時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

大蔵合戦について その5

2008-10-09 05:17:18 | 蒲殿春秋解説
美福門院に義朝が接近したからといって以前の政治状況でしたら、為義と義朝がそのことによって反目することはなかったはずです。

しかし、当時近衛天皇の後宮や皇位を巡って、忠実ー頼長親子と忠実嫡男摂政忠通ー美福門院が対立するようになってきたのです。
それも1140年代に徐々にその対立を深めていったようです。

元々美福門院と忠実ー頼長の摂関家父子とは関係は良好でした。
しかし、当時の摂関家内部で起こり始めた当時の摂政忠通(頼長の兄)と頼長の対立(*1)
そして1148年の近衛天皇への入内競争の際、忠通側に美福門院が肩入れしたことなどにより、美福門院と忠実ー頼長の摂関家主流の対立が深まっていきます。(*2)

それでもこの時点では、時の権力者鳥羽法皇は美福門院、頼長どちらにも肩入れせず両者の暴走を抑えていたようです。

しかし、1151年頼長が院近臣藤原家成の家を破壊するという行動をもつに及んで、鳥羽院は頼長を見放します。
この時点で美福門院の側に集まる院近臣と忠実ー頼長の摂関家との対立はかなり鋭くなったものと思われます。

そのような状況の時に南坂東は院近臣グループに接近し、義朝自身も院に接近するのです。
いつごろから義朝が院に接近したのかははっきりしていませんが、
私は大庭御厨事件の起きた1144年頃にはすでに院に接近を開始したものと見たいと思います。
というのは、その記事にも書かせていただきましたが、この事件の時、義朝の郎党は田畑目代と共に大庭御厨に乱入しています。
目代と結託したということは、国守の黙認があったと見るべきでその国守は院近臣だったようです。

*1 長年男子に恵まれなかった摂政忠通の後継者はその弟頼長と目されていたが、遅くになってから忠通に男子(後の摂政基実)が誕生したことから、頼長を摂関にしたい忠実と実子を後継者にしたい忠通との間に対立が起こってきた。

*2 忠実の肝いりで近衛天皇の元に皇后として入内したのが頼長の正室の姪多子。しかし、その直後今度は忠通の妻の姪の呈子が忠通の養女となり中宮として入内。
このことを怒った忠実は忠通を義絶。
しかし、忠通ー呈子の背後には美福門院の支援があった。この一件で忠実と美福門院の関係は悪くなった、と先述の元木氏は主張されておられます。

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