時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

1183年頼朝の幸運

2008-10-15 05:56:40 | 源平時代に関するたわごと
さて、延々と「大蔵合戦」のことを書かせていただきましたが、書いていて思ったことがあります。
それは、1183年の義仲の対立時に頼朝にとって比企氏、河越氏が味方であった、それも乳母関係で結ばれた強い関係であったことが彼を助けていたのではないかということです。

大蔵合戦の頃は河越重頼の祖父重隆は義仲の父義賢の舅で後ろ盾でした。
そして義賢は「比企郡」に住んでいました。(異説もあり)
つまり大蔵合戦の時点では、比企氏の勢力下にあった地域と河越氏は義仲の父の味方だったのです。

義仲は、挙兵するとまず父が最初の拠点とした上野国多胡郡に進出しました。頼朝が父義朝の縁故を辿ったのと同様に義賢もまたその父の縁故を尋ねていったのです。そうなると次に目指すのは武蔵国の河越氏の支配圏そして父が住んでいた武蔵国比企郡ということになるでしょう。
そしてもしその地域の者が義仲に与同したならば義仲は北武蔵まで進出して、現実に動いた歴史以上に頼朝を相当脅かす存在になっていたはずです。

しかしそうはならなかった。

武蔵国に進出する以前に、上野国に新田氏、藤姓足利氏が立ちはだかっていたこともありますが、河越重頼と比企氏が既に頼朝についてしまっていたという部分も大きかったのではないのかと思えます。
しかも、ただの臣従ではなく比企氏は乳母の家、河越重頼は乳母子の夫なおかつ頼朝の長男の乳母夫という強い関係だった。
そのような状況では、河越比企両氏は義仲につくことは考えられなかったのではないかと思えます。

乳母の縁が義仲の武蔵進出を阻んでいたのではないかとも思えるのです。
そして、義仲が父の故地であった北武蔵に進出できなかったことが、1183年の頼朝と義仲の対立に少なくない影響を与えたのではないかとも思えるのです。

頼朝はその生涯の間何度も命を落としてもおかしくない場面で助かるなどの「強運」の持ち主でもあります。その「強運」は生物的な生命危機だけでなくこのような、政治生命軍事生命における「勝負」の場面でも彼は有しているのではないかとも思えます。
もちろんその「運」を活かしきるだけの器量と努力があったと思いますが。

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