時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(四百八十五)

2010-06-09 05:43:22 | 蒲殿春秋
やがて梶原景時、土肥実平、そしてその他御家人や雑色たちから色々な知らせが鎌倉に届く。その報告は有益なものそうではないものであったが、鎌倉殿として判断を下す材料は徐々に集まりつつあった。

そのような中最初の戦勝の報告を聞きながら思い浮かんだ頼朝の不安のほとんどは見事に的中してしまったことを知る。

第一の不安の的中━━この勝利は鎌倉勢の単独の勝利ではなかったということが判明した。
鎌倉勢の活躍は見事であったが、それと同時に多田行綱やその他畿内の武士と安田義定も相当の活躍を見せたらしい。
その報を聞くとやはり、先日返した都からの使者へのあの返答が悔やまれる。

第二の不安━━兵糧と軍駐在の問題も深刻だった。
これは福原にいる梶原景時から逐次もたらされる報告からも窺える。
軍の人々は飢えている。そしてそれが近隣への略奪行為を発生せしめているということも。

兵糧等の問題に関しては頼朝は即座にことに対応した。
まず、一部の者を除いて東国から上洛した鎌倉殿の御家人達を順次帰還させることとする。
しかし、兵の撤退は平家の都奪還の危険性がある。
そうさせないための方策を頼朝は取ろうとする。

寿永三年二月二十五日、頼朝の意向のせた文書が院近臣に向けて発行された。
四か条からなるその文書は次のような内容である。
「一、朝廷が徳政を行なうこと。人々を故郷に帰らせ、秋頃に国守を任ずること。
 一、平家追討の事。
 一、神国であるこの国を守る神社に保護を加えること
 一、寺の僧侶の武力行使の禁止」
特に第二条の平家追討について次のように記されている。
「畿内、西国の武士たちは源義経の命令に従って平家討伐をすること。
その後の恩賞については頼朝がまとめて申請いたします。」

さらにそれから数日後、鎌倉から四国と九州の水軍を有する武士達に文が送られる。
彼等は水軍を有する鎌倉御家人たちと親交がある。
「鎌倉殿の御家人になれば所領を安堵する。鎌倉殿に従い平家を討つように。」
文にはそのように記されていた。

それから後の平家に対する主たる軍事力は坂東に住する御家人ではなく、畿内西国に勢力を張る武士達を頼朝の傘下に収めて彼等に当たらせようとした。
そしてその畿内西国の武士達を統括するよう頼朝が期待したのが、頼朝の末弟にして頼朝と父子の契りを交わしている源義経その人であった。
さらに、平家追討を一つのきっかけにして義経による西国武士の統括を院に認めさせ、これを契機に西国の武士達も頼朝の支配下におこうという狙いもある。

このように、平家に対する備えと坂東武士たちの窮乏に策を講じた源頼朝。
しかし、この件を上手く治めようとしていた頼朝の足元を大きく揺るがす知らせが都から舞い込んできた。第三の不安がまさに的中したのである。
頼朝は改めて二月上旬に院の使者に返した「返答」を大きく後悔することになった。
そして、自らの最大の敵になろうとする男が間もなく東国に帰ることを知る。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

蒲殿春秋(四百八十四)

2010-06-07 23:13:48 | 蒲殿春秋
鎌倉殿源頼朝の元に福原の戦い(一の谷の戦い)の勝利が伝えられたのは、寿永三年二月十五日のことであった。
福原を陥落させて平家一門の多くが討ち取られたというあまりの見事な大勝利にその報を聞いた一同は喜びに沸いた。と同時に出陣した者達への羨望と嫉妬が渦巻いた。この勝利で手柄を得たものは必ず恩賞がもらえるであろう、と。

一方その報を聞いた頼朝は複雑な表情を浮かべた。
最初に彼が思ったのはどのような勝利であったのか、ということである。
鎌倉勢の手の者がどのくらい活躍したのかということが気になる。
もし、この勝利の多くの部分が甲斐源氏や都の武士達によってもたらされたものならば厄介なことになる。

