時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

大蔵合戦について その4

2008-10-08 05:43:40 | 蒲殿春秋解説
義朝は嫡子でなかったとはいえ、坂東で自らの勢力を拡大させる為に、当初は父の背後にいる摂関家の力を借りていたようです。
また、義朝が東国に下った時点では、上総相模などの国に対しての摂関家の影響力が強かったようです。

しかししばらくすると東国にも鳥羽院そして当時の帝近衛天皇生母の美福門院の影響が強まります。南坂東の国守も院近臣の顔が並んでくるようになります。

そうなると坂東の豪族達は「鳥羽院・美福門院接近」という路線にシフトしてきました。院政の力が坂東にも強く及ぶようになったようです。

元木氏は次のような事例をあげておられます。
1150年代に入ると相模国に後の八条院領となる荘園が続々と立荘されます。
八条院領は鳥羽法皇や美福門院の荘園を引きついて成立します。つまり相模国に院領美福門院領の立荘ラッシュが起こるのです。

また、このころ相模守は美福門院の乳母子が就任していました。
相模は義朝の根拠地といってもいい国です。
こうなると義朝も坂東における自分の立場を守るためには鳥羽院ー美福門院に接近するしかありませんでした。

色々な活動が功を奏したのかこの頃義朝は美福門院ー鳥羽院への接近に成功します。そしてそれは1153年義朝の下野守就任という形で実を結ぶのです。
下国とはいえ為義が長いこと手にすることのできなかった国守への就任です。
当時の下野国は院の知行国とみられています。下野守は義朝の院接近の証とも言えます。
しかし、このことが摂関家に近侍する父為義と義朝の間の政治路線の違いとなって大きな溝を生むことになってしまったのです。

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