このように、為義が接近した摂関家の忠実ー頼長親子と、義朝が接近した美福門院を頂点とする院近臣勢力の対立は、為義と義朝の政治路線の対立となって父子の相克へと発展していきます。
そして、両者の対立が深まっている1153年時点で義朝は下野守となり、それと同じ頃義賢は上野国に下向します。これには、自らの意に従わなくなって息子義朝に対する為義の対抗策とみることができます。義賢は元々為義の嫡子でしたし、政治路線も父と同じくしていたようです。(しかも、義賢は頼長と男色関係にありました)
そして、義賢は武蔵国の秩父一族の有力者重隆の婿へとおさまります。
先述の通り、重隆は一族内の地位争いや近隣の豪族たちとの紛争を抱えている中での婿取りでした。
一方、重隆の反対勢力は義朝もしくはその息子の義平に接近していました。
坂東の有力豪族の間は一触即発、そしてそれぞれが担ぎ上げる「貴種」とされた軍事貴族たちは、都の勢力争いをしている夫々の陣営に食い込んでいた、
という状況になっていったのです。
このように、都と東国それぞれに火種を抱えた状況がつづきますが、1155年になって都において美福門院側が忠実ー頼長親子を追い詰めるという状況が発生しました。
それは近衛天皇の崩御です。
近衛天皇は皇子を儲けていませんでした。
その結果次の天皇を誰にするかで揉めることになりました。
すったもんだの末、美福門院が猶子としていた皇子守仁王を近い将来皇位につけるという条件で、その父雅仁親王(鳥羽法皇第四皇子)が即位します。後白河天皇です。
これによって、東宮守仁親王の周りに新たな側近団が形勢されます。
その側近集団の中に頼長の姿はありませんでした。
頼長は次期皇位継承者の側に入り込むことができませんでした。
それ以前に政界では孤立しており、治天の君鳥羽法皇からの信任も失われていました。また、東宮の「母」美福門院や院近臣がそれを阻んだということもあったようです。
次期天皇(正確に言うと次々期天皇)が美福門院の思惑が反映された人物となり、その一方で頼長は東宮接近に失敗。
皇位決定戦、そして東宮側近集団形勢は美福門院側の勝利に終わっています。
為義ー義賢を支えていた摂関家を主導する忠実ー頼長親子は近衛天皇が崩御した1155年7月にはかなりの危機的状況に陥っていました。
一方、後白河天皇の即位は義朝にとっては追い風になりました。
義朝の正室の実家熱田大宮司家は以前から後白河天皇やその同母の姉宮前斎院宮(後の上西門院)に仕えていました。その縁で義朝は後白河天皇への接近にも成功します。また、元々皇位とはかけはなれた生活をしていたため自らの私的な近臣や直属的武力をもたなかった後白河天皇のほうも義朝の接近を喜びました。
そして、その頃義朝はもう一人の問題の人物と接近していました。
そのことが、大蔵合戦に活きてきたようですし、義朝、義平にとっては合戦へのゴーサインを出す後押しになったかもしれません。
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そして、両者の対立が深まっている1153年時点で義朝は下野守となり、それと同じ頃義賢は上野国に下向します。これには、自らの意に従わなくなって息子義朝に対する為義の対抗策とみることができます。義賢は元々為義の嫡子でしたし、政治路線も父と同じくしていたようです。(しかも、義賢は頼長と男色関係にありました)
そして、義賢は武蔵国の秩父一族の有力者重隆の婿へとおさまります。
先述の通り、重隆は一族内の地位争いや近隣の豪族たちとの紛争を抱えている中での婿取りでした。
一方、重隆の反対勢力は義朝もしくはその息子の義平に接近していました。
坂東の有力豪族の間は一触即発、そしてそれぞれが担ぎ上げる「貴種」とされた軍事貴族たちは、都の勢力争いをしている夫々の陣営に食い込んでいた、
という状況になっていったのです。
このように、都と東国それぞれに火種を抱えた状況がつづきますが、1155年になって都において美福門院側が忠実ー頼長親子を追い詰めるという状況が発生しました。
それは近衛天皇の崩御です。
近衛天皇は皇子を儲けていませんでした。
その結果次の天皇を誰にするかで揉めることになりました。
すったもんだの末、美福門院が猶子としていた皇子守仁王を近い将来皇位につけるという条件で、その父雅仁親王(鳥羽法皇第四皇子)が即位します。後白河天皇です。
これによって、東宮守仁親王の周りに新たな側近団が形勢されます。
その側近集団の中に頼長の姿はありませんでした。
頼長は次期皇位継承者の側に入り込むことができませんでした。
それ以前に政界では孤立しており、治天の君鳥羽法皇からの信任も失われていました。また、東宮の「母」美福門院や院近臣がそれを阻んだということもあったようです。
次期天皇(正確に言うと次々期天皇)が美福門院の思惑が反映された人物となり、その一方で頼長は東宮接近に失敗。
皇位決定戦、そして東宮側近集団形勢は美福門院側の勝利に終わっています。
為義ー義賢を支えていた摂関家を主導する忠実ー頼長親子は近衛天皇が崩御した1155年7月にはかなりの危機的状況に陥っていました。
一方、後白河天皇の即位は義朝にとっては追い風になりました。
義朝の正室の実家熱田大宮司家は以前から後白河天皇やその同母の姉宮前斎院宮(後の上西門院)に仕えていました。その縁で義朝は後白河天皇への接近にも成功します。また、元々皇位とはかけはなれた生活をしていたため自らの私的な近臣や直属的武力をもたなかった後白河天皇のほうも義朝の接近を喜びました。
そして、その頃義朝はもう一人の問題の人物と接近していました。
そのことが、大蔵合戦に活きてきたようですし、義朝、義平にとっては合戦へのゴーサインを出す後押しになったかもしれません。
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