時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

玉葉 摂政基通寵愛される その5

2008-05-21 05:20:09 | 日記・軍記物
「玉葉」の記載を信じるならば、後白河法皇と基通が恋愛関係になり男色を開始するのは、寿永2年(1183年)7月中のこととなります。

その頃の都の状況は
木曽義仲が平家を次々と打ち破って都に間もなく押し寄せるという状況でした。
そのような緊迫した状況下二人は関係を結びます。

では、何ゆえ後白河法皇は基通を寵愛するようになったのでしょうか。
以下は私の推測です。
情誼的な面から見ると
基通の実母は藤原信頼(平治の乱の首謀者)の妹です。
基通は後白河法皇がかつて「あさましいほど寵愛した」藤原信頼の甥にあたるのです。
その信頼が持っていた法皇をひきつける何かを基通が持っていた可能性があります。

しかし、私は情誼的理由以上に政治的な理由があったものと考えます。
この頃すでに後白河法皇は平家を見限る決心をつけていたと推測します。
その時に摂政基通が接近してきた、これを好機を見たのではないかと思います。
うまくいけば基通が平家から離れて自分の味方につくかも知れないと。

平家の外孫である安徳天皇が平家から離れるとは考えられません。
後白河法皇が平家を見限るということは平家が擁する安徳天皇との対立を意味します。
天皇を決める権限をある治天の君とはいえ、現天皇と対立関係に立つということは
後白河法皇には政治的にマイナス要因を抱えることになります。
しかし、現職の摂政が安徳天皇から離れるとなれば、
安徳天皇の権威は大きく損なわれます。
さらに摂関家とつながりの深い廷臣たちを後白河法皇方に引き寄せることが期待できます。
法皇が安徳天皇に代わる天皇を指名することがたやすくなります。

また、基通にとっては幸運なことに、摂関家では基通がもっとも摂政にふさわしい存在であるという状況もありました。
基通の前に摂関の地位にあった叔父の基房は「治承三年の政変」の時点で出家しており、摂政の地位につくことはできません。その息子の師家はまだ12歳の少年です。基房の弟の兼実は傍流においやられていました。
後白河法皇にとっては、摂関家を取り込むには基通とつながりを深める以外に選択肢はなかったのです。

また、平家とつながりの深い基通からなにか情報を聞きだせるという期待もあったかも知れません。二人のつながりが平家に発覚しても「恋愛だ」と言い張ることができます。

そこへ基通が転がり込んできた、それを法皇は見逃さなかった
しかも基通はかつて愛した男の甥。
そのような条件が重なって後白河法皇は基通とその関係になった

と個人的に考えます。

また続きがあります。

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