小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

真珠湾攻撃から80年――日本はあの戦争から何を学んだか?

2021-12-07 11:38:22 | Weblog
今から80年前の1940年12月8日、日本海軍機動部隊は350機の戦闘機・爆撃機を搭載した6隻の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」で米・太平洋艦隊の本拠地、真珠湾(パールハーバー)を奇襲した。
この攻撃で、アメリカ側は、主力戦艦アリゾナを含む戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2400名以上、負傷者1300名以上に達した。
いっぽう、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)ですんだ。
この「大戦果」の報道(当時は新聞が主流メディアでラジオは一部の富裕層しか持っていなかった)を受けて日本国民は狂喜乱舞した。が、実は真珠湾攻撃は大失敗だったのである。
この当時の日本軍部について陸軍は強硬姿勢、海軍は冷静な判断をしていたという説もあるが、連合艦隊司令長官・山本五十六も真珠湾攻撃については失敗を認めず、自己保身に終始した。
確かに真珠湾攻撃で米・太平洋艦隊が被った打撃は大きく、日本海軍は少ない犠牲で済んだことは事実である。が、強硬姿勢の陸軍もアメリカという超大国を相手に本格的な戦争で勝てるなどとは考えていなかった。米・太平洋艦隊を無力化させれば、強大な米軍事力は事実上「宝の持ち腐れ」と化し、日本の「対中戦争」へのアメリカの干渉をストップさせることができ、日本と中立条約を締結していたソ連に日米間の紛争の仲介を要請するつもりだったと思われる。実際、日本の敗色が濃厚になった時期、日本は和平交渉の仲介を何度もソ連に要請している。
では、真珠湾攻撃がなぜ「失敗だった」と言えるのか。
米・太平洋艦隊の機動力を失わせるためには空母を撃沈しなければならない。その空母を、日本海軍は1隻も撃沈できなかった。撃沈どころか、日本海軍の偵察機は空母そのものを見つけることさえできなかったのだ。
何故か。実は真珠湾は水深が浅く、戦艦や駆逐艦などは入港できたのだが、空母は入港できず、オアフ島近辺のほかの地域に集結していたのだ。日本海軍も偵察機が必至に空母を探したが、とうとう発見できず、やむを得ず「江戸の敵を長崎で討つ」というバカげた作戦に切り替えたというのが真珠湾攻撃の真実である。実際、日本の「だまし討ち」の証拠として戦艦アリゾナはアメリカはいまだに引き揚げていないが、その他の艦船はすぐに引き揚げ修理している。
アメリカは日米貿易摩擦のときも「リメンバー・パールハーバー」を日本バッシングに利用したが、いまでもアリゾナを引き上げないのは日本に対する恨みをいつまでも保持し続けるためである。一方、広島の原爆ドームは「リメンバー原爆」のためではなく、原爆という非人道的兵器を廃絶するためである。

