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第539回 タモリがタモリになるまで

2023-09-01 | エッセイ
 若い頃、最も「笑」激を受けた芸人といえば、ビートたけしとタモリの二人にとどめを刺します。アナーキーで過激、破天荒な芸風と、他人に頼らず自らの独創性だけで勝負するスゴさに呆れながらも笑い転げていました。
 以前、「さんま」も含めた3人の芸を記事にしました(文末にリンクを貼っています)。タモリについては、以前から、もう少し掘り下げて書いてみたいと思っていたところ、格好の本に出会いました。「タモリ学」(戸部田誠 イースト・プレス)です。なにしろ「学」ですので、様々なネタ、本人・関係者の談話、文章などを通じて、彼の人間性、生き方までをも見事に描き出しています。その中から、本格的デビュー前のあまり知られていないエピソードを中心にご紹介することにしました。本書から借用したイラストです。最後までお付き合いください。

 タモリがまだ会社勤めをしていた72年に、博多で山下洋輔と渡辺貞夫のジャズコンサートが行われました。公演後、タモリは渡辺貞夫のマネージャーをしている学生時代からの友人と、公演メンバーの宿泊先ホテルの一室で飲んでいたといいます。
 午前2時頃に帰宅すべく廊下を歩いていると、ある部屋からどんちゃん騒ぎと笑い声が聞こえてきました。鍵がかかってなかったので、タモリが中の様子をうかがうと、そこは山下洋輔バンドの部屋で、サックス奏者の中村誠一が、でたらめの歌舞伎を演じたりの大騒ぎ。タモリはメンバーに断りもせず合流し、朝まで騒ぎは続きました。その時の様子を、山下が「ピアノ弾きよじれ旅」で振り返っています。ちょっと長めですが、「タモリ学」(以下、「本書」)から引用します。

<(中村が)唄い踊っていると、部屋のドアが開いて知らない男が、中腰で踊りながら入って来た。鮮やかな手つきだった。時々、ヨォーなどと言いながら中村の側までやって来た。それから妙な手つきで、中村の頭から籐椅子をとってしまい、自分がかぶって踊り続けた。
 我に帰った中村が、踊りをやめ、すごい勢いでまくしたてた。少しは自信のあるデタラメ朝鮮語でだ。すると驚いたことに、その男はその3倍の勢いで同じ言葉を繰り返した。この繰り返しにびっくりした中村はそれならと中国語に切り替えた。
 男は5倍の早さでついてきた。これはいかんとドイツ語に逃げた。ますます男は流暢になった。イタリア、フランス、イギリス、アメリカと走り回るうちに男の優位は決定的になってきた。最後に男の顔が急にアフリカの土人になってスワヒリ語を喋り出した時は、おれはたまらずベッドから転がり落ちた。すでにそれまでに、笑いがとまらず 悶絶寸前だったのだ。
 中村はいさぎよく敗北を認め、ところであなたは誰ですかと訊いた。「森田です」とそいつは答え、これがおれにとってタモリの最初の出現だったというわけだ>スゴい状況を、スゴい文章で活写してるのに参りました。

 さて、「俺の人生の扉、ドアはあのホテルのドアだった。あれを開けると開けないじゃ、人生は変わってた」とのタモリの言葉が本書で引用されています。まさに運命の扉を開けた瞬間でした。
 「森田」のことがどうしても忘れられない山下らがツテを頼って探し出し、タモリの上京が実現したのは、76年6月のことです。上京してすぐの仲間内の集まりで披露した芸が、「「中国製のターザン映画」「宇宙飛行士になった大河内伝次郎が、宇宙船の中で空気漏れに苦しんでいるのを韓国語で」「日本製のウィスキーを、これは悪しき飲み物であると説明しながら飲み始めた中国人が、やがてこんなすばらしい飲み物はないと言い始める」など」(本書から)だったとあります。さぞ大受けだったことでしょう。

 さて、最初の頃は、新宿のバーで常連相手に芸を披露する程度の活動でしたが、そこで漫画家の赤塚不二夫と、これまた「運命的に」出会います。九州に帰してはならないと信じた赤塚は、彼を高級自宅マンションに同居させるのです。酒は飲み放題、服は着放題、ベンツも乗り放題、おまけに小遣いまでもらえるという何不自由ない生活が9ヶ月続きました。
 ここにはとても書けないようなアブない芸の開発も含めて切磋琢磨する二人。師匠、弟子という言葉ほど二人に似合わないものはないでしょう。でも、この時期に、二人はお互いの才能を認め合い、堅い絆で結ばれました。それを物語るエピソードを最後にご紹介します。

 08年8月に赤塚が亡くなりました。冠婚葬祭を嫌うタモリが、異例ながら「森田一義」として、弔辞を読むことになりました。8分ほどにもなる堂々たる読み上げでしたが、手にしていた紙には何も書かれていないのではないか、との噂が当時からささやかれていました。
 後に本人もそれを認めています。いかにも彼らしく、大恩人の遺影を前にして、まさに勧進帳並みのパフォーマンス、アドリブ芸を披露し、恩に報いたわけです。
 「赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品のひとつです」(本書から)との弔辞の締めが心に沁みます。
 現在は、もっぱら「ブラタモリ」で余生を送っている感があります。今まで私たちを散々楽しませてくれたのですから、それで「いいとも」と言いたいところですが・・・・「いいかも」にしておきます。なお、冒頭でご紹介した記事へのリンクは<第343回 笑いも世につれーさんま、たけし、タモリ論>です。合わせてご覧いただければ幸いです。それでは次回をお楽しみに。