落合順平 作品集

現代小説の部屋。

舞うが如く 第七章 (5)工女の寄宿舎

2013-02-18 07:58:20 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(5)工女の寄宿舎




 前園と名乗った寄宿舎の取締役が先導役となり、琴と民子を先頭に、
前橋からの工女たちが製糸場の長い廊下を通り抜けていきます。
これから一年間をお世話になる予定の工女たちの宿舎へ向かって、ここにも
細い廊下が続いています。


寄宿舎は南北に2棟、並んで建っています。
一棟の長さは、東から西までの全長がおよそ56mで、幅が9mほどの二階建てです。
全部で120室ほどあり、定員は500人余りです。
部屋は2つの押入れが付いている、6畳間の和室です。
平均4人がひと部屋で寝起きをする設定になっています。

 この寄宿舎は、工場敷地の北側に位置していますが、
広い中庭部分がその前面に広がっているために、たいへんに
日当たりが良い構造になっています。

 寄宿舎の南側窓から工場内を眺めると、
東と西の両側には繭(まゆ)の巨大倉庫が見えます。
南側の奥には、でんとかまえる繰糸工場なども見て取れました。
これらの建物に囲まれた、広い中庭のまんなかには、
蒸気をつくるボイラー室と、鉄製リベット打ちの円形の貯水槽があり、
さらに煉瓦と鉄でできた、巨大な煙突(地上高31m)が天を突くようにそびえ立っています。


 
 取締役のすぐ隣の部屋へは、
琴と民子、最年少の咲の3名が入るようにと指示が出されました。
あとはそれぞれに、自由に決めて入室することになりました。
娘たちが、思い思いに相部屋の人選をすすめている最中、
琴が、取締役に呼ばれます。


 「いずれもが、士族や大名家など
 名家出身の子女たちですが、おしなべて、世間を知らず、
 生糸を手繰る仕事はおろか、
 家事仕事ですら、おおかた経験をしておりませぬ。
 あなた様の主なる仕事は、これらの子女たちを
 養育するのが本務となりまする。
 ひと月ほどは、糸繰り場のすべての工程を経験していただくようですが
 それが済んだ後は、私の預かりとなりまする。
 取締まりの心得を学んでいただくのが、
 本来の目的と、そう、お心得をねがいまする。
 ここだけのお話ですが・・・
 なぜか、あなた様と私は、同い年に相なりまする。
 なにぶんにもよろしゅうに。」


 なるほどと、うなずく琴の背後で、
娘たちの、収まりのつかない喧騒が始まりました。


 「いかが、なされましたか?」

 振り返る琴の前に、
早くも目に涙を溜めたお下げ髪の娘が、
鼻にかけた甘い声で、精一杯に訴えてきます。

 「それが・・・
 どうあっても、5人で一部屋に入りたいということに相成りまして、
 一部屋4人と言う、決まりごとの勘定に合いませぬ。
 あちらを譲れば、こちらが譲れず
 あちらを立てれば、こちらが立てず、
 もう、どのようにしたら良いのか
 皆目に、わからなってしまいました。
 どのようにいたしましても、とうてい4人には削れませぬ。
 いがいたしたもので、ありましょうか。」

 「他愛もないことでありまする。
 5人一緒に入室いたせば、それで収まりのつく話です。
 無理に削れとは申しませぬが、
 後ほどに、狭いなどと後悔だけはいたさぬように、ご随意のままに。
 気のあったお仲間同士の、5人のままで
 仲良く、お使いくださいまし。」


 琴の助言に、
娘たちの表情は、いっぺんに晴れてしまいます。


 「まさしく明快、ご明察。
 さすがに、法神流の秘蔵の鬼娘。
 見事なる一本にありまする。
 さてさて、これは先が楽しみに相なりまする。」

 廊下で、無邪気に喜び合う娘たちの様子を見据えてから、
ひと言うなずいた取締役が、にっこりと琴にほほ笑みます。
「では、後ほど」と軽く頭をさげると、コホンとひとつ咳ばらいをして、
自分の部屋へ消えてしまいます。



舞うが如く 第七章 (6)へつづく



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舞うが如く 第七章 (4)富岡製糸場

2013-02-17 06:41:40 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(4)富岡製糸場