●真珠湾攻撃は宣戦布告なき「だまし討ち」だったのか
日本は奇襲攻撃は戦争の手段として古くから容認されてきた。たとえば源義経の「ひよどり越えの逆落とし」や織田信長の「桶狭間の奇襲」、明智光秀の「本能寺の変」ですら奇襲攻撃自体が非難されたことはなく、主君の信長を裏切ったという意味で「逆臣」扱いされてきただけである。
私は1992年11月『忠臣蔵と西部劇』という本を上梓した。映画評論の本ではなく、副題を「日米貿易摩擦を解決するカギ」としたように、当時貿易摩擦が大激化していた日米間のパーセプション・ギャップの本質を分析するのが目的だった。が、書店ではこの本の扱いに困ったようで、ほとんどの書店では「話題本」のコーナーには置いてくれず、映画関係の書棚に置かれてしまった。出版社の祥伝社は私の顔写真付きで大々的な新聞広告を打ってくれたのだが、意外性を狙ったタイトルで失敗した。しかし、いまでも32冊上梓した私の著作の「代表作中の代表作」と思っているし、アベノミクスの円安誘導により自動車や電機など輸出メーカーの国際競争力を強化したのに、肝心のメーカーが「笛吹けども踊らず」で輸出を増やさず為替差益で史上空前の利益をため込んだ。そうした日本企業のビヘイビア原理も、この本ですでに解明している。
そんな自慢話めいたことはともかく、この本で明らかにした日米間のパーセプション・ギャップの最たるものは「目的」と「手段」についての考え方のどうしても埋まらないギャップである。
忠臣蔵というと、赤穂浪士たちの苦心惨憺が美談として語り継がれてきているが、実はアメリカ人にはまったく理解しがたい「美談」なのだ。何故か。敵の吉良家が宴席の夜で油断しきっていた深夜に、吉良家の家臣や用心棒の寝込みを襲った「だまし討ち」だったからだ。
一方、ゲイリー・クーパー主演の「真昼の決闘」やアラン・ラッド主演の「シェーン」、バート・ランカスターとカーク・ダグラス共演の「OK牧場の決闘」にみられるように、西部劇には戦いの「目的」の正当性より、戦う手段の「フェアさ」が重視される。だから、西部劇には戦う方法として二つのルールが確立されている。「丸腰の相手を撃ってはならない」「うしろから撃ってはならない」というのがそれだ。だからアメリカでは「両手を上げる」「背中を向ける」という行為は、「あなたと戦うつもりはない」という意思表示であり、それが自己防衛の最善の手段なのだ。
つまり「目的さえ正しければ手段は問わない」という価値観が根付いてきた日本と、「目的の正邪もさることながら、目的を達成するための手段がフェアでなければいけない」というアメリカ人の価値観とのずれが貿易摩擦の根底にあったと私はこの本で書きたかったのである。
忠臣蔵の「美談」がアメリカ人には理解できないのと同様、ロッキード事件の立役者の一人、全日空の若狭徳治社長(当時)が逮捕・有罪になっても全日空社内での評価は「自分のためではなく会社のためにしたこと」とかえって人望が増したことや、バブル時代、日本一の銀行を目指し、「中興の祖」とまで社内で人望を集めていた住友銀行の磯田一郎頭取(当時)が社員に対して「向こう傷は問わない」と、収益を上げるためだったら何をやってもいいととらえかねない檄を飛ばしたことがある。私は磯田氏にインタビューしたとき、「本当に何をやっても銀行が儲かりさえすればいいんですか」と痛烈な質問をしたことを昨日のように覚えている。

真珠湾攻撃が失敗に終わったことは別として、日本は攻撃前に対米宣戦布告はする予定だった。実際、アメリカの日本大使館に外務省は「対米宣戦布告」の暗号電報を打っている。
実はアメリカとだけは事を構えたくなかった日本は(アメリカと本格的な戦争をして勝てるなどと考えていた政治家や軍人は絶対的少数派だった)、駐米大使として野村吉三郎氏と来栖三郎氏の2人大使制まで敷いていたことから考えても、日本がいかにアメリカとの戦争を回避したかったかが理解できる。
日本が開戦に踏み切るきっかけになったとされる米側最後通牒(米側は「最後通牒ではない、まだ交渉継続中だった」と主張している)の「ハル・ノート」についてはあとで触れるが、これで開戦やむなしと考えた日本政府は駐米日本大使館に暗電を打った。が、この暗電を解読、タイピングしてハル国務長官に手渡ししたのは、真珠湾攻撃の1時間後だった。米側にとっては「だまし討ち」に等しい攻撃だった。

●「宣戦布告」の国際ルールを日本は批准していた
宣戦布告についてのルールがバンコク平和会議で討議され、初めて国際ルールとして採択されたのは1907年10月である(ハーグ条約)。日本は日清・日露戦争に「勝利」し、欧米列強と肩を並べる地位に向上していた。日本も国会での議論を経て11年11月に批准し、翌12年2月に発効した。
ハーグ条約の要点は「条約締結国は、開戦に先立ち、相手国に対して理由を付した開戦宣言を通告すると同時に、中立国に対しても開戦に至った事情を通知すること」である。
私自身が、この条約に疑問を持つのは、攻撃を受けた国(太平洋戦争においてはアメリカ)は宣戦布告なしに開戦してもよいのかについての明確な規定がないことである。また日本は真珠湾攻撃の前にマレー半島に奇襲攻撃したのをはじめ、香港やフィリピンなど東南アジア一帯への侵略攻撃も開始しているが、これらの攻撃については日本は宣戦布告をしていない。なお、米ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃(アメリカ時間7日)を受けて、上下両院議会で対日宣戦に踏み切る演説を行った。その日本語訳を掲載する。

