時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

大蔵合戦について その7

2008-10-13 23:11:17 | 蒲殿春秋解説
そして、問題の久寿二年(1155年)8月16日事件は起こります。

武蔵国比企郡(場所については異説あり)の大蔵館にいた源義賢とその舅秩父重隆は源義平率いる軍勢に襲われ殺害されます。
そして、その子駒王丸(後の義仲)は命を狙われますが信濃へ落ち延びます。

軍勢の構成はよくわかっていないのですが、秩父重隆と敵対関係にあった畠山重能は従軍していたようです。

さて、武蔵国留守所検校職という在地の要職者を殺害したにもかかわらず義平らにはなんのお咎めもありませんでした。
その理由にある人物の存在があります。

この頃の武蔵守は藤原信説という人物でしたが、この人の兄に藤原信頼がいます。
信頼は前任の武蔵守ですし弟が現職の武蔵守ですから武蔵国衙に多大なる影響を与えているはずです。
信頼といえばこの大蔵合戦の四年後に起きる平治の乱の首謀者です。
そしてその乱において義朝や義平は信頼と行動を共にすることになります。

つまり、この大蔵事件は武蔵守藤原信説の黙認の元行なわれた可能性が大きいと見るべきだと思います。
武蔵国の豪族を従えるために、武蔵守の権威を義朝は利用したでしょうし、信頼信説側にしても国の支配の為に坂東に勢力を延ばしつつあった義朝を利用した面もあったでしょう。
この信頼と義朝の接近は平治の乱直前ではなくこの事件の頃からあったと見るべきでしょう。



この大蔵事件の後、殺害された義賢の弟頼賢が兄であり義理の父でもあった(義賢と頼賢は父子の契りを結んでいた)義賢の仇を討つ為に東国へ下ろうとしますが、その途上で院領を侵したとして、鳥羽法皇から義朝に頼賢討伐の命が下されます。
実際には頼賢が討たれることはありませんでしたが、この一件は都において院勢力の傘下に入り込んだ義朝の優位がこの事件に影響を与えているということを示しているのではないでしょうか?

さて、このようにして義朝ー義平ー畠山重隆方が勝利しますが、この勝利も長くは続きません。
その四年後の平治の乱において義朝と義平は没落し命を落とします。
その後は東国にも勢力を延ばしてきた平家が武蔵国の知行国主におさまります。
そうなると武蔵国の豪族たちはこぞって平家への接近を試みます。

そのような状況下において秩父一族の主導権は、重隆の系統にうつり治承の頃には重隆の孫の河越重頼が握っていたようです。
義朝ー義平と組んでいたことが重能にとっては不利になっていたのかもしれません。
しかし、東国の豪族は中々したたかです。治承寿永の乱が始まった頃は畠山重能は平家に従って都で大番役をつとめています。恐らくそれ以前から平家への接近を図っていたのではないでしょうか?転んでもあきらめず次なる手段を考えていたのではないかとも推察されます。

一方、義朝の没落に伴って失地回復したかに見える重隆子孫の河越重頼も、義朝の子頼朝の乳母である比企尼の娘を妻に迎えています。



このあたりの状況は複雑で私も掴みきれないのですが、一筋縄ではいかない武蔵国の豪族達の奥深さが垣間見える気がして非常に興味をそそられています。(終)

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