潟は、うずめられてしまったのである。
水田をふやしたいというのは稲作が基礎になっている日本の社会的本能のようなもので、秋田藩の時代にもそういう案があったらしい。
が、技術がなかった。
戦後に、その技術を得た。
昭和三〇年前後の日本は、紀元前に弥生式稲作が伝来して以来の中になおくるまれていた。いわば二千年の米作りの歴史の最末端にあったといっていい。
日本にあっては、米作りこそ正義だったのである。あるいは倫理でもあり、宗教でさえあった。
敗戦から五、六年たって、八郎潟を国営で干拓して米を作ろうという考えがおこったとき、
――だめだ、米作万能の時代は、やがて去るだろう。
という予言をした人は、いなかったのではるまいか。
秋田市に農林省干拓事務所がおかれたのは昭和二七年だった。たれもが,飢えの記憶をもっていたし、米はタカラモノだという伝統の信仰をもっていた。
一方において,やがて国民を食わせることになる国産の乗用車が作られはじめたが、その出来栄えにもその将来についても世間の評価はつめたかった。
日本の工業と技術が、世界に還流しているドルを大量に日本にひきいれ、アメリカ経済にまで影響をあたえる時代がくるなど、夢にも予測されていなかった。むろん、経済学者のすべてをふくめてである。
(司馬遼太郎著『街道をゆく-秋田県散歩』より)