時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

大蔵合戦について その2

2008-10-03 21:27:38 | 蒲殿春秋解説
当時武蔵国留守所検校職にあって、武蔵国において大きな勢力を振るっていたの秩父重綱でしたが、重綱が属する秩父一族は武蔵国において最大規模の豪族でした。
それだけ大きな武士団となると、自らが住まう武蔵国に留まらず隣国の武士団とも対立することもありました。
まず、すぐ北方の上野国の新田義重と対立関係にあったようです。
また、もう一つ北方の下野国の藤姓足利氏との関係も良いものではなかったようです。

重綱は武蔵国内で畠山重能との同族争い、外部で北方に位置する新田・藤姓足利氏との対立を抱えていました。
ある意味重綱は危機のなかにあったと言えます。



そのように内外に対立を抱えた状況にある東国の武士たちは色々な方策を講じて他より優位に立とうとします。
その方策に一つが、都の軍事貴族の地を引く者を貴種として迎え入れるというものでした。
地方の豪族たちも元々は都から下りその都との人脈によって勢力を拡大してきたとも言われています。
しかし、地方にやってきて代を経るに従って都との繋がりも薄くなります。そこに新しく都とのつながりの濃い人物がやってきて、元からいた豪族たちを従えるという状況にあったようです。

都から下ってきた桓武平氏の子孫で、都とのつながりが薄れてきていた秩父重綱はある人物を貴種として自分の娘婿にします。
その人物は、当時の摂関家において大殿として勢威を振るう藤原忠実に使えていた源為義の子源義賢でした。

当時の為義は中々叙爵(従五位の位階を得ること、そのことによって宮廷社会の扱いも変わる)もされず、国守にもなれないという苦境にありましたが、政界に大きな発言力を有する藤原摂関家とのつながりは侮れないものがありました。
また、当時数々の失態を演じて為義のその座を追われたものの義賢は為義の嫡子であったとも言われています(このことに関しては後ほど書かせて頂きます)。義賢の後為義の嫡子の座についた弟頼賢は義賢と父子の契りを結び親密な関係にあったようです。

こうして、重綱は義賢を婿に迎えることによって、為義ー摂関家というラインに近づいてより優位に立とうとしたのかもしれません。

しかし、重綱と敵対する勢力はもう一つの都に近い貴種それも義賢と同族に当たる人々と接近していたのです。(つづく)

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