 巨大な敷地に建てられたレンガ造りの赤い工場、それが日本の近代化を象徴する
官営の製糸工場の「富岡製糸場」です。
木の柱と梁(はり)にレンガを積み込んだ、「木骨レンガ造り」のこの建物は、
西洋の建築技術などもふんだんに取り入れています。
木材を随所に使用して、屋根には瓦葺(かわらぶき)を採用するなど、
日本の建築技術とも見事に融合をさせています。


 この建物はフランス人のオーギュスト・バスチャンが設計したもので、
鉄枠のガラス窓や、観音開きのドアの蝶番(ちょうつがい)は
フランスで仕上げたものを持ち込んだといわれています。


 1万5千坪を超える敷地には、東と西に繭(まゆ)倉庫があり、
繰糸場(そうしじょう)を取り囲むように、
事務所、外国人宿舎などの主要な建物がコの字の形に並んでいます。


 富岡製糸場は、明治政府が日本の近代化を推進するために、
全国に先駆けて、群馬県に設置をした官営の模範器械製糸場です。
開国直後の日本にとって、綿(生糸)の輸出は
大きな利益が期待される産業のひとつです。
しかし、繭から生糸をつくりだしていた当時の製糸方法は、
粗雑な器具や手作業に頼っていたために、たいへんに非効率的なものといえます。
そのために、フランスやイタリアの器械製製品に比べても、
品質面では、大きく劣ると評されていました。



 明治政府は、こうした事態を打破するために、
優れた製糸技術を持つフランスやイタリアなどを手本にしました。
ヨーロッパの国々と同様の、大規模な器械を導入した近代的な工場を設置して、
品質の向上と、生産量の拡大をめざしました。

 こうした経緯の中で、1870年(明治3年)、明治政府は
フランス人技師ポール・ブリューナの指導のもとにの、
富岡製糸場の建設に着手をします。

 当時の富岡付近では、養蚕(ようさん)がとりわけ盛んで、
生糸の原料である繭が大量に確保することができました。
また、工場建設に必要な広い土地もあります。
製糸に必要な水を既存の用水から利用できることや、燃料の石炭が、
近くの高崎で採れることなどから、この富岡が建設地に決まったといわれています。


 国によって建設がはじまった製糸工場は、
フランスから輸入した繰糸器や蒸気機関などが導入され、明治5年に完成しました。
大規模な建造物が並ぶ工場の中でも、繭を生糸にする繰糸場は、
長さが140.4メートル、幅12.3メートルもあり、当時での世界最大規模を誇っています。
この工場では、生糸の品質改善と生産量の増加ることと供に、
技術指導者を育成するという役割も担っていました。


 東側から入ると、そこ正面が入り口にあたります。
来訪者たちを出迎えるかのように、アーチが1つ架かっています。

 琴をはじめ、多くの者が生れまて初めて見る光景です。
赤い煉瓦れんが造りの建物に、目を見張りながら案内の者に誘導されて
全員が役所前へと通されました。


 日本側を代表する形で、
場長の尾高、副長の佐伯木や加藤と言った幹部をはじめ、
その他の役人たちが、テーブルに一様に顔をそろえて出迎えてくれました。
簡単なあいさつと、激励の言葉などがそれぞれに済むと、入れ替わりに宿舎となる、
工女奇宿舎の女性取締役が登場をします。





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舞うが如く 第七章 (3)民子の決意

2013-02-16 09:55:51 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(3)民子の決意





 父が申すには、

 「さてこの度。お国の為に、
 その方を、富岡御製糸場へ遣わすについては、能よく身を慎み、
 国の名家の名を落さぬように、心を用うるよう心がけよ。
 入場後は、諸事心を尽して習い、他日この地に製糸場が出来たおりには、
 差し支えなどの無きように、良く仕事を覚えて候う。
 かりそめにも、業を怠るようのことなすまじく、
 一心にはげみまするよう 気を付くべく」

 と厳しく申し渡されました。
次には母が、このようにも申します。



 「この度お前を遠方へ手放して遣わすからには、
 常々の教えを能く守らねばならぬ。
 また男子方も沢山に居られるだろうから、
 万一身を持ちくずすようなことがあっては、第一御先祖様へ
 対して申訳がない。
 また、父上や私の名を汚してはなりませぬ」


