時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百八十六)

2010-06-11 04:59:17 | 蒲殿春秋
その敵の名は一条忠頼。甲斐源氏総帥の武田信義の嫡子である。
一条忠頼は木曽義仲征伐の為鎌倉勢と共に上洛していた。そして、福原の戦い(一の谷の戦い)の際は「都の警護」と称して福原へは出陣しなかった。
その忠頼が福原の戦いの直後「武蔵守」に任官したのである。

頼朝にとっては想定外の人事であり、頼朝ににとって到底許容しがたいものである。
しかし、その任官を頼朝は朝廷に抗議することはできない。
なぜならば、義仲征伐の直後都から訪れた使者にある返答をしてしまったからなのである。

使者は院からのお言葉を伝えた後、頼朝に次のように尋ねた。
「今回木曽征伐に加わった武士達への恩賞はいかがなさるか?」

それに対して頼朝は次のように返答した。
「それは、院の思し召しに従います。今回の恩賞に対しては私が口を挟むことではありませんので。」と。

その返答を携えた院の使者は二月上旬に都に戻った。

その時は、頼朝は福原の戦いの勝利を知らなかった。
平家に対して朝廷がどのような態度をとるか分からず、平家の力は侮りがたいものと認識していた。
それゆえに、鎌倉勢だけでは平家に当たることは難しいと考えていた。畿内の武士たちの協力なしには和平にしても交戦にしても平家と対峙することは難しいと考えていた。
それゆえ、木曽征伐に手を貸してくれた畿内の武士、もしくは反平家の立場にある畿内西国の武士達を敵に回したくなかった。
彼等の恩賞権にまで頼朝は口出し出来ないと考えていた。また、下手に強気の発言をして朝廷の人々を刺激したくなかった。

その結果、木曽征伐に関する恩賞は朝廷に一任しますと返答するしかなかったのである。

しかしその返答が今回の一条忠頼の武蔵守任官という形を産んでしまった。

二月にあの返答をした以上この任官に関して抗議できない。あの返答は畿内の武士達を想定したものであって一条忠頼の任官は頭にもなかったが、確かに一条忠頼も木曽討伐に加わっていたことは事実である。その忠頼が自らの功績を奏上して任官しても文句のつけようが無い。一条忠頼に任官を奏上する野心に気が付かず、それなりの奏上する伝があったことに失念していたのは頼朝自身の失点だったと、彼は反省する。それにしてもその奏上する伝はどこに有していたのかその時頼朝はわからなかった。

また一条忠頼は頼朝にとっては友軍であって配下ではない。
頼朝が家人ではない忠頼を強く叱責することもできない。

だが、忠頼の武蔵守任官は頼朝にとって大きな危機を生み出すことは容易に予測できる。

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