国における禅宗弘布(ぐぶ)の中心
        として重きをなしていた。
         厚東氏滅亡後は大内氏も加護していたが、毛利氏の時代に加護が絶えて衰退する。16
        88(元禄元)年に再興され、1923(大正12)年に本堂が再建された。

        
         山門と本堂の間に「南嶺和尚道行碑」(県文化財)がある。南嶺(なんれい)和尚は当寺を開
        山したのち、摂津の福厳寺、博多の聖福寺などの住職を務めた。晩年は再び東隆寺に戻り、
        南北朝期の1363(正平18)年に示寂(じじゃく)する。
         この碑文は、室町期の1454(享徳3)年中国の明で作成されたもので、石碑は萩藩主・
        毛利重就により建立される。

        
         本堂背後の山に八十八ヶ所霊場があり、これを登るとすぐに開山南嶺和尚墓(一字一石
        経塚)がある。寺の東方にあった墓を移転したとある。

        
         同敷地一角に厚東氏墓所と言い伝えられる五輪塔と宝篋印塔がある。寺の由緒には「開
        基厚東武実公之墓 境内有之 但五輪之墓‥」と記されているが、被葬者の名前や墓石と
        の関係は不明とのこと。

        
         周辺の家々は改築か新築がすすみ、このような家は少なくなった。

        
         黒瓦と赤瓦という著しく異なった屋根の浄名寺(浄土宗)。

        
         厚東武実が祈願所として鎌倉期の1318(文保2)年に建立した真言宗の寺であった。武
        実はこの寺をこよなく愛し、法名も「浄名寺殿天庵‥」と号し、南北朝期の1348(正平
          3)
年に没して当寺に葬られたとされる。
         厚東、大内時代は栄えたが、毛利氏時代に加護が絶えて衰退したが、江戸初期の寛永年
        中(1624-1644)に浄土宗として再興された。

        
         本堂裏の墓地の奥まった所に厚東氏墓所があり、5基のうち2基は形が整った五輪塔で
        ある。案内がないので被葬者が誰なのかはわからなかった。

        
         境内に長門三十三ヶ所観音霊場19番札所。

        
         浄名寺の南にある高台が厚東氏の東館跡とされるが、現在は田畑と宅地となっている。

        
         浄念寺は、室町期の1482(文明14)年大内氏の家来であった俗姓・吉見将監が厚東上
        片山にあった禅宗の堂を浄土真宗に改め創建したとされる。江戸中期には碩学(せきがく)
        徳の住職を排出し、長門国屈指の大寺であった。
         厚南に給領地があった右田毛利家出の毛利謙八が、諸隊の1つ集義隊を組織して当寺に
        本陣を置いたが、1865(元治2)年2月1日暗殺される。誰によって殺害されたかはわか
        っていないが、25歳という若さで勤王の花となる。

        
         山門の右手には、1647(正保4)年鋳造の梵鐘があるが、17の末寺名が刻まれている。
        太平洋戦争中の金属類回収令に対し、時を報じるからという理由で供出を免れた。

        
         中原中也の父・謙助は、1876(明治9)年農家である小林家の次男としてこの地に生ま
        れる。優秀であり医術開業試験に合格し、陸軍軍医として各地を転任する。1901(明治
          34)
年士族の柏村家に籍を移す。
         中也の母・フクは父が病没後、弟である中原政熊(中原医院)の養女となる。1915(大
        正4)年一家で中原家と養子縁組をし、予備役編入を申し出て中原医院を継ぐ。謙助は19
        
28(昭和3)年往診先で倒れ、不帰の人となるが、小林、福井、柏村、中原と姓を遍歴した
        人生でもあった。

        
         厚東氏が滅びると市はなくなり、農家が散在する寒村となっていった。

        
         棚井下地区は古川に流れ込む水路周辺部に立地する。

        
         江戸期の船木は船木宰判の勘場が置かれ、この地域の政治・経済の中心であった。宇部
        から勘場に用事がある場合、棚井から山越えをしなくてはならなかったが、重要な道とし
        て5ヶ所にわたって石を敷き詰めた石畳道がある。

        
         慶応年間(1866年頃)尼僧の千林尼(せんりんに)によって造られた石畳で「千
        林尼の石畳」と呼ばれている。この道は人の行き来も多かったが、雨が降ると道はぬかる
        み通行人は大変苦労した。尼は自ら托鉢をして浄財を集めて道を整備する。

        
         棚井下集落の氏神で、八幡宮と天満宮が合祀されているが、昔は霜降岳の出城であった
        引地城の守護社であったという。

        
         周囲の住宅とは構えの違う家があるが、付近の農家では養蚕が盛んで、クワの木が多く
        植えられていたといわれる。

        
         道なりに進むと県道に霜降山登山口バス停がある。平日は9便、土日は7便と運行され
        ている。 
        


宇部市の沖宇部に長生炭鉱遺構と常盤池

2020年07月30日 | 山口県宇部市

           
                この地図は、国土地理院の2万5千分1地形図を加工・複製加工したものである。
         宇部丘陵の南部、瀬戸内海に面する地で、地内北部に1698(元禄11)年に築造された
        常盤池がある。(歩行約7.5㎞、駅から常盤池まで🚻
なし) 