ついで浮かんだ事は、この後鎌倉の軍勢をどのようにするのかということである。
平家が和平に動くのかどうか、そして和平でも交戦継続でも鎌倉から派遣した軍をどのくらい都近辺に置けばよいのかということである。
都に派遣した兵達の兵糧も尽きる頃だろうし、そうなるとその調達をどのようになせばよいのかというのが問題となる。
坂東は馬や絹などは取れるが食糧はさほど豊かにとれない。その上ここ数年、常陸の佐竹との戦いや野木宮の戦いなど坂東においても戦いが多くあり、数少ない坂東の農地は荒廃している。このような状況下、馬の餌はなんとかなるが食糧を集めて輸送出来る量はたかが知れている。結局食糧は現地調達に頼るしかなくなる。だが、そうなればかつて義仲が行なったことと同じことになり、やがて鎌倉勢に対する反感を産む。兵を養えない以上兵を撤収させるしかないが、むやみやたらに兵を撤退させると今度は平家が力を取り戻し、下手をすると都を再び平家に奪還されかねない。

さらに御家人達に恩賞を誰にどのように与えるべきなのかという最大の問題も待ち構えている。

「勝利しました、大勝利です。」という報告だけでは鎌倉殿としていかような判断をなせばよいのか定めることはできない。

そして、頼朝はこの予想外の勝利を聞き数日前に都から下された使者に対してある返答をしたことを後悔することになる。
あの使者が帰った時点では義仲を滅ぼすことができたが、平家とは和平か交戦かとの方針が鎌倉においては判らない状況だった。
さらに交戦した場合鎌倉勢が勝利できるかどうかも判らなかった。
実はその使者が鎌倉にいた時点では福原の戦いは終わっていたのだが、西国と鎌倉の距離の差が鎌倉への戦勝報告をもたらすのに時間差を生み出してしまったのだ。
その為に、あのような返答をして使者を都に返したしまった。
「あのような返答」が今後どのような事態をもたらすのかと思うと頼朝は不安になる。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ

首渡しの理由の違い

2010-06-03 05:36:21 | 蒲殿春秋解説
いきなり物騒なタイトルで失礼しました。
本文にも書かせていただきましたが一の谷の戦い後、その戦いで討ち取られた平家一門の首が都大路を渡されました。

この事実に関しては「玉葉」「吾妻鏡」「平家物語」ともに同じ内容を記しています。
しかし、それを決行させた範頼、義経の朝廷に対する申入れの内容が史料によって大きく異なります。

「平家物語」
平家一門の首渡しに難色を示す公卿らに対して
『かつて自分達の父義朝が同じ屈辱を味わった。父の無念を晴らすため勅命を承って命がけで戦った。これで自分達の申入れが受け入れられないのならばもう朝敵を討つのや辞める』
と義経が強硬に主張。

「吾妻鏡」
首渡しに難色を示す公卿達。
範頼、義経が私の宿意を果たすために、主張しているのではないかとも公卿達は考える。
しかし、範頼、義経が強硬に首渡しを主張するので結局首渡しが決行されることになる。

「玉葉」
院宣により首渡しは拒否される。
しかし、それをきいた範頼、義経が『義仲の首が渡されたのに、平家の首を渡さないのはおかしい』と主張。再度首渡しを主張する。
しかし、三種の神器を奪還したい公卿達は首渡しには反対。
それでも範頼、義経は強硬に首渡しを主張して首渡しが実行されることになる。

範頼・義経の父の敵討ち性格を強く打ち出している「平家物語」
しかし、実際には『義仲の先例』を出して首渡しを決行させようとした「玉葉」のほうが事実だったのではないかと思われます。

