時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百八十五)

2007-10-13 06:00:02 | 蒲殿春秋
元々頼朝と後白河法皇とはつながりがあった。

頼朝は伊豆に流される前、後白河法皇の姉宮上西門院に仕えていた。
上西門院は今も健在で、後白河法皇はこの同母の姉宮を母のように慕っている。
天皇として即位する前から法皇は姉宮のところへしばしば顔を見せていた。
姉宮に仕える者にも自然顔を会わせる機会が多い。
上西門院に蔵人として仕えていた少年の頃の頼朝を後白河法皇は覚えていた。
また、頼朝と同時期に上西門院に仕えていた者は
現在後白河法皇の元に出入りする機会も多い。

また、保元の乱においては自らの元に参陣し、
自軍の勝利に貢献した頼朝の父義朝を後白河法皇は自らを支える武力として頼りにしていた時期もある。
また、頼朝の母方の縁者は男性は院の北面を勤めるものが多く、女性は上西門院などに仕えている。
頼朝の母方熱田大宮司家は院の近臣なのである。
また、頼朝の配下にいる者にも院につながりを持つものもいる。

これら、後白河法皇ならびに上西門院への人脈を駆使して
頼朝は都の情勢を入手しつつ、院への接近を図った。
この人脈は東国で挙兵した他の勢力━━甲斐源氏や木曽義仲が持つことは不可能だった。

院への人脈という点では頼朝は他の反平家勢力の旗頭よりはるかに優位にあった。

挙兵直後から頼朝は後白河法皇へ接近を図っていた。
頼朝から法皇への取次ぎを頼まれていた院近臣たちは
当初は反乱者頼朝に関わること自体を拒否していた。
しかし、頼朝が坂東で勢力を拡大し、全国各地で反平家の反乱が起こるようになると後白河法皇の近臣達は動揺し密かに頼朝と連絡をとるようになる。

治承五年(1181年)院政を執っていた高倉上皇の崩御、政治の実権を握っていた平清盛の死去。平家政権を支えていた二つの柱が崩れ去る。
畿内の反乱は鎮圧されたものの東国、熊野、伊予、筑紫の反乱勢力は活発
鎮圧されたはずの畿内にも穏やかならぬ動きが見える。
そのような状況下では、政局はどのように動くか判らない。
院近臣は頼朝との連絡を絶やさないようになった。

そして、決定的な事件が起こる。
治承五年(1181年)六月、平家が最も頼りとしていた越後の雄━城助職が
信濃国横田河原において木曽義仲らの信濃反平家勢力に完敗し、越後での勢力を失ってしまった。
その後、越後は木曽義仲らの版図に入る。
横田河原の合戦は北陸各地の反平家勢力の活動を惹起させた。

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