時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(三百二十四)

2008-12-14 09:19:04 | 蒲殿春秋
その後源頼朝は書状を書いた。
宛先は頼朝に接近を図っている院の側近である。
書状には次のように記されている。

「木曽次郎義仲というものが上洛いたします。
私の代官として平家を討伐するため北陸道から発向いたしました。
また、安田義定というものが東海道から上洛いたします。
義定もまた私の代官として上洛するものです。
かの者共が上洛した際には、よきお計らいを賜りたくお願い申し上げます。」

木曽義仲も安田義定も頼朝の意志とは無関係に挙兵した独立勢力である。
頼朝に従っているわけではない。
書状はこのよう事実を完全に無視した内容である。

しかし、頼朝はこのような書状を送った。

━━ 都の公卿や院近臣たちは東国の実態を知らない。

そう踏んで頼朝はこの書状を送った。
東国の状況をよく知らない貴族達に自分は義仲や義定よりも上位の者であると宣伝しておくのである。
事実、義仲・義定は無位無官であるのに対して頼朝はかつて従五下右兵衛佐であったので
このような宣伝は「事実」として都の貴族たちに受け入れられるであろう。

東国では、木曽義仲、甲斐源氏、頼朝、そして奥州藤原氏という大勢力が存在する。
この実態を東国に住するものたちはよく熟知している。

しかし都の貴族達は頼朝や甲斐源氏の武田信義の名を知ってはいても
源義仲(木曽義仲)の名は知らない。
今回の北陸出兵の際の追討の宣旨にも「源頼朝・源(武田)信義」は謀反人として記されているが
「義仲」という文字は一つも無い。

都の人々は「義仲」という名前を知らぬのである。
砺波山(倶利伽羅峠)の戦いで平家が大敗した際に、都の人々は「義仲」という名を初めて耳にした。

頼朝の元には「義仲とは何ものぞ?」という都の貴族達の問い合わせが殺到してきているのである。
木曽義仲は都の貴族達、少なくとも院近臣にとっては無名の存在である。
そのような都の状況を熟知した頼朝の書状なのである。

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