           
         JR常盤駅は、1925(大正14)年6月宇部鉄道の停留場として開業したが、1943
        (昭和18)年国有化されると駅に格上げされた。海岸に近くホームから海が見え、山口宇部
        空港の飛行機離発着を垣間見ることができる。

           
         黒崎の岬に炭鉱坑道跡があるとのことで、駅から常盤(鍋島)海岸に出て岬へ向かう。

           
         坑道跡を見つけ出すことができず、山口宇部空港方面(左端)を眺めて床波海岸へ移動す
        る。 

           
         国道の案内板(床波漁港)に従うと海が見え、海中に炭鉱の遺構が見えてくる。

           
           
         海中に突き出た2つの杭は、長生炭鉱のピーヤといわれるもので、海底炭鉱の入気口と
        排気口の役目を担っていた。1942(昭和17)年2月、坑口より1,010mで浸水事故
        が起こり、183名が犠牲となり、今なお海底に眠っている。その多くが朝鮮半島出身者
        であったことを忘れてはならない。

           
         黒崎の東海岸には炭層露頭が見られる。以前は潜頭だったようだが台風などで浸食され
        て姿を現したとのこと。

           
         東海岸から引返して、国道手前の路地を右折する。

           
         民家を過ごすとJR宇部線に合わす。

           
                 「永遠に眠れ 安らかに眠れ 炭鉱の男達」
         長生炭鉱の食堂があった地に「殉難者之碑」が建てられている。この事故は太平洋戦争
        が始まってから2ヶ月後のことで、戦時下で報道も控えめで世間の目に触れることはなか
        った。この碑は、当時の関係者などによって事故から40年後に建てられた。

           
         この付近に、1938(昭和13)年宇部鉄道が長生炭鉱停留所を新設するが、炭鉱が海水
        流入事故により事実上閉山に追い込まれたため
廃止された。

           
         線路に沿うと新生浦踏切があり、その先の国道を引き返す。

           
         トヨタカローラ店手前を右折して道なりに進むと、左手に野黒目から大沢県営住宅へ上
        がる坂道がある。昔には岐波から新川へ至る公道であり、この坂で馬が苦労したので馬を
        大切にしたことから「馬守り坂」と呼ばれた。

           
           
         馬守り坂から常盤小学校通学路に入ると、左手に長生炭鉱の火薬庫跡が残されている。
        案内はなく途中にはU字溝があって飛び越えなくてはならない。

           
         通学路は山口宇部道路が横切り暗い函渠道となっている。(学校前を右折)

           
         上り坂を終えると三差路を左折する。

           
         この付近はマムシが多いことから、毒蛇の厄払いとして中江頭八王子社が祀られている。

           
         西進して常盤池を目指す。

           
         モモイロペリカン「カッタくん」と子供、周囲にサルビアの花がデザインされたマンホ
        ール蓋。

           
         団地内を抜けると常盤周遊路に合わす。

           
         湖畔を巡る5.7㎞の周遊路は、ウオーキング等を楽しみことができる。

           
         常盤池は1698(元禄11)年毛利家の給領主だった福原氏が、コメの収穫を得るために
        灌漑用溜池を造らせた。この辺りは常盤原といわれる野山で、30軒程度の家があったと
        いう。
         この池には流れ込む川がなく水不足を解消するため、1938(昭和13)年厚東川から水
        を引く工事が行われた。

           
         常盤橋と左手に石炭記念館。

           
         宇部炭田発祥の地とされる常盤湖畔に石炭記念館がある。記念館のシンボルである櫓は、
        かって宇部興産東見初(みぞめ)炭鉱に使用されていた竪坑櫓である。

           
         記念館の野外にある坑内石炭運搬車は、ディーゼル機関車で2屯鉄製炭車20函をつな
        いで運搬されていた。

           
         その他、竪坑櫓の上部に据え付けられていた矢弦車、人車、蒸気機械の原動力として使
        われたランカシャ―ボイラー、巻き上げ機などが展示してある。

           
         館内には海底炭鉱の様子を伝える坑道が再現されている。(館内無料)

           
         鉱員たちが住んでいた炭鉱住宅(炭住)も再現されている。1棟が5軒ほどに区切られた
        長屋で、1軒の広さは時代によって異なるが、6畳と4畳半の部屋と簡素な調理場あり、
        トイレ、風呂は共同であった。この1棟に3~4人家族が生活していた。

           
         記念館は宇部から炭鉱が姿を消してから2年後の1969(昭和44)年、炭鉱で栄えた宇
        部の歩みを長く後世に伝えるため、日本初の石炭記念館として誕生した。櫓は展望台とな
        っているがコロナの影響によるものか利用不可であった。

           
         国道に出て宇部市街地へ向かうと、1917(大正6)年常盤池の補助溜池として、女夫岩
        (めおといわ)の地に築堤されたもので、常に満水状態を保ち続けている。

           
         ときわ公園入口前で国道を横断して小郡方面に戻ると、国道190号線の中央分離帯に
        周防長門国境の碑がある。昔は国が違うため、大沢(周防)と亀浦(長門)との間でいさかい
        が多くあったとされる。

           
         さらに進むと、山口宇部道路交差点でJR常盤駅への細い道がある。