時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(百九十五)

2007-10-25 05:02:30 | 蒲殿春秋
所領を巡る訴訟の解決は大変な作業である。
遠江にあっても安田義定がその裁定に頭を悩ませていたこともあった。
義定が下した決定に不服を申した者もいた。
その後その不服を申したものと義定の関係は良いものではない。
訴訟の裁定をいうものは、その地を勢力下に抑えるためには必要不可欠なことであるが
取り扱いを間違えると大変なことになるのである。

━━兄上も大変だ

範頼と全成との話はやがて他愛の無いものとなっていく。
はやりの今様、大蔵御所に出仕するものたちの噂、
鎌倉に集うものたちがまたがる馬のよしあし等々。

そこに、全成の妻が現れた。
全成の表情が柔らかいものとなった。
このような全成の顔つきを見たのは始めてである。
色々な物事に対して常に冷静な反面どこか冷たさと人を寄せ付けない何かを持つ
この弟は美しい顔立ちのをしていても、見せる表情はどこか固かった。

幼くして父を失い、寺に預けられ、再婚した母を憎む全成は
これまで深い孤独の中にいた。
しかし、妻を得て自らの分身ともいえる新しい命を授かることで全成は孤独の他に世界が有ることを知ったようである。

全成と対座した範頼は
「よい北の方を迎えましたな。」
と言う。
「はい、妻はまことによきものにございます。」
と、ぬけぬけと言う。

━━ 妻、か。

全成の家からの帰り道範頼はふと「妻」というものを考えた。
心をときめかせた女というものがいなかったわけではない。
今まで全く女というものを知らなかったわけではない。
妻を迎えたりどこかに婿に入る機会が全く無かったわけではない。
けれども現在の範頼は一人身である。

元服するくらいの子供がいても良いはずのこの年まで妻という存在は一人もいない。
子もいない。
そのことに対して今までそんなに深く考えたことはない。

しかし気が付いてみれば、兄弟の中で一度も妻を迎えたこともなく
子もいないのは範頼だけである。

妻を迎えるということは必ずしも幸せを意味するものではない。
けれども、鎌倉に来て見せられてしまったものが範頼の心をうずかせた。
あの全成の中から固さをいうものを取り去った「妻」という存在
頼朝が御台所政子と一緒にいるときに見せた「幸福」の空気
別れさせられた妻子を思う義経の気持ち

━━妻、か。

範頼は今まで感じたことの無い孤独を始めて知った。

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