時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

玉葉 摂政基通寵愛される その2

2008-05-17 05:47:58 | 日記・軍記物
さて、暫くの間摂関の地位には基通の叔父の基房がいましたが、その叔父さんの地位を奪い取るきっかけが暫くするとやってきます。

そのきっけかけは皮肉にも養母の盛子の死でした。
基実の未亡人で基通の後見人という名目によって、摂関家の所領の殆どは盛子が管理していました。(実際に差配していたのはその父清盛ですが)
摂関の地位を得たものの経済的なものを、盛子ー基通に奪われていた基房はこのことを大変不満に思っていました。

そのような折に盛子が死んでしまったのです。
すると直ぐに後白河法皇が盛子が管理していた所領を全て取り上げます。
基通が盛子が管理していた膨大な摂関家の所領を相続できなくなります。
後白河法皇の背後には、関白基房がいたようです。
基房は経済的な面でも摂関家を完全にその手の中に収めようとしたのです。
基房の立場に立てば、摂関を継承した時点で摂関家領も自分の物になるはずなのに
盛子に横領されたという想いがあったのかもしれません。

後白河法皇ー関白基房による摂関家領の差し押さえ、
このことに怒りを覚えた人物がいます。
盛子の父平清盛です。
その頃には実質的な管理をしていた平家にとっても摂関家の所領は重要な収入源の一つになっていたようです。それを奪われるというのは清盛にとっては大打撃だったと思われます。
同じ頃、後白河法皇は他の面でも清盛と対決姿勢を深めていました。
それに他に色々な要因も重なって清盛は廷臣達が想像もしなかったある強硬手段に出ることになります。

治承三年(1179年)11月清盛は兵を用いて後白河法皇を幽閉、後白河院政を停止します。同時に関白基房を辞めさせ流罪にします。(「治承三年の政変」とか「清盛のクーデター」とか呼ばれています。)
基房の後釜には、清盛の娘婿であり義理の孫でもある基通が座ります。
翌年清盛は娘中宮徳子が産んだ安徳天皇を即位させ、自身の婿である高倉上皇に院政をとってもらうようにします。そして安徳天皇の摂政には基通が就任しました。
清盛は、帝、院政をとる上皇、摂政すべてを身内で固めたのです。

後白河法皇の院政停止、叔父の基房の失脚という事態の中
清盛の後援を得て基通は摂関の地位を手にします。
このまま順調に行けば、基通の摂関の地位、その所領、藤原家の氏の長者としての地位は安泰かと思われました。
しかし、それから半年もしない間に、事態は急変して基通も動乱の波に洗われることになるのです。

すいません、今日も終わらないどころか「玉葉」の当該記事にたどり着けませんでした。また明日へと続きます。

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