「平治の乱」義朝は首を渡されたと思われますが、このときの義朝の官位は従四位左馬頭。公卿に到達するにはまだまだの立場です。

一方、「一の谷」の時の平家の立場は「先帝の外戚」であり、一門に公卿が何人もいる状態です。
首渡しに公卿達が反対した理由の一つが、「先帝の外戚関係」と「朝廷におけるかつての地位の高さや政務への功績」でした。(この点に関しては「平家物語」「吾妻鏡」「玉葉」とも一致しています。)

そして「玉葉」の記載に従えば、公卿達は『平治の乱』の先例を出して『首渡し』を拒否しています。その『先例』とは乱の首謀者とされる藤原信頼が『公卿の地位にあった』と理由で処刑はされたものの『首渡し』は行なわれなかったという事実です。

つまり、実際には公卿の地位には程遠かった義朝、しかも二十年以上前の事例を引き合いに出してもその論理は朝廷からは相手にされなかっただろうということが推測できるわけなのです。
しかも父が首渡しされたその乱では『首渡しを免除された人物』が存在していたのです。

そのように考えますと『平治の乱の先例』を出した「平家物語」の記載はフィクションであったと考えるほうがよいのではないかと思われます。
実際には全国的に諸勢力の蜂起があって混沌として、単なる『源平の戦い』と言い切れない『治承寿永の乱』を『源平の戦い』に集約しようとし、さらには実際には蜂起した勢力のうちの一つでしかない源頼朝を『源氏方の総大将』とみなす「平家物語」の史観が反映されているような気がします。
(ついでに言えば『平治の乱』も源義朝と平清盛の戦いではなく、後白河院近臣や二条天皇側近等の対立や暗躍が乱の勃発の主原因でしたし、平清盛は元々どの勢力からも中立な立場だったようです。)

さて話は飛びましたが、平家の首渡しを強硬に主張した範頼と義経の論拠はやはり「玉葉」の記載どおり一の谷の戦いの直前に行なわれた義仲への処分があったと見なすほうが正確であったのではないかと思われます。

解説目次へ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

蒲殿春秋(四百八十三)

2010-06-02 05:44:21 | 蒲殿春秋
とりあえず糧食をあまり持たず、領地の少ないものから順次坂東に戻らせたい。
景時はその考えを範頼に進言した。
範頼は同意したが、二人のその考えは鎌倉にいる頼朝の許可を得なければ実現できない。

御家人達を帰還させるか否かを決定する権限は鎌倉殿源頼朝のみが有している。

範頼と梶原景時は鎌倉に使者を送った。兵の引き上げなどの重要懸案を図ってもらう為に。

鎌倉と福原との往復は早馬を使ってもかなりの日数を要する。
頼朝の返事が届くまでの間範頼は暫くの間飢えた将兵の面倒を見なければならない。

当面の策として鎌倉勢の食糧物資の調達については摂津国に限らず畿内各地にその要請が回された。
だが、畿内各地も未だ飢えている。調達を拒否されると鎌倉勢による略奪も行なわれる。
また、畿内各地に勢力を張る武士達も多く鎌倉勢力に与同していたが、その彼等も数年にわたる兵乱で疲弊し、その領地も疲弊している。彼等もまた自領やその近隣所領に物資や食糧の調達を無理やり求めている。が、そのことが都で問題となっている。

その都では、捕虜となった平重衡を通して屋島の平家本軍との間に和平の試みが行なわれている。近く行なわれる後鳥羽天皇の即位の礼までには三種の神器を都に取り戻さなければならないのである。が、その和平交渉の行方は混沌としている。

その都の状況なども随時鎌倉に送られる。

朝廷も鎌倉方の狼藉停止などを求め鎌倉に使者を送る。

この時鎌倉殿源頼朝の出方というものが都や西国の陣にあるものにとって重要なものとなっている。

鎌倉と都や西国の間に多くの使者が往来する。

だが都と鎌倉の間も往復に日数が掛かる。

都と鎌倉との間の距離と時間。
そのことがその時の鎌倉殿頼朝を悩ませる事態を招来させていた。

前回へ 目次へ 次回へ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