↑記事のタイトルに日付と天気を記すのは
夏休みの日記のようで軽いノスタルジーに浸れる
ただ僕の場合
夏休みの日記は嫌いだったので
心地良いノスタルジーではないようだ
その理由を今思い返せば
先生に自分の行動を報告する報告書
のように感じてしまっていたようだ
監視されているようで自由にハメを外した遊びが出来ない
というような窮屈さを感じていたように思う
これは初孫長男だった自分が
大人の目を気にし過ぎる習性を
身につけてしまっていたからなのだろう
その鬱屈の裏返しだったのか
僕は大人の目が届かない遊びに興奮するたちだったから
その欲求を満たすほどハメを外した遊びをしたことが
2学期が始まって日記を提出した時に記されてあったら
きっと先生から叱られると思っていたようだ
今思えば担任教師は
そんなことで叱りもしなかっただろう
だが僕にとっては日記の宿題さえ無ければ
もっと相当な悪さをして夏休みを満喫していたのでは
と思い返されるのだ
長男と言えば
うちの一郎の今日の姿がこれ
これはもう人間なら中学1年生くらいじゃないかしら
共稼ぎをしている親の代わりに食事を作り
まだ小さな弟たちに食べさせたり
末っ子のオムツを替えたりしている頃ではないか
(しつこいが...)
大人からはお兄ちゃんだから我慢しなさい
お姉ちゃんだから偉いね、と言われることが多い長男長女は
良い子で居なければならない強迫観念に無意識のうちに縛られ
その息苦しさに周りの大人が気付いてやれないと
ガス抜き出来ぬまま
運が悪ければ積み木崩し的に金属バットを振り回すか
精神バランスを崩すことになる
周りで辛そうな長男長女を見かけたら
我慢しなくて良いことをそっと諭してあげたいものだ
2番目3番目4番目...にはまた違った葛藤が在るのでしょうが
理屈では想像するようにしてみてるが
実感としてはやはりよくわからないみたいだ
でも
たかだか最初に生まれたか2番目は3番目かそれ以降かで
その人の一生を左右する価値観は相当違って来る
その者たちが互いに和を望むなら
その食い違いを越えなければならない
が
そう簡単には越えられない
そういう視点で身の周りを見渡してみると
折り合いが取れない関係は
生まれが1番目2番目3番目…が
ずいぶん影響しているように感じるのだ
自分が長男長女で
自分の親が次男次女である場合
大抵親はうるさい
自分が次男次女で
親が長男長女ならば
自分の親は情の薄い人間だと感じるだろう
そんなことから簡単に
人は欠落を負い精神のバランスを崩す
長男長女、次男次女、3番目以降
のどれが良くてどれが悪いという話ではなく
ただ
何番目に生まれたか
その特性を意識するだけで
人間関係の不具合の相当な部分を調整出来る
と
僕は感じているのです
。。。
昨日はまだ土に半分埋まっていた末っ子13郎
の今日の姿
余談だがアラビア数字で
「13ろう」と文字を打って変換したら
「13浪」となった
司法試験でもあるまいしずいぶん粘ったね
と軽くツボったのでありました
。。。
頭に土を乗せたまま発芽したため
成長が少々出遅れた四郎もしっかりした本葉を広げた
でも
後から発芽した五郎六郎の方が大きい
何かの要因で頭を抑え付けられた人間の子供が
生きる力を弱めてしまっている姿のように観えてしまって
この四郎には僕は特別な感情移入をしているようだ
何かの要因、て
それは家族の中に在るかもしれないし
家の外に在るかもしれない
要因がなんであっても
命の拡散が滞ることは辛く悲しく寂しいことだ
過保護だったかと一瞬頭を過ったが
この子の頭の上の土を取り除いたことは
やはり良かったように思う
。。。
そして今日の新生児たち
14郎
15郎
16郎
俯瞰図はこんな何でもない光景だ
こんなのが道ばたに在っても
気付かず踏んでしまうだろう
でも目線を変えると
これを「小人の森」と僕は呼んでいる
地面近くの視点で写真を撮るのは
実はDella師匠の得意技で
僕は師匠の写真によって
最近、子供のとき以来久しぶりに
この視点を思い出させてもらった
子供の頃
服が汚れるのも気にせず草っ原に寝転んだ
シロツメクサやハコベなんかが
顔に触れてくすぐったかった
土と草との咽せるような匂いに包まれ
アリンコが腕を上って来た
ナナホシテントウ虫なんかを見つけると
ラッキーに思った
ナナホシテントウダマシだと
がっかりした
乾燥してしまったイヌのウンコなんかが在っても
(僕の場合は)平気で触れた
。。。
仕事の締め切りに追われていない時は
自堕落にゆっくり起きて
風の匂いを感じながら
このささやかな植物たちと会話し
ノスタルジーの入り口を見付けては
過去の記憶と遊ぶ
そしてその行為の中から
置き忘れて来た想いの欠片を拾い集め
今の自分を調整して行くのだ