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第485回 脳の不思議話byサックス

2022-08-12 | エッセイ
 脳って、つくづく不思議な器官です。宇宙とともに最後まで残る大きな謎ではないでしょうか。
 オリヴァー・サックス氏(1933-2015年)は、イギリス出身の脳神経科医です。若い頃からアメリカに渡り、脳や心に問題を抱える人たちの診察、治療、研究に携わってきました。その豊富な経験を、数多くのエッセイで発表したことでも知られます。
 不思議なことが好きで、関心もある分野ですので、いくつかの作品に接してきました。中でも、最初に出会った「妻を帽子とまちがえた男」(ハヤカワNF文庫)での症例(ケース)は強く印象に残り、それぞれの患者さんと真摯に向き合う氏の姿勢に心打たれました。その中から2つのエピソードをご紹介することにします。画像は、氏と、今回取り上げた本の表紙です。


★妻を帽子とまちがえた男★
 本のタイトルにもなっている「P」なる人物のケースです。優れた音楽家として、長年、地方の音楽学校の先生を勤めてきました。ところが、後年になって、生徒たちの「顔を、顔として」認識できなくなりました。街にある消火栓やパーキングメーターを人だと思って挨拶したり、ということが日常的に起こるようになったのです。はじめのうちは、本人もまわりもそう深刻に受け止めていませんでした。でも、眼科医の検査で視力に問題はないことがわかり、妻とともに氏のもとを訪ねてきたのです。検査でも目に異常はありません。ところが、靴を脱いでの筋肉検査が終わり、靴を履くように促しても、すぐ足元にある靴がわからないのです、挙句は、検査が終わって、帰ろうとする時、妻の頭を帽子とまちがえて、手を伸ばし、被ろうとしました。モノは見えていますが、それが「何かを認識」できないようなのです。
 数日後、自宅を訪ねての検査で、氏は自分の手袋を見せて、これは何か、と尋ねました。
「表面は切れめなく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになっていますね。先が五つに分かれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。袋と言っていいかどうか自信はないけれど」(同書から)との言葉が返ってきたといいます。見えたモノが「何かを認識」するって、当たり前のように思ってました。でも、それは脳が持つ特別な機能であり、その機能に障害が出たのがP氏のケース、ということになります。
 日常生活でその問題をどう克服しているのでしょう。奥様によれば、その都度、必要なものを、決まった場所に置いておくのだといいます。P氏は、歌を歌いながら、順番にものを取っていく、というのです。奥様のご苦労を思いながらも、奥様の明るい話ぶりを伝える氏の文章に救われました。P氏から忠告を求められた氏の言葉です。
「どこが悪いのかは私にはいえません、だけど、良いところは言えます。それはね、あなたはすばらしい音楽家であるということ、そして、音楽があなたの生命(いのち)だということです」(同)サックス氏の優しさが、心に沁みます。

★天才の双子兄弟★
 1966年、氏は双子の兄弟・ジョンとマイケル(当時26歳)に出会います。自閉症、精神病、重度の精神遅滞などの診断を受けていながら、二人は小さい頃からテレビ、ラジオに出演し、学者の研究対象になるほどの有名人でした。
 それは二人が抜群の記憶力と特別な能力を持つためでした。過去の日を指定されると、その日の天気、出来事などずっ~と遡っても瞬時に言えます。また、例えば、8万年前のイースター(復活祭)が何月何日に当たるかも答えられるのです。でも、二人の一般的な知能は決して高くありません。知能指数は60程度で、簡単な足し算、引き算も正確にできません。過去のカレンダーを正確に把握するのは、本来、なんらかのアルゴリズム(算出理論)による計算的作業のはずです。二人にそれは無理ですから、彼らの頭の中で、視覚化されたカレンダーが映し出されるという「視覚的作業」(同)が行われているのだろう、というのが氏の推測です。
 ある日、氏が二人を観察していると、ジョンがある6桁の数を言いました。それをニコニコと味わうようにしていたマイケルが、別の6桁の数字を言い、二人はうなずき合っていたというのです。自宅に戻った氏が、数表で調べてみると、2つとも素数(1とそれ自身以外で割ることのできない整数。無数に存在します)だとわかりました。今でこそコンピュータで判定できますが、それでも大きな数が素数かどうかの判定は、とてつもない作業量になります。
 そのことを確かめるべく、後日、氏は二人に8桁の素数をぶつけてみました。最初はとまどった様子でしたが、30秒ほど経って、二人がニッコリうなずき合いました。素数だとわかったのです。
 それからは、氏も含めて三人での素数ゲームが始まりました。9桁、12桁と進んで、1時間後にはなんと、20桁まで進んでしまったのです。現代のコンピュータでも手に負えるかどうかのレベルです。二人には素数が「見える」としか思えない不思議な能力(?)です。
 さて、二人のその後です。氏と出会った10年後に、社会性を身につけるため、別々の施設に送られました。そこである程度の社会性は身についたようですが、数字の対話を禁じられ、「彼らは、数についてのあの不思議な能力を失ってしまったように思われる。そして、それとともに、生の喜びや生きているという感覚もなくなってしまったようにみえる。」(同)
 サックス氏のやるせない思いを共有しつつ、脳、心の病と向き合うことの難しさを痛感しました。

 いかがでしたか?もう少しネタがありますので、いずれ続編をお届けする予定です。それでは次回をお楽しみに。