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第536回 米原万里さんの通訳裏話

2023-08-11 | エッセイ
 米原万里さん(1950-2006年)は、ロシア語の会議通訳としてキャリアをスタートし、エッセイストとしても活躍されました。言葉についての話題だけでなく、世界の社会、文化、男女間の問題など幅広いテーマで健筆をふるわれ、私も愛読者のひとりです。今回は、彼女の講演集である「米原万里の愛の法則」(集英社新書)から、通訳業に関わるエピソードをお届けします。なお、文末に彼女のエッセイをネタにした過去記事(2回分)へのリンクを貼っています。合わせてご覧いただければ幸いです。

 さて、多数の国が参加する国際会議などでは、同時通訳が常識です。で、私がかねがね知りたいと思っていたのは、いくつもある言葉を、どういう仕組みで捌(さば)いていくのか、ということでした。
 本書には、通称サミットと呼ばれた主要国首脳会議(日本を含む7カ国からスタートして、当時はロシアが加わり8カ国)での同時通訳のシステムが、ひとつの例として載っています(彼女の画像は私が配置しました)。

 英、独、仏、伊、露の5カ国語は、全て「相互に」同時通訳がされます。そして、日本語はというと、通訳ルートは、日ー英の1本だけ。「英語を通じて」他の4カ国語に通訳される仕組みです。「この図式を見ると、日本語はなにか鎖国時代の長崎の出島みたいな感じがしませんか。それぞれの国は、これだけ緻密な、緊密な関係を築いています。日本は常に英語を経由して築いていくということになります。」(同書から)しかも、すべて英語というフィルターを通して行われることになれば、微妙なニュアンスは伝わりにくいことでしょう。う~む、地理的条件などもあるとはいえ、日本語の孤立性をあらためて実感し、言葉の壁の厚さを思い知りました。せめて、英語教育に力を入れていくしかなのでしょうか。

 米原さんが携わった国際的なシンポジウムでの苦労話にも、さもありなん、と膝を打ちたくなるものがありました。彼女自身も通訳として加わった広告業界の国際シンポジウムでのことです。景気の影響もある中、消費をいかに活気づけるかが主なテーマになりました。
 女性は、年齢とか景気とかにあまり左右されずに消費を支えます。消費を底上げするには、「50代以上の男性」がモノを買うよう仕向ける必要がある、と電通の営業マンは考えました、そこで彼が目をつけたのが、当時話題になっていた渡辺淳一の「失楽園」という小説でした。「失楽園」と聞いて欧米の人が思い浮かべるのは、ジョン・ミルトンの作品ですから、米原さんは、「濡場の多いベストセラー小説「失楽園」」くらいに訳して乗り切りました。で、この営業マンがこの小説に注目したのは、日経新聞というビジネスマン向けのお堅い新聞に連載され、評判を読んだからなんですね。映画化されると劇場は満席状態とのことで、ここに50代以上の男性をつかむ糸口があるのでは、と営業マンは考えました。そして、映画館に足を運んだのです。と、ここまでは、通訳上、特に問題はありません。困ったのは、それからです。営業マンは、50代以上の男性が押しかけているというのはガセネタで、同じ世代の女性が圧倒的に多かった、と語り、「映画館に行ってみたら、シツラクエンじゃなくてトシマエンでした」と言ったのです。」(同)
 東京の有名な遊園地「豊島園(現在は廃園)」と、高齢の女性を指す「年増」にかけたオヤジギャグで、日本人参加者にはどっとウケました。でも、米原さんも含めた日本語通訳にはどう訳していいものやら、戸惑いが広がったといいます。
 日本人だけにわかる言葉遊びでウケを狙い、通訳を困らせるのではなく、世界に通じるジョーク、ユーモアを発揮するのが本当の国際化では?などとガラにもないことを考え
ました。

 さて、国際的な会議、シンポジウムなどでは、あらゆることがテーマになります。通訳の方々も万能ではありませんから、専門的な会議の前には、そこで使われそうな専門用語の仕入れが欠かせません。本書執筆の4~5年前に横浜で「世界エイズ会議」が開かれました。その中に、現役の売春婦の人たちの分科会があり、米原さんも3人の日露同時通訳の1人として加わりました(同時通訳は15分交代ですから、これだけの人数が必要でした)。
 会議が始まる前の通訳ブースは殺気立っています。そこへ主催者が現れてこんなことを言い出しました。この分科会では、「売春婦」「娼婦」「淫売」「商売女」という言葉は使わないでくれというのです。それに代えて「コマーシャル・セックス・ワーカー」を使ってくれという急な注文です。とりあえず、それでスタートし、進行していると、オーストラリアだかカナダかの参加者から、
「ブロッサル(brothel )」という言葉が出ました。これは「淫売宿」を意味します。先ほどの指示がありましたから、通訳一同ハタと困っていると、「ベテランの人が、サッとマイクに向かって、「コマーシャル・セックス・ワーカーの職場」と訳したのです。」(同)
 なるほど~、言葉の知識だけでなく、瞬発力、機転も特に同時通訳では大事な資質、能力なのだ、と教えられました。
 
 いかがでしたか?ご苦労はありながらも、通訳という仕事をどこか楽しんでいる米原さんの気持ちが伝わってくる講演記録でした。なお、冒頭でご紹介した記事へのリンクは、<第461回 ロシア流反アルコール運動の顛末><第483回 裁判所に出頭した猫の話>です。よろしければ是非お立ち寄りください。それでは次回をお楽しみに。