 と申しましたから、
私は毅然として、このように返答をいたしました。



 「母上様、決して御心配下さいますな。
 たとい男千人の中へ私一人入れられましても、
 手込めに 逢えばいざしらず、
 心さえ、たしかに持ち居りますれば、
 身を汚し御両親のお顔にさわるようなことは
 決して致しませぬ」

 と申しましたら、母が、


 「その一言でまことに安心した。
 必ず忘れぬように」 とも、重ねて申されました。



 一行の人々の両親も、皆このように申されたであろうと存じます。
と、長々と最初に口をひらいたのは、前橋藩の元家老の長女娘で、
民子となのる、歳年長参加の娘です。


 23歳と言いますから、琴とは10歳は違うことになります。

 また最年少となるのは、沼田城下から参加した咲という少女で、
真田の末裔にあたるという下級武家の一人娘です。
上州の沼田と、信州の真田家との関わりは深く、
幸村の父の代より、3代にわたって統治をされた歴史が残っています。
沼田より吾妻の山中を貫いて、信州・真田へと至る山間の一本道は、
いまだに「真田道」と呼ばれており、六文銭の面影が、
いまでも色濃く漂っています。



明治5年(1872)2月に、
製糸機械の手配を終えたブリュナが、フランス人技師3名と
女教師4名を引き連れて、開業を待つ富岡製糸場へと戻ってきました。
これを受けて、政府は開業へ向けての工女募集を議決します。
各府県に対して一斉に募集勧告を布達します。


 しかし5月に至っても、工女募集に対する応募はまったくありません。
政府は、あらためて各府県に対して諭告書を発布しました。
7月にはいると、富岡製糸場ではすべての工事が完了して、
開業に向けたその準備などがすべて整います。

 富岡製糸場の初代場長となった尾高は、政府が5月に発布した諭告文に基づき、
娘の勇(ゆう)を差し出すことを決意します。
これにより、武州近隣の娘達が行動を共にする気運が生まれます。
こうして武州(埼玉県)秩父よりの娘たちの一団が、
富岡製糸場での入場の第一号になりました。

 9月15日、工女募集に対する応募が少なすぎるために、
政府は東北各県に対して、さらに「繰糸伝習工女雇入心得」を通達します。
15歳から30歳までの女子、人員10人~15人までを、来る11月29日までに
差し出すようにというものです。

 これにより、各県でもしぶしぶながらも官吏や各藩士が、
自分の娘をさし出すことに応じはじめます。
10月4日、ようやくにして人員が整った富岡製糸場が、
その操業を開始しました。


 安中の宿では、
似たような身の上話が延々と繰り返されています。
明日の朝も、早い出発という段取りが知らされて、
ようやく、全員がそのまま雑魚寝の形で就寝をします。

 翌日の道中は、安中宿より富岡へ抜ける3里余りの山道です。
20名の子女たちは思い思いに群れとなり、
前日よりは元気を取り戻した様子で、不平も言わずに歩きはじめます。
やがて、行く手の桑畑のうねりの先に、
ひときわ高くそびえる、大きな煙突が見えてきました。
一行からは、思わず歓声があがります。


 この当時の富岡は、
城下というにはあまりにも閑静すぎて、町の様子を見てとると、
見渡す限りに桑畑がただただ続いているというばかりです。
閑散としすぎていて、錆びれた景色ばかりが
延々と続くばかりの寒村の佇まいです。

 しかしその真ん中に、忽然と
赤れんが造りの巨大な建物が現れて、高くそびえる煙突は、
工場の屋根群とともに、燦然とその輝やきをはなっています。

 完成してからまだ2年余り。
前橋から派遣された女子20名と琴は、日本で最初に誕生した
大規模な製糸工場、富岡製糸場を初めて目のあたりにします



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舞うが如く 第七章 (2)富岡への路

2013-02-15 12:42:25 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(2)富岡への路




 速水堅曹(はやみ・けんぞう)は、各地から技術伝習にやってきた工女や
工男たちを指導するかたわら、前橋において、大規模な製糸工場を
造るという計画を立ち上げました。
そのために集められたのが、16歳から20歳前半までの、
前橋周辺に住む士族たちの子女たち、20名余りです。

 完成したばかりの富岡製糸場は、
フランス人技師の直接の指導のもとに建築をされたものです。
当時の最新鋭ともいえる生糸器械をそろえた、世界に誇る近代的な製糸工場でした。
ここでは製糸業発展の模範となる工女たちの育成を、その第一目標にかかげています。
そのために、ことさら工女たちを全国から集めることにこだわりました。
生糸の増産と、品質向上の技術を各地へ普及させるために、
より特別な力を入れています。