昨日、1941年12月7日、この日は醜行の日として生きつづけるでしょう。アメリカ合衆国は、突然かつ意図的に日本帝国の海軍空軍による攻撃を受けました。
合衆国はかの国と平和な関係にあり、日本からの懇願に沿って、太平洋における平和維持を期待して日本政府および天皇と交渉している途中でした。
更に言えば日本の空軍部隊がアメリカ領土のオアフ島に爆撃を開始した1時間後、日本の駐米大使がその同僚を伴ってアメリカの最近の提案に対する公式返答を我が国の国務長官に手渡したのです。
そして、その返答はこれ以上の外交交渉の継続を無意味なものと思わせるような内容が述べられてはいましたが、軍事攻撃による戦争への警告も示唆も含まれてはいませんでした。
日本からハワイまでの距離を考慮する時、今回の攻撃が何日も前から、あるいは何週間も前から意図的に計画されたものであることは明らかであることが記憶されるべきです。
その間、日本政府は意図的に、継続的な平和への希望へ向けた偽りの声明、表明によって合衆国を欺むこうと努めてきたのです。
昨日のハワイ諸島への攻撃で誠に多くのアメリカ人の命が奪われてしまったことを、深い悲しみをもって皆さんに報告しなければなりません。
加えて、サンフランシスコとホノルルの間の公海上でアメリカ国籍の艦船が魚雷攻撃を受けたとの報告が入っています。
昨日、日本政府はマレー半島にも上陸し攻撃を加えました。昨晩、日本軍は香港を攻撃しました。同じく昨晩、日本軍はグアムを攻撃しました。昨晩日本軍はフィリピン諸島を攻撃しました。昨晩日本はウェーク島を攻撃しました。そして今朝、日本はミッドウェイ島を攻撃しました。
つまり日本は太平洋の全域にわたって奇襲攻撃に打って出てきた訳です。昨日そして本日の出来事はそれら自体が雄弁に主張しています。
合衆国の国民は、既にその意見をまとめ、かつ自国民の安全と自国の安全性それ自体の重要性を十分に理解しています。
陸海軍の最高指揮官として、私は我が国の防衛のためのあらゆる手段を講じるよう命令を下しました。
しかしながら、我が国の国民の誰であれ、私たちに向けられた猛襲の性質を忘れることはないでしょう。
この計画的な侵略行為を克服するのにどんなに時間がかかろうとも、合衆国の国民はその正当性に基づいて、完全な勝利を勝ち取る所存です。
私は、議会および国民の総意を推察し、我が国が最高レベルで自国の防衛を図るべきのみならず、このような悪辣な行為によって再び我が国が危機に晒されるべきではないことを明らかにすべきときであると信じます。
敵は現在しています。
わが国民、わが国土、そしてわが国の権益が重大な危機に見舞われていることに疑いの余地はありません。
我が軍への信頼と、我が国民による自由な意思によって、私たちは必ずや最終的な勝利を獲得するでしょう。主よ、私たちにご加護を。
わたしは議会に対して、1941年12月7日に日本から蒙った謂れが無く卑劣な攻撃を以って、合衆国と日本帝国とが戦争状態に入った旨の布告を宣言するよう要請します。

