時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

吉記 山木兼隆

2008-02-26 05:39:13 | 日記・軍記物
最近にらめっこをしている「吉記」(藤原経房の日記)。
その記事に「あの人」が載っていました。
「あの人」とは、頼朝の挙兵で一番に血祭りに挙げられた山木兼隆です。
その記事は安元二年(1176年)四月二十七日後白河法皇が比叡山に受戒に向かう御幸のところです。
そのお供の人々の中に「次廷尉二人、右尉平兼隆」とあります。
右尉とは右衛門尉の略だと思われます。
つまり「侍」身分として後白河法皇に供奉していたものと思われます。

ちなみにこの行列には関白基房や、内大臣藤原師長以下朝廷のトップクラスの人々が
ズラーッとお供しています。
その中で、法皇のお車の直ぐ側に武官としてお供していた兼隆は晴れがましい場所にいたと思われます。

さて、この兼隆ですが、治承元年(1177年)5月まで検非違使として都にいたという記録が
「玉葉」にあるようです。(「源平闘諍録」の解説より、「玉葉」のその部分は私は未読です
近く確認しようと思います。)

そうなると頼朝政子の結婚にまつわる「あの有名エピソード」の話がかなりの眉唾ものに
なると思われます。
知っている人は知っておられると思いますが念のためその「エピソード」を書かせて頂きます。

━━頼朝と政子が密かに交際をしていることが政子の父北条時政に知られることになる。
流人頼朝を婿に迎えたくない時政は一計を案じ、伊豆目代山木兼隆に政子を嫁がせることにする。
しかし、頼朝とどうしても一緒になりたい政子は兼隆との祝言の途中で
山木館を抜け出して伊豆山にいる頼朝の元に駆け込んで、その後父親に頼朝との結婚を認めさせた。━━

で、なぜこのことが「眉唾もの」になるのかといえば次のことが考えられるからです。
まず、頼朝政子の間に産まれた大姫が1178年生まれだと推測されています。
そうなるとその前年くらいには頼朝と政子は結婚もしくは交際していたのではないのかと思われます。
兼隆が伊豆に流罪になったのは1177年8月以降ですから
頼朝と政子の結婚直前にギリギリ時政や政子と接触を持つことは可能だったかも知れません。

しかし、兼隆はあくまでも「流人」として伊豆にきたのでありますから
その頃の条件は流人である頼朝と同じです。
当時の伊豆の知行国主は源頼政。頼政が以仁王の挙兵で敗死したのち知行国主は清盛の義弟平時忠に変更になります。
山木兼隆は目代として頼朝挙兵時の標的となりますが、
知行国主が変更後(それも敵対的変更)の目代ですから、頼政が知行国主だった時点で兼隆が目代だったとは
考えにくいものであると思われます。おそらく1180年の5月の知行国主変更時点で目代になったのでしょう。
つまり、1177年-1178年時点では兼隆は単なる「流人」です。

平家縁者として頼朝より優位にあったのではないかとも思われるかも知れません。
しかし一応「平」と名乗っていますが
清盛などからは血縁的にも遠く、父信兼は保元の乱では清盛から独立した軍事貴族として
参戦していますし、その後木曽義仲との戦いにおいて信兼は義経に協力した形跡があります。
また、官位も「和泉守」などの受領にすぎません。
兼隆は平家に近い存在だとは考えられません。近かったとしても平家郎党の平貞能などと同レベルです。
それに流罪になった原因が「父に訴えられた」ですから
仮に平家に近い存在であったとしても「父」から訴えられた以上
その近さも無効なものと思われます。

つまり、頼朝と政子が結婚したもしくはしようとしていた時点では
兼隆も頼朝も「流人」として似たような境遇であったわけです。
兼隆に強いて強みがあるとするならば
頼朝は十数年も流人生活をしていて、赦免になる可能性は少ないと見られていたのに対し
兼隆は流人になって日が浅く都に縁者もいることから赦免になって都に戻る可能性がまだあったというところでしょうか。

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