 この時代の良品の生糸は、外貨獲得ための主力な輸出製品です。
その製法の近代化と大量生産の達成は、国をあげての一大事業になりました。
しかし国を挙げての大事業といいながらも、
この当時、なぜか農村部からの工女の応募は一切進みません。

 窮地に立った政府は苦肉の策として、
あらためて各県の役人たちに対し、強い要請を届けます。
必要となるその頭数を割りふったうえで、期日を定めて富岡製糸場へ、
自らの子女たちを派遣するよう、改めて命令が出されました。


 その結果、県の役人や旧士族、大名家などから、
おおくの子女が富岡製糸場へ送り込まれてることになります。

 この頃の生糸の生産方法は、手仕事による「糸繰り」が主流です。
ほとんどが、農家の厳冬期のおける副業として営まれていました。
器械による製糸技術は、欧米から輸入されたもので、
それらも明治以降になってから、ようやく導入されました。

 関東地方においても、主要な生糸の産地の、
信州や上州、武州などでも、やはり手仕事による「糸繰り」が主流です。
「女工哀史」や「野麦峠」などで紹介されたように、集団化され工場が作られましたが、
その実態は、人力に依存した手仕事による手加工の世界でした。
おおくの年端もいかない少女たちが、朝から晩まで熱湯で煮た繭から
糸を引き出して生糸を生産していました。



 現在の群馬県の県都である前橋市から、
製糸場が造られた富岡市までは、直線で歩くと30キロ余りです。
当時の交通手段と言えば、まだ人力車や、馬、籠といった類で、
ほとんどは、徒歩です。

 集められた志願の子女たちの顔触れは実に多彩です。
前橋から隔たった地域からの参加も多くいて、遠くは渋川や沼田をはじめ、
勢多郡一帯から集まってきました。
前橋藩主の家老の娘から、小藩の下級武士の長女娘まで、
いずれもが士族の子女たちばかりが集いました。

 人集めに苦労した富岡製糸場の理由の一つに、
「異人に生き血を呑まれる」という、悪評の流布が有りました。
赤ワインを飲むフランス人たちの生態を称して、
異人を鬼に例え、若い娘たちの生き血を飲んでいると流布されたために、
婦女子たちをおおいなる不安に陥れていたのです。
おおくの士族の娘たちも「お国のため」という大義名分のもと、
なみなみならぬ一大決意をしての志願です。

 子女たちは、前日に前橋へ集合し、ここで一泊をしたうえで、
早朝より、富岡をめざして歩き始めることになりました。


 ところが10里余りの道のりは、
旅慣れていない士族の子女たちの足では遠すぎました。
最初は遠足の様に元気に歩き始めたものの、数里も行かないうちに
足取りは重くなり、口数すら半減するあり様に変わってしまいました。
やむなく道中取締役の一存で、予定に反して道中のちょうど半ばあたり、
安中で宿泊することに決まりました。

 前橋を出発した道中は
ひたすら榛名山を右に見て、迂回しながら西へ進みます。
中山道と合流をしてからは、少しだけ碓氷峠方面に向かって歩いていくと、
ほどなく安中宿へと到着をします。

 途中で足を痛めた子女の二人は、
琴の判断で、やむなく馬の背中へ乗せることになりました。
初めての馬への騎乗に、この二人も最初はたいへんに大喜びをします。

 当時の道中馬は、炬燵櫓(こたつやぐら)を鞍にくくりつけて
二人が座れるように装着をされていました。
しかし馬が歩くたびに、炬燵も激しく上下に揺れ動きます。
最初は、足が痛いと泣いていた子女たちが、
今度は、「怖い、恐い」と悲鳴をあげてしまいます。
付き添って歩く琴もこのあり様に、これには思わず
苦笑をもらします。


 そんな子女たちも、
宿屋に着くなり、ケロリと生き返ってしまいました。
お湯に浸かり、夕食を済ませると、早くも20人が車座となりました。
今朝別れてきたばかりの両親たちとの、
門出の会話などが、早くも賑やかに始まりました。





