時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

玉葉 摂政基通寵愛される その6

2008-05-22 05:44:32 | 日記・軍記物
一方基通はなぜ後白河法皇に接近を求めたのでしょうか。

平家に先は無い、と基通が読んだというのが最大の理由だったと思います。何しろ、治承四年以降各地方の反乱軍に有効な手立てを打つことができず、
征伐に行った義仲に負け続けついに都が危機に晒されるという状況に陥ったのですから。
平家が頼りにならないならば院に擦り寄るしかなかったのでしょう。

そして、舅の清盛が既に死去してたいう点も基通が離脱しやすい状況を作っていたと思われます。
当時は親の意向に逆らうということは、道義的に許されないものがある時代でした。親には「妻の両親」も含まれます。
しかし、妻の父清盛は死去、妻の母は誰かは不明ですが、清盛の正室時子ではなかったようです。また、養母盛子も時子の子ではないようです。養母と妻が時子の子で無い以上基通が平家の代表者の一人である時子に従う必要はありません。
そして、妻の父母に従う義務はあっても妻の兄弟に従う義務はありませんでした。
つまり清盛が死んだ時点で基通は平家から有る程度自由に動ける立場になったといえます。

平家から離脱しても、平家寄りだった今までの関係を考えると
義仲入京後、基通が叔父の基房が清盛にやられたことと同じ事をされる(解官、流刑)可能性が大きかったと思われます。
基通は自らの身と地位を守る為には院の助けが必要だったのでしょう。

何も体を差し出さなくても、と思わないでもないですが
平家の支援を受け続けた基通が、今まで「治承三年の政変」で幽閉の憂き目に合わされ、その後も平家から色々な制約を受けていた後白河院の信頼を得るためには、
通常の君臣の間柄では何か足りないものがあったのではないかと推察されます。

その通常以上の信頼を得る関係
それが「男色」であったと考えられます。
後白河院としても利用価値の高い基通をひきつける為にも
その行為は必要なものであったと思われます。

まさに、基通は「体を張って」自らの地位を守ったといえるでしょう。

ここまで、書くと政治的利害だけで男色関係を結んだのかといわれそうですが
底辺にそれがあっても、やはり「愛情」がなければできないことであると思います。
とにかく、法皇と基通はそのような関係になりましたが
そのことはその後の政界にも多少の影響をもたらすことになるのです。

また続きます。



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