アメリカの真珠湾攻撃に対する怒りが凝縮された演説と言えよう。が、この演説でルーズベルトは「合衆国はかの国と平和な関係にあり、日本からの懇願に沿って、太平洋における平和維持を期待して日本政府および天皇と交渉している途中でしたと述べている。ということは「ハル・ノート」は日本政府が解釈したような最後通告ではなく「日本からの懇願に沿って、太平洋における平和維持を期待して」の「交渉条件文書」ということになる。あるいは「交渉中」と見せかけることで、アメリカの卑劣さを目くらまししようとしたのか。そうなると、「ハル・ノート」が目指したものは何かということが改めて問われなければならない。

●中国・朝鮮半島をめぐるヨーロッパ列強、ロシア、日本の抗争
「ハル・ノート」を分析する前に、当時の中国と朝鮮半島をめぐる世界の動きを簡単に振り返っておく必要がある。
漢民族が支配していた中国(明)をツングース系の狩猟民族・女真(満州人)が打倒して清朝を樹立したのは1644年である。清王朝は孫文らが起こした辛亥革命で崩壊する1911年まで267年間、中国を支配した「征服王朝」である。日本の徳川幕府時代とほぼ同じくらいの長期政権だった。
清は政権時代、中国の版図を拡大し続けた。台湾、モンゴル、新疆(東トルキスタン)、チベットと版図を広げた。朝鮮や琉球は事実上、中国の属国的状態にあったが、中国の領土になったことは一度もない。
日本の徳川幕府と同様、長期政権は次第に弱体化する。日本で徳川家康が徳川幕府を築いたのは1603年で、1868年の大政奉還によって明治維新が実現するまでの265年間の長期政権だった。ほぼ清朝政権と同じ長期政権であり、かつほぼ同時期に政権を樹立し、同時期に政権崩壊した。ただの偶然ではない。
清朝も徳川幕府も政権崩壊の原因は欧米列強のアジア進出が原因だ。
1840年、世界戦争史上、最悪の戦争と言っても過言ではないイギリスがアヘンを中国に売り続けるために起こしたアヘン戦争が欧米列強の中国侵略の嚆矢である。続いてイギリスはフランスと手を組んで1856年、アロー戦争を起こし、さらに清・中国を侵略する。
一方、「尊王攘夷」を旗印に討幕を成功させた薩長を中心とする新政権(明治政府)は、何故か政権を獲得した途端、倒幕の最大のエネルギーだった「攘夷」をマジックのように消してしまった。そのことはすでにブログで書いたから繰り返さないが、攘夷どころか欧米列強に肩を並べるために「富国強兵殖産興業」を新政府の旗印に転換し、ひたすら軍国主義への道を歩みだす。
そして弱体化した清国から朝鮮を日本の支配下に置くため朝鮮・李王朝で生じた東学党の乱を契機に朝鮮に出兵し、さらに李朝を扇動して中国からの独立を画策、日清戦争を始める(1894年)。実際、あまり左翼系歴史家は書きたがらないが、日清戦争後、朝鮮は中国の支配下から脱し「大韓帝国」を樹立した。なお、征韓論を唱えて政府から排除された西郷隆盛は、なぜか賊軍の将なのに英雄扱いされ、明治天皇自身は対清戦争に反対だったようで、「この戦争は余の戦争にあらず」との記録を残している。
ただ、日清戦争に勝利した日本はいったん、戦果の一つとして遼東半島を清から割譲させたが、そのとき清朝の中国はすでに列強の「草刈り場」となっていて、ロシア・フランス・ドイツの「三国干渉」によって日本は遼東半島を中国に返還する。南下政策を進めていたロシアは「待ってました」とばかりに旅順・大連を清から租借、事実上、日本の支配下に入った朝鮮(大韓帝国)へのにらみを利かせはじめる。慌てたイギリスはロシアの南下政策を防ぐため日本と同盟し(1902年「日英同盟」)、日本はロシアの脅威を防ぐため日露戦争を始める(1904年2月)。日本海軍は世界最強と言われたロシア・バルチック艦隊を撃破、難攻不落だったロシアの旅順要塞(203高地)を膨大な犠牲を払って陥落、アメリカの仲裁によって戦争は終結した(05年9月)。この戦争の結果、朝鮮支配をねらっていたロシアは日本の朝鮮支配を容認、清から得ていた旅順・大連の租借権も日本に引き渡し、南樺太も日本に割譲したが、「敗戦」は認めず賠償金の支払いにも応じなかった。そのため日本国内では「膨大な戦費や犠牲を払いながら~」という不満が広がり、東京・日比谷公園での抗議集会(9月5日)に集まった人たちが暴徒化し、内務大臣官邸や国民新聞社、交番などを焼き討ちするに至ったほどである(日比谷焼き打ち事件)。
一方、日本に敗れた清朝政権はさらに弱体化していく。徳川幕府の末期に列強と不平等条約を結ばされたことで攘夷運動が燎原の火のごとく広がったのと同様、列強に次々と侵食されていく状況下で「反キリスト教」「外人排斥」を主張する民衆の蜂起が中国各地で生じ、「義和団」として一大勢力になる(1900年)。当初はこの反乱を鎮圧しようとした清朝だが、北京を義和団に制圧されるに及んで義和団支持に方針を転換、英・米・独・仏・豪・伊・露・日の8か国に宣戦布告したが、8か国連合軍が清軍および義和団を制圧、北京を占領して列強による中国の分割支配がさらに進んだ。
さらに日本は完全に支配下に置いた朝鮮半島を10年8月に併合し、大韓帝国は消滅する。
一方、中国の分割支配競争に出遅れて「蚊帳の外」に置かれていたアメリカは、中国の分割支配競争に割って入るため「門戸開放」を主張して中国での利権獲得に急遽乗り出した。そして中国では孫文らが主導した辛亥革命が勃発し、1911年、清王朝は崩壊する。
翌12年1月、孫文は自ら臨時大統領となって「中華民国」を樹立し、「北洋軍閥」の総帥・袁世凱を初代総理大臣に任命した。が、袁世凱はNO。2では嫌ですとばかりに孫文を辞任させ、10月には自身が大統領の座に就き、首都も南京から北京に遷都した。以下、重要事件を歴史年標的に記載する。

