時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

玉葉 摂政基通寵愛される その3

2008-05-18 06:05:37 | 日記・軍記物
「治承三年の政変」の翌年「平家打倒」を呼びかける「以仁王の令旨」が全国に配られます。
それを受けて治承4年(1180年)の後半、各地で反平家の挙兵が相次ぎます。
平家は畿内の反乱勢力をなんとか鎮圧しますが、東国や九州の反乱勢力にまで鎮圧することはできません。
そのような折、治承5年(1181年)1月に院政を執っていた高倉上皇が崩御、閏2月平家の総帥平清盛が死んでしまいます。
この事態は後白河法皇の院政の復活をもたらします。
一旦幽閉されながらも、後白河法皇は再び政局の表舞台に躍り出ることになったのです。

清盛という巨魁が死去してのちは、平家の制約は受けつつも後白河法皇の存在感が徐々に増してきます。
一方この時点でも基通は摂政の座に居つづけることになります。

地方に反乱勢力をかかえながらも都における政治の実権は平家が握り続けるという状況は2年半ほど続きます。
しかし、寿永2年(1183年)7月、北陸において勢力を拡大した木曽義仲の進軍によって、都は義仲に攻め落とされそうになるという状況に晒されることになります。

この時点で平家は義仲との正面衝突を避け都を捨てて西国へ下るという選択をします。
その西国に下る際、平家は自らの正統性を主張するため
安徳天皇、後白河法皇、摂政基通を連れて都を去る事を決めます。

平家は安徳天皇と母后建礼門院徳子の同行には成功します。
しかし、後白河法皇と摂政基通を連れて行くことができませんでした。
後白河法皇は密かに姿をくらまし平家の手を逃れ、摂政基通も一旦は平家に同行しますが途中で平家から離れ行方をくらませてしまいました。

後白河法皇は平家を見捨てたのです。

後白河法皇、摂政基通の二者を欠いた平家は安徳天皇を擁するものの、その政権の正統性を著しく欠くことになり、
それがその後の平家を追い詰める要因にもなっていきます。
廷臣たちの多くは都に残り、新たに後鳥羽天皇が即位することになります。
そして、後鳥羽天皇の摂政には基通が就任します。

それにしても、平家に意趣を持ち平家を見捨てた後白河法皇院政下にて,
なぜ平家と縁の深かった基通が、摂政の座に留まることができたのでしょうか。
その答えの一つが「玉葉」に記載されています。

すいません、まだ続きます。

前回  次回

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