時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

現代語訳吾妻鏡 宗盛のお手紙2

2008-02-24 07:11:03 | 日記・軍記物
さて、もう一つ宗盛の手紙の中で気になる部分があります。

「平家も、源氏も互いに遺恨はないのです。平治年間に(藤原)信頼卿が反逆した時は、院宣によって追討がなされたのであり、(源)義朝朝臣は信頼の縁坐によって、あのようなことになったのです。これは私的な宿意によるものではなく、(平氏が)どうこうしたわけではありません。宣旨・院宣がくだされれば別ですが、そうでなければ、総じて源平両氏に互いに宿意はありません。ですから、(源)頼朝と平氏が合戦したということは、一切思いもよらないことでした。」(「現代語訳吾妻鏡」から抜粋)

この部分も平宗盛の修辞かもしれません。けれども元木泰雄氏や河内祥輔氏らによって進められた「平治の乱」の見直しという部分を考えると妙に納得させられる文章です。

というのは元木氏らによると平治の乱では
従来の
信西・平清盛連合vs藤原信頼・源義朝連合という図式ではなく

信西に対する反発や院近臣、天皇親政派など諸派渦巻く朝廷内部の争いの中
藤原信頼の主導で発生したという見方となっています。

そして、平清盛はいずれの派閥にも属さない中立派。後の政局の変化で天皇親政派と手を結んで二条天皇を六波羅に迎え入れることになります。

源義朝は数年にわたる信頼との関係の深さから協力し
義朝は信頼に対して従属的立場に立たされていた
という見方がされているようです。
さらに、義朝と共に信頼陣営に加わった源光保や源頼政と義朝の関係は提携も連合も、ましてや義朝による同族支配などは全く無く夫々独自の意思で信頼の傘下にいたということになります。

そのような見方をすると従来メインとされていた「清盛vs義朝」という点は
平治の乱における最終局面の合戦部分のみに見られるだけで
「平治の乱」の勃発という部分においてはほとんど関係ないということになります。

平治の乱に関する以前の記事

そのように見ると宗盛の手紙のこの部分は実は平治の乱の本質を突いていたではないかと思わせられる所があります。

といっても、従来中立であったはずの清盛に攻め立てられて結果的に父を殺され、自分も処刑寸前になった挙句流罪になった頼朝が清盛に対して何の遺恨も持たなかったかといえば、決してそうとは言い切れないような気もしますが・・・

さて、この宗盛の手紙の末尾に二月二十三日とありますが
これも編者注釈をみると「吾妻鏡」にありがちな日付の錯誤が記されています。
手紙の冒頭に 「本日(二十一日)」と書かれているのです。

つまりこの手紙を出した日付が三月二十一日か三月二十三日の両方が同じ手紙の転記に書かれているのです。
日付の錯誤の多いこの時期の吾妻鏡らしい現象だと思います。

前半

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

現代語訳吾妻鏡 宗盛のお手紙1

2008-02-24 07:04:53 | 日記・軍記物
昨年第一巻が出ていた五味文彦・本郷和人編「現代語訳吾妻鏡」(吉川弘文館)
先日第二巻が発売されたので早速購入しました。

読み下し文のある当時の文献は(私の知る範囲では)
「全訳吾妻鏡」と「訓読玉葉」がありますが
両者を読み比べてみると「玉葉」はスッキリとして読みやすのに対して「吾妻鏡」のほうは非常に読みづらいし意味も判りにくいところが随所に見られます。
というわけで、このたび現代語で「吾妻鏡」が発行されたということはとてもありがたいことだと私は思うのです。

さて、その「現代語訳吾妻鏡」第二巻で「全訳」では見落としていた部分が現代語になって目に付くところが何箇所かあったので折に触れて(不定期に)書かせて頂きたいと存じます。

今回は一の谷の戦いの直後に出された平宗盛のお手紙です。
このお手紙は「現代語訳」の中では5ページに亘る長文となっています。
その内容は序盤は都落ちした後何度か使者を送り続けた
という後白河法皇からのメッセージに対する返事
中盤は一の谷の戦いに関しての弁明と抗議が書かれています。

目を引いたのが終盤です
「(私は)仙洞御所に日夜お仕えして以降、官職のことも、出世のことも、我が君(後白河院)の御恩にどう報いたらよいか考えてきました。しずくや塵のような小さな事であっても疎略に思ったことはありません。」(「現代語訳吾妻鏡」から抜粋)
という文章から延々と後白河法皇に対する忠誠心を書き連ねています。

そして
「この五、六年の間、洛中洛外とも安穏ではなく、五畿七道はことごとく滅亡状態にあります。(略)眼前には竈の煙も耐えて見えず、並ぶこと無い愁い、二つと無い悲しみであります。和平が成立すれば、天下は安穏となり、国土は静まり、書人は快楽し、上下の人々が歓娯することでありましょう。」
とあって末尾に後白河法皇に和平や安徳天皇の無事な帰還を保証する院宣の発行をお願いしています。

この文章を読む限りでは宗盛は法皇には忠実で戦乱によって多くの人々が苦しむのを憂いている「良い人」です。
もっとも政治的お手紙ですから文章をそのまま受け取ることはできないですし手紙を出すために文章の上手い人に書かせたでしょうから宗盛の言葉そのものではないでしょう。
けれども、このような文章が書かれたということは宗盛の意思の中に法皇に対する忠誠心と戦乱によって多くの人が苦しんでいる現状にたいする懸念があったのではないかとも思えます。
ドラマなどではとんでもキャラにされがちな宗盛ですが、実際には「いい人」だったのではないかとも思えます。
(長くなるので記事を二つに分けます)後半

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