1914年7月28日 第1次世界大戦勃発(日本は日英同盟を口実に中国のドイツ権益を奪取)。
1915年1月 日本が中国に21か条の要求を突き付け、袁世凱政権は受諾。
同年12月 独裁政権を目指して袁世凱は皇帝に就任して帝政を敷く。国内外の反発が激しく、日・英・露・仏も帝政に反対し、翌16年3月、袁世凱は帝政を廃止。その3か月後、袁世凱は失意のうちに死亡。
1917年11月 ロシア革命(ロシア歴では10月)。
1918年11月 第1次世界大戦終結。
1919年 朝鮮で独立運動(三・一運動が勃発) 中国でも愛国民族運動(五・四運動)が勃発、反日運動が広がった。
1920年1月 国際連盟発足。アメリカは上院で否決され連盟には不加入。
1921年5月 張作霖、中国東3省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)独立を宣言。
1922年10月 イタリアでファシスト政権(ムッソリーニ)誕生。
1928年6月 孫文の後継者・蒋介石が北伐を行い、中国を再統一して国民政府を樹立。翌29年、日本は国民政府を承認。
1929年10月24日 世界恐慌勃発(暗黒の木曜日)。
1931年9月 関東軍が満州事変を起こし満州全域を掌握。翌32年3月、満州国を建国し、国家元首に清朝最後の皇帝・愛真桂溥儀を就ける。33年2月、国際連盟総会は満州国を不承認し日本は国際連盟から脱退する。が、英・米・仏などは満州に経済進出する。
1933年1月 ヒトラー、独首相に就任。
1936年1月 日本、ロンドン軍縮会議から脱退、無制限建艦競争始まる。
同年2月26日 皇道派の陸軍青年将校らがクーデター未遂(2・26事件)
1937年7月 盧溝橋事件を契機に日中戦争勃発。
1938年1月 近衛文麿首相、「以後、蒋介石率いる国民政府は相手にせず」と声明、和平への道が閉ざされた。
1939年8月 独ソ不可侵条約締結。
同年9月1日 独、ポーランドに侵攻、第2次世界大戦勃発。
1940年3月 親日派の汪兆銘が関東軍の後ろ盾を得て、南京を首都に新政権を樹立(中華民国国民政府)。
同年9月 日・独・伊がベルリンで3国同盟。
同年11月 ルーズベルトが「戦争には参加せず」を公約に米大統領に3選。
1941年4月 日ソ中立条約調印。
同年6月 ドイツ、独ソ不可侵条約を破棄せずソ連に侵攻。
同年8月 米、日本への石油全面禁輸。
同年11月26日 米、「ハル・ノート」を日本に提示。
同年12月1日 御前会議で米・英・ランへの開戦決定。
同年12月8日 日本海軍、ハワイ・オワフ島の真珠湾を奇襲。

日米開戦に至る過程について、これだけフェアに検証したメディアや歴史家はいないと自負している。正直、これだけの年表を作成するのにかなりの時間と労力を費やした。よっぽど、途中で「1940年7月17日 小林紀興氏生誕」と年表に入れようかと思ったくらいだ。

●アメリカが日本を対米開戦に踏み切らせたかった理由
1920年、国際連盟が発足したとき、アメリカは連盟に加盟しなかった。ルーズベルト大統領は加盟したかったようだが、当時のアメリカの国内は厭戦気分が充満しており、加盟決議は上院で否決された。
アメリカは伝統的に他国の紛争に関与しないという思想を持ち続けてきた。そもそもは1823年に米第5代大統領のジェームズ・モンローが議会で宣言したことが発端で、「アメリカは自国が攻撃されない限り、ヨーロッパ諸国の勢力争いには一切関与しない」という孤立主義の考えだった。当時のアメリカはまだ発展途上国で、イギリスとの独立戦争には勝利したものの、ヨーロッパ列強は依然として脅威の対象だった。だいいち、当時のアメリカは国内が二分しており、決着をつけた南北戦争は「モンロー宣言」の40年後である。
むしろ南北戦争で多くのアメリカ国民が血を流したこともあって、「二度と戦争はしたくない」という厭戦気分が国中に横溢したと考えられる。だから第1次世界大戦にもアメリカは参戦しなかったし、国際連盟にも加盟しなかったくらいだ。
そのアメリカを大きく変貌させたのがルーズベルト大統領だった。ルーズベルトはニューヨーク州知事だった1929年、世界恐慌に直面した。33年に米大統領に就任すると、恐慌によって疲弊したアメリカ経済を回復させるため大胆な財政出動を行い、公共工事による経済活性化と失業率の奇跡的な回復を成功させ、アメリカを世界の大国へと導いた。
第2次世界大戦の勃発でナチス・ドイツがヨーロッパを席巻し、イギリスのチャーチル首相がルーズベルトに何度も参戦協力を要請したが、米国人の90%がモンロー思想に染まっており、ルーズベルトとしてもいかんともしがたい状況にあった。もちろん、アメリカ自身が攻撃されれば状況は一変しただろうが、世界恐慌を克服して世界最強国になったアメリカを攻撃する国はありえなかった。そのルーズベルトにとって、これ以上はない餌が日本だった。
中国進出に出遅れたアメリカが目を付けたのは、まだヨーロッパ列強が手を付けていなかったフィリピンなどの海洋弱小国だった。ヨーロッパ列強にとって最大の利益の源泉は広大な中国本土であり、中国に対する権益を獲得するために中国の周辺国を次々に植民地化していった。アメリカの対中作戦はせいぜいのところ「門戸開放」を唱えて対中権益のおこぼれにあずかることくらいだった。
そういう時期に日本が対中戦争に踏み切ったというわけだ。しかもヨーロッパ列強はナチス・ドイツの勢力拡大によって中国の権益を守るどころではなかった。ルーズベルトにとって、こんな「タナボタ的チャンス」はなかった。で、ルーズベルトは蒋介石の国民政府に資金供与をはじめ様々な支援を行い始めた。

ここでちょっと私の「戦争論」を展開させていただく。戦後、日本は憲法改正を行った。当時の吉田茂首相のもとで憲法9条も制定されたのだが、この9条をめぐって共産党の野坂参三や社会党の森三樹二が猛烈に批判している。野坂は「戦争には侵略戦争と自衛戦争がある。自衛戦争まで否定するのはいかがなものか」と吉田に食らいついた。吉田は「近年の戦争の多くは自衛を口実に行われている。自衛のための戦争は正当とするのは有害な考えだ」と一蹴した。
私は戦争には第3のカテゴリーがあると考えている。「権益(正当な権益か否かは別として)の防衛戦争」というカテゴリーがそれだ。実は日本が行った自衛戦争は鎌倉時代の「元寇」だけである。それ以外に日本が不法な武力侵略を受けたことは一度もない。
一方、侵略戦争は豊臣秀吉の朝鮮征伐を皮切りに、徳川幕府の許可を得た琉球侵略、日清戦争、日中戦争、東南アジアへの侵攻(大東亜戦争)などがある。最後に「権益防衛戦争」は日露戦争と太平洋戦争だ。
そう考えると、太平洋戦争の性格が分かってくる。ルーズベルトは第2次世界大戦に参戦したかった。が、アメリカ国内にはモンロー主義の呪縛(孤立主義あるいは不干渉主義)が横溢していた。とにかく国際連盟への加盟すら拒否した国民性だ。そのアメリカ国民を戦争に駆り立てるには、アメリカに対して戦争を始める国をつくるしかなかった。その標的にされたのが日本だった。
実は「人種のるつぼ」と言われ、多民族国家の象徴のように言われているアメリカだが、南北戦争のきっかけとなった奴隷制度をはじめ、白人以外の黒人やアジア人は「アメリカ白人社会に奉仕する人種」という位置付けは南北戦争後も不変だった。
そもそも「奴隷解放の父」とあがめられ、つねに「理想の大統領」と位置付けられてきたリンカーンですら人道的立場からの奴隷解放者ではなかった。当時、近代工業が急速に発展していた北部の大都市では常に労働力不足の状態にあった。その労働力不足を解消するために、南部の黒人奴隷を近代工業の担い手労働者として必要とする資本家たちの要請にこたえたのがリンカーンだった。
が、アメリカ各州が必ずしも奴隷を主要な労働力としていた農業州と、労働力不足に悩んでいた近代工業州に分かれていたわけではない。とくに北部には奴隷制度を維持してきた州も少なからずあった。南北戦争は1860年の南軍による奇襲攻撃で始まったが、リンカーンは北軍から脱退する北部州を北軍につなぎ止めるため奴隷制度については現状維持を認めつつ「奴隷制度の拡大防止」という政策を打ち出さざるを得なかった。リンカーンが「奴隷解放宣言」を発したのは北軍の優位が明らかになった1862年9月である(本宣言は63年3月)。
なお、いまの立ち位置から考えると信じがたい思いもないではないが、リンカーンは共和党から出馬して60年11月の大統領選挙で勝利している。一方、民主党は奴隷制維持派と廃止派の分裂状態だった。いまの立ち位置から見ると、当時の共和党はリベラル派で、民主党は保守派だったと言える。ただ両党に共通していたのは、アメリカを建国した白人人種にとって、奴隷の黒人だけでなく、新天地を求めて移民したアジア系やヒスパニック系人種も、あくまで白人社会への奉仕者にすぎず、彼らが事業に成功して勢力を拡大することは喜ばしいことでは決してなかった。そのため、日本人移民など特にアジア系移民に対してはアメリカは何度も排斥運動など違法な迫害攻撃を繰り返していた。そうした国内事情も太平洋戦争の直前まで続いていたのである。ルーズベルトが日本を対米戦争に引きずり込もうとした背景もそこにあった。

●「ハル・ノート」の真の目的は何だったのか?
日本としては広大な中国戦線に持てる戦力のすべてを注ぎたかった。そのため日ソ中立条約を結んで北からの脅威を防ぐ一方、一番苦心したのがアメリカとの関係だった。アメリカはイギリスのチャーチルから何度頼まれてもヨーロッパ戦線に参加せず、中立を維持していた。ニューディール政策で世界恐慌を克服した「英雄」のルーズベルトでさえ、米国内に充満していたモンロー主義はどうにもできず、蒋介石から何度頼まれても日中戦争への軍事的介入はできなかった。
日本もアメリカとの友好関係は何が何でも維持しなければならなかった。そのため、駐米日本大使館には異例の2人大使(野村吉三郎と来栖三郎)を常駐させていたほどだった。そこで日米開戦の直接の引き金となった「ハル・ノート」についての論理的検証が重要になる。11月26日の「ハル・ノート」で、米政府が日本に「提案」した内容(「合衆国政府及び日本国政府の採るべき措置」)の全項目は以下の10項目である。(※ハルは米国務長官)

1. イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2. 仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3. 日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
4. 日米がアメリカの支援する蔣介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
5. 英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6. 最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
7. アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
8. 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9. 日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)
10. 本協定内容の両国による推進

米政府提案10項目には「最恵国待遇を基礎とする通常条約再締結のために交渉の開始」(石油禁輸の解除の意味?)や「日米による相手国資産凍結の解除」など、交渉継続の意思を思わせる項目も入ってはいるが、その前提として「中国からの全面撤兵」「三国同盟の破棄」など、日本としては受け入れがたい項目が含まれている。
実は6月21日にもハルは米政府の提案も行っている。そのときの提案には日中和平の条件として「共産主義運動に対する防衛のための日本軍の中国駐兵は今後の検討課題とする」「満州国に関する友誼的交渉を継続する」という、ある程度、日本の事情を汲んだ内容が含まれていた。
6月提案と11月提案には、日本側も度肝を抜かれるような内容変更がされており、11月提案に含まれている「譲歩的項目」は「最後通告ではない」とするためのカモフラージュと考えるのが文理的解釈であろう。
が、たとえ11月アメリカ提案が事実上の最後通告だったとしても、アメリカには日本に宣戦布告できる条件がなかった。すでに述べたようにアメリカは中国にはほとんど権益を有していなかったから「権益防衛」という口実すらなかった。日本もアメリカの同盟国・イギリスが有していた中国の権益には手を触れず、アメリカの逆鱗に触れることは避けてきた。
もちろん日中戦争が日本の侵略戦争であったことは事実だし、満州国建国も純粋に満州民族の民族自決権を後押ししたのであればともかく、明らかに愛真桂溥儀を担いでの傀儡国家つくりであったことも事実だ。が、日本だけが植民地拡大のための侵略戦争をしていたというならともかく、世界中が植民地獲得競争に明け暮れていた時代でもあった。

そこで考えてみた。もし日本政府が「ハル・ノート」を「お預かりします」と無視を決め込んでいたら、アメリカはどうしたか。アメリカには対日開戦できる大義名分がない。しかも国内にはモンロー思想が充満しており、たとえルーズベルトが対日宣戦決議を上下両院にかけても否決されたと思われる。日本政府にそういう知恵を働かせる人が一人もいなかったのだろうか。
「歴史に『たら・れば』はない」という。それでも私たちが歴史を重視するのは、歴史から未来のために活かすべき知恵を得るためであって、ノスタルジアに浸ったり、認知症対策のためではない。
が、学びに失敗すると、人間は同じ過ちをまた犯す。「歴史は繰り返す」ともいうではないか。
いま日本のウルトラ右翼国会議員たちの間で「自衛権行使の中に先制攻撃も含まれる」といった馬鹿げた主張が強まっている。私は「専守防衛」という自衛なんかありえないとは考えているが、相手国が宣戦布告もせず、ましてや軍事行動にも出ていない段階で「戦争を仕掛けてくるのではないか」と勝手な妄想で先制攻撃に踏み切ったりしたら、日本はあの真珠湾攻撃の失敗から何も学ばなかったことになる。
中台有事のリスクが高まっているときだけに、勇ましい話はゲーム機の中だけでやっていただきたい。















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