やがて梶原景時、土肥実平、そしてその他御家人や雑色たちから色々な知らせが鎌倉に届く。その報告は有益なものそうではないものであったが、鎌倉殿として判断を下す材料は徐々に集まりつつあった。
そのような中最初の戦勝の報告を聞きながら思い浮かんだ頼朝の不安のほとんどは見事に的中してしまったことを知る。
第一の不安の的中━━この勝利は鎌倉勢の単独の勝利ではなかったということが判明した。
鎌倉勢の活躍は見事であったが、それと同時に多田行綱やその他畿内の武士と安田義定も相当の活躍を見せたらしい。
その報を聞くとやはり、先日返した都からの使者へのあの返答が悔やまれる。
第二の不安━━兵糧と軍駐在の問題も深刻だった。
これは福原にいる梶原景時から逐次もたらされる報告からも窺える。
軍の人々は飢えている。そしてそれが近隣への略奪行為を発生せしめているということも。
兵糧等の問題に関しては頼朝は即座にことに対応した。
まず、一部の者を除いて東国から上洛した鎌倉殿の御家人達を順次帰還させることとする。
しかし、兵の撤退は平家の都奪還の危険性がある。
そうさせないための方策を頼朝は取ろうとする。
寿永三年二月二十五日、頼朝の意向のせた文書が院近臣に向けて発行された。
四か条からなるその文書は次のような内容である。
「一、朝廷が徳政を行なうこと。人々を故郷に帰らせ、秋頃に国守を任ずること。
一、平家追討の事。
一、神国であるこの国を守る神社に保護を加えること
一、寺の僧侶の武力行使の禁止」
特に第二条の平家追討について次のように記されている。
「畿内、西国の武士たちは源義経の命令に従って平家討伐をすること。
その後の恩賞については頼朝がまとめて申請いたします。」
さらにそれから数日後、鎌倉から四国と九州の水軍を有する武士達に文が送られる。
彼等は水軍を有する鎌倉御家人たちと親交がある。
「鎌倉殿の御家人になれば所領を安堵する。鎌倉殿に従い平家を討つように。」
文にはそのように記されていた。
それから後の平家に対する主たる軍事力は坂東に住する御家人ではなく、畿内西国に勢力を張る武士達を頼朝の傘下に収めて彼等に当たらせようとした。
そしてその畿内西国の武士達を統括するよう頼朝が期待したのが、頼朝の末弟にして頼朝と父子の契りを交わしている源義経その人であった。
さらに、平家追討を一つのきっかけにして義経による西国武士の統括を院に認めさせ、これを契機に西国の武士達も頼朝の支配下におこうという狙いもある。
このように、平家に対する備えと坂東武士たちの窮乏に策を講じた源頼朝。
しかし、この件を上手く治めようとしていた頼朝の足元を大きく揺るがす知らせが都から舞い込んできた。第三の不安がまさに的中したのである。
頼朝は改めて二月上旬に院の使者に返した「返答」を大きく後悔することになった。
そして、自らの最大の敵になろうとする男が間もなく東国に帰ることを知る。
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そのような中最初の戦勝の報告を聞きながら思い浮かんだ頼朝の不安のほとんどは見事に的中してしまったことを知る。
第一の不安の的中━━この勝利は鎌倉勢の単独の勝利ではなかったということが判明した。
鎌倉勢の活躍は見事であったが、それと同時に多田行綱やその他畿内の武士と安田義定も相当の活躍を見せたらしい。
その報を聞くとやはり、先日返した都からの使者へのあの返答が悔やまれる。
第二の不安━━兵糧と軍駐在の問題も深刻だった。
これは福原にいる梶原景時から逐次もたらされる報告からも窺える。
軍の人々は飢えている。そしてそれが近隣への略奪行為を発生せしめているということも。
兵糧等の問題に関しては頼朝は即座にことに対応した。
まず、一部の者を除いて東国から上洛した鎌倉殿の御家人達を順次帰還させることとする。
しかし、兵の撤退は平家の都奪還の危険性がある。
そうさせないための方策を頼朝は取ろうとする。
寿永三年二月二十五日、頼朝の意向のせた文書が院近臣に向けて発行された。
四か条からなるその文書は次のような内容である。
「一、朝廷が徳政を行なうこと。人々を故郷に帰らせ、秋頃に国守を任ずること。
一、平家追討の事。
一、神国であるこの国を守る神社に保護を加えること
一、寺の僧侶の武力行使の禁止」
特に第二条の平家追討について次のように記されている。
「畿内、西国の武士たちは源義経の命令に従って平家討伐をすること。
その後の恩賞については頼朝がまとめて申請いたします。」
さらにそれから数日後、鎌倉から四国と九州の水軍を有する武士達に文が送られる。
彼等は水軍を有する鎌倉御家人たちと親交がある。
「鎌倉殿の御家人になれば所領を安堵する。鎌倉殿に従い平家を討つように。」
文にはそのように記されていた。
それから後の平家に対する主たる軍事力は坂東に住する御家人ではなく、畿内西国に勢力を張る武士達を頼朝の傘下に収めて彼等に当たらせようとした。
そしてその畿内西国の武士達を統括するよう頼朝が期待したのが、頼朝の末弟にして頼朝と父子の契りを交わしている源義経その人であった。
さらに、平家追討を一つのきっかけにして義経による西国武士の統括を院に認めさせ、これを契機に西国の武士達も頼朝の支配下におこうという狙いもある。
このように、平家に対する備えと坂東武士たちの窮乏に策を講じた源頼朝。
しかし、この件を上手く治めようとしていた頼朝の足元を大きく揺るがす知らせが都から舞い込んできた。第三の不安がまさに的中したのである。
頼朝は改めて二月上旬に院の使者に返した「返答」を大きく後悔することになった。
そして、自らの最大の敵になろうとする男が間もなく東国に帰ることを知る。
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