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舞うが如く 第七章 (1)「絹」の故郷

2013-02-14 10:48:27 | 現代小説
舞うが如く 第七章
(1)「絹」の故郷




日本に養蚕(ようさん)技術が伝わってきたのは、大変に古く
弥生時代の中頃からと言われています。
上州(群馬県)では、古くから養蚕が行われていたと推定されていますが
記録上で確認できるのは、奈良時代からのことです。


 江戸時代に入ると、生活が豊かになり
国内産の生糸の需要がたいへんに高まります。
それにつられて、農民たちの養蚕への関心も大きくなります。
絹を織る桐生市や、銘仙織りで知られる伊勢崎市なども、
この江戸時代において大きな発展を遂げました。

 この時代には、「蚕書」と呼ばれる
養蚕の指導書が盛んに作らています。
それらの多くは翻訳をされ、海外へも発行されていきました。
これはおそらく、日本農業の技術書として
最初に、外国語に翻訳されたものだと思われます。

 幕末から明治にかけて、大きな課題となっていたのが、
蚕の病気対策と飼育方法の改善でした。
日本政府が最初に始めた蚕の研究は、蚕病防除のための研究でした。

 群馬県内では、
明治2年に永井紺周郎が「いぶし飼い」を考案しています。
さらに明治5年になると、田島弥平が「清涼育」を発表して、
蚕の飼育のためには、まず風通しを良くすることが大切であると教えます。

これらの飼育法の長所を取り入れた「清温育」が
県内・高山村に住む高山長王郎によって、明治16年に完成をします。
県の内外で養蚕を営む農家では、こうした飼育法を取り入れて、
蚕の飼育環境に適した構造の蚕室兼用の住宅が
建てられるようになりました。

前橋藩士の速水堅曹は、
日本で初めてイタリア式の製糸器械を導入し、
スイス人のミュラーを招いて、明治3年に前橋市に、藩営の製糸所を設立した人物です。
廃藩置県によって、2年余りで閉鎖となってしまいますが、この製糸所は、
日本で最初の洋式の機械製糸所であり、製糸業近代化の草分けになりました。

 こうした機運と背景の中、
明治5年に上州・富岡に、外国人の指導のもとに
近代的な生糸機械を揃えた、大規模な官制の生糸工場が完成をします。
※今日、世界遺産入りをめざしている「富岡製糸場」です。


 琴と良之助一家が、
郷里の深山村へと戻ってきたのは、年も明けた2月半ばのことです。
浪士組をめざして上京を果たしてから、足かけ12年目のことで、
良之助は35歳、琴も33歳になろうとしている春先のことです。

 
 下男の茂助がことのほか喜びました。

 早速に、道場が整備をされました。
法神流が久々に、発祥の地に復活するという噂が広まると、
たちまちにして赤城の各地から、かつての門弟たちが集まってきます。
主に前橋方面を中心に、出稽古を受け持っていた高弟の一人が、
琴に、生糸の仕事を持ちこんできます。


 深山流に入門をした者の一人で、
明治3年に深沢雄象とともに、藩営の前橋製糸所を設立させた、
速水堅曹(はやみ・けんぞう)、の口ききです。
地元の子女たちを富岡製糸場へ研修に出すために、
そのまとめ役として、是非にと言う要請でした。

 速水は、明治期における
洋式の製糸技術における指導者のひとりです。
武蔵国・入間郡川越町(埼玉県・川越市)の川越藩士の家に生まれ、
藩主の移封により、前橋へと移住をしました。
前橋製糸所設立の頃には、しばしば自宅にも帰らずに
スイス人技師のミューラーから直接の指導を受けます。
ヨーロッパの製糸技術を吸収せんとするあまり、
泊まり込みを続けたというほどの、熱い気概の持ち主です。

 日本の器械製糸の発展に
生命を賭けようとする熱い気概の持ち主が、
琴を、しきりに口説きます。


「これからの時代、生糸は日本を変えるでしょう。
 また日本の未来を担うとも言える、
 生糸の工女たちを、模範的な指導者として、
 大量に育成しなければなりません。
 剣の道を極めたうえに、数々の窮地も切り抜けてきた、
 琴どのの気概こそ、これからの乙女たちに受け継いでもらいたい、
 日本女性の真髄です。
 しかしまだまだ、生糸の道も前途は険しいものとなりましょう。
 琴どのにはわたくしどもとも同じく、生糸の道を歩く、
 先人のひとりになっていただきたいと思